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小説 吉田松陰 座右の火 1830-1859  作者: 山田 誠一


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第三章:浦賀の海は黒く煙る

嘉永六年六月(1853年)、相模国浦賀の海に現れた四隻の黒船は、江戸の朝野を大混乱に陥れた。巨大な蒸気船が吐き出す黒煙と、威嚇のために放たれた祝砲の轟音は、二百有余年の太平に浸りきった幕府の無力さを白日の下に晒したのである。


この時、二十四歳となった吉田松陰は、恩師・佐久間象山と共に浦賀の海岸に立っていた。

眼前に浮かぶ異国の巨艦を睨み据える松陰の眼は、驚愕ではなく、冷徹な分析に彩られていた。


「これが、近代というものか」

松陰は呟いた。山鹿流の兵法書に書かれた「陣形」や「弓鉄砲」の戦術など、この圧倒的な鉄の塊と巨砲の前には一文字の価値もないことを、彼は瞬時に理解した。


日本の知性たちは動揺していた。ある者は攘夷(異国を打ち払うこと)を叫んで刀を抜き、ある者は恐怖のあまり幕府の弱腰を呪った。しかし、松陰の「思考の流れ」は、それらのどれとも一線を画していた。


松陰の判断基準は、常に実証主義に基づいていた。

(敵を打ち払うにせよ、和親を結ぶにせよ、我らは敵の正体を何も知らぬ。異国の優れた学問、航海術、大砲の鋳造法、そして彼らの社会の仕組みを内側から学ばねば、この国を守ることは叶わぬ。ならば、今取るべき道は一つしかない。敵の懐に飛び込み、その知を盗むことだ)


それは、幕府の法を完全に超越した、極めて危険な決断であった。当時、日本人が幕府の許可なく海外へ渡航する「国禁」を犯せば、その罪は一族郎党に及ぶ死罪と定められていた。


しかし、松陰の胸中にあったのは、己の生への執着ではなく、日本という国家の「死」への危機感であった。

「一命を賭して世界のことわりを学び、それを日本に持ち帰る。もし捕らえられて死すとも、我が志が天下の義士に伝われば、それは無駄死にではない」

これこそが、彼の死生観の核心であった。


松陰はすぐに行動を起こした。彼はただ無謀に海へ飛び込んだのではない。綿密な協調と構造的配置を試みた。まず、同藩の宮部鼎蔵や、師の象山にその意図を伝え、自らが海外で学ぶことの意義を組織的に位置づけようとした。象山もまた、松陰の熱意に動かされ、密航を促す詩を贈って彼を激励した。


最初の機会は、同年九月、長崎に露西亜の使節プチャーチンが来航した時であった。松陰は長崎へと急行したものの、船は出発した直後であり、この試みは不発に終わる。


しかし、天は松陰に休息を与えなかった。翌嘉永七年正月(西暦千八百五十四年)、ペリーが約束通り、再び複数の軍艦を率いて江戸湾(横浜)に現れたのである。


「今度こそ、機を逃してはならぬ」

松陰は、同じく海外雄飛の志を抱く足軽出身の長州藩士・金子重之輔(重輔)を伴い、横浜へと向かった。金子は、身分は低くとも松陰の思想に心底共鳴し、影のように従う忠実な男であった。


三月二十七日の深夜、激しい嵐が下田の海を揺らしていた。

松陰と金子は、暗闇に紛れて海岸から小さな伝馬船(木造の小舟)を漕ぎ出した。目指すは、沖合に錨を下ろしている亜米利加艦隊の旗艦ポーハタン号である。


怒濤が小舟を弄び、冷たい海水が体力を奪う。かいが折れ、素手で水を掻きながら、二人は死に物狂いで前進した。生と死の境界線上で、松陰の頭脳は冴え渡っていた。恐怖に打ち勝ったのは、「己がやらねば、日本は滅びる」という至誠の念であった。


ようやく旗艦の縄梯子に取り付き、甲板へと這い上がった二人の姿は、亜米利加の水兵たちを驚愕させた。衣服は濡れそぼり、帯刀した二人の日本人が、必死の形相で「渡海(海を渡りたい)」と訴えたのである。


しかし、歴史の女神は冷酷であった。

ペリーは、丁度その時、幕府との間で「日米和親条約」を締結したばかりであった。ここで公式に日本政府(幕府)の法を破る密航者を匿えば、条約交渉が水泡に帰す恐れがある。ペリーは、二人の志に深く同情し、その旺盛な知識欲を称賛しつつも、人道的な拒絶を下した。


「そなたたちの勇気は認める。しかし、我々は公式な手続きを踏まぬ者を乗せるわけにはいかない。直ちに陸へ戻りなさい」


拒絶された松陰と金子は、再び暗い海へと突き戻された。小舟は波にのまれ、這う這うの体で下田の海岸へと打ち上げられた。


翌朝、下田の浜辺で松陰は静かに思考を巡らせていた。

(密航は失敗した。このまま逃亡し、潜伏して生き延びる道もある。しかし、それではただの犯罪者として命を擦り減らすだけだ。我らの行動は、私利私欲のためではない。天下の公道のためのものだ。ならば、自首し、幕府の役人の前で堂々と我が志を申し立てるべきではないか)


松陰は逃げることを潔しとせず、自ら下田の役所へと歩を進め、捕縛された。

あえて取った危険の結末は、冷たい獄舎への監禁であった。


客観的にこの事件を俯瞰すれば、それは一人の誇大妄想的な青年による、無謀な法破りの失敗に過ぎないかもしれない。現に、幕閣の多くは松陰を「国を騒がせる狂人」として厳罰に処すべきだと主張した。


しかし、マシュー・ペリーはその航海日記に、この時の松陰たちについて驚くべき言葉を残している。

「この不幸な二人の行動は、日本人の特質を厳密に示している。もしこの国の人々が彼らのようであるならば、日本の未来は極めて明るく、近いうちに世界の先進国と肩を並べるに至るだろう」


松陰が命を懸けて蒔いた「密航」という破天荒な行動の種子は、不条理な現実の壁に阻まれて潰えたかに見えた。しかし、その至誠の残響は、下田の狭い牢獄を越えて、やがて日本国中の志士たちの魂を激しく揺さぶり始めることになる。


江戸の伝馬町牢屋敷へと送られる道中、松陰は、自らの真の戦いが、ここから始まることを確信していた。


次章、第四章へ続く。

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