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小説 吉田松陰 座右の火 1830-1859  作者: 山田 誠一


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第二章:二十二歳の夜、藩の手形が来ない

嘉永四年(1851年)、江戸。

将軍のお膝元であるこの大都市は、諸藩から集まった有為の士の熱気に満ちていた。二十二歳となった吉田松陰は、長州藩の公認の留学生としてこの地を踏み、生涯の師と仰ぐべき男の門を叩いた。


信濃国松代藩士・佐久間象山。

象山は、東洋の道徳を守りつつ、西洋の優れた科学技術を導入すべきだという「東洋道徳・西洋芸術」を唱える、当代随一の先覚者であった。象山の塾で、松陰は旧来の兵学がいかに無力であるかを冷徹に突きつけられる。


「今の日本に必要なのは、畳の上の問答ではない。大砲の鋳造、洋式軍艦の建造、そして世界の大局を見る眼だ」

象山の峻烈な言葉は、松陰の胸に深く刺さった。松陰は、机上の学問を捨て、現実に即して物事を判断する「実証主義」の重要性を、この師から骨の髄まで叩き込まれたのである。


この江戸の地で、松陰は東北の雄・水戸藩の学者たちとも交わり、国防の危機がすぐそこに迫っていることを痛感する。折しも、北の海からは露西亜ロシアの船が南下し、南からは亜米利加アメリカの影が忍び寄っていた。


「じっとしてはいられぬ。我が目で東北の水野(沿岸)を確かめ、防備の様を見ねばならぬ」

松陰は焦燥に駆られた。そして、水戸藩士の宮部鼎蔵らと共に、東北地方への遊学を計画する。


しかし、ここに過酷な「時代の制約」が立ち塞がった。

当時、藩士が自らの領国を越えて旅をするには、藩の公式な許可証である「過書(通行手形)」が必要であった。松陰は藩に申請を出したものの、期日になっても江戸の長州藩邸から許可が下りない。約束の出発日は、嘉永四年(1851年)十二月十四日。その日は、四十七人の赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りを果たした「義」の日であった。


宮部らは言う。

「松陰殿、手形が来ぬのなら、我らだけで行く。貴殿は藩の許しを待たれよ」


ここで松陰は、生涯の行く末を占う最初の重大な「決断」を迫られた。

藩の法に従い、手形を待つべきか。それとも、法を破ってでも約束の日に旅立つべきか。


現代の感覚からすれば、数日待てば済むことと思われるかもしれない。しかし、当時の武家社会において、藩の許可なく境界を越える「脱藩」は、死罪にも値する重罪であり、実家の杉家や吉田家をも破滅に追い込みかねない危険極めて高い行為であった。


松陰の脳裏に、幼き日に叔父・玉木文之進から受けた鉄拳の記憶が蘇る。

「公のために、私の都合を捨てよ」


松陰は深く思考した。

(藩の法は、長州という一国を守るための『私法』に過ぎぬ。今、迫りつつある異国の脅威は、日本という国全体の危機、すなわち『天下一の公事』である。一藩の小法に縛られ、天下の大事を失うことこそ、武士の不忠ではないか。また、友との約束を違えることは、至誠に反する)


松陰は、あえて「危険」を冒す道を選んだ。手形を持たぬまま、江戸の藩邸を飛び出したのである。これが、彼の最初の脱藩であった。


この無謀とも思える行動の裏で、松陰は冷徹な「対策」をも講じていた。彼は、自分がただの無法者として逃亡したのではないことを証明するため、長州藩の重臣宛てに、なぜ自分が旅立つのか、国防の緊急性を説いた詳細な建白書を書き残した。命を捨てる覚悟はあっても、無駄死にするつもりは毛頭なかった。己の行動の意味を、後に続く藩の仲間たちに伝えること。それこそが彼の計算であった。


東北への旅は、過酷を極めた。水戸を経て、会津、弘前、そして本州の北端である竜飛崎まで、松陰は雪深い道を歩き続けた。


客観的にこの旅を俯瞰すれば、それは一見、一人の若者の無許可の旅に過ぎない。しかし、歴史の必然性という視点から見れば、この時、松陰という個人の魂が、長州という「点」から、日本全体を覆う「面」へと拡大していく重要な過程であった。彼は行く先々で、海岸線の防備がいかに脆く、幕府の世が内側から腐りかけているかを実地に検分した。


嘉永五年四月(1852年)、旅を終えた松陰は、自ら萩へと戻り、藩の裁きを待った。

待っていたのは、峻烈な現実であった。長州藩は松陰の罪を重く見なし、武士の身分(士籍)を剥奪し、世禄(給与)を没収した。天才と謳われた吉田家の家名はいったん断絶し、松陰は一介の「浪人」へと落とされたのである。


杉家の実父・百合之助は、黙って松陰を家に入れた。

「お前の志は分かっている。だが、法を破った代償は重い。これからは、ただの人間として、いかに生きるかを考えよ」


身分を失うということは、当時の社会においては「死」に等しかった。藩の公職に就くこともできず、意見を述べる資格すら失ったのである。周囲の親族からは白眼視され、松陰の未来は完全に閉ざされたかに見えた。


しかし、松陰の精神は折れなかった。

(身分が何だというのだ。形骸化した武士の肩書きを失ったことで、私はかえって、何の制約もなく天下の事を考えられる自由を得たではないか)


藩主・毛利敬親は、松陰の才能を惜しみ、罪人でありながらも「十年間の諸国遊学」を特別に許すという、異例の温情を下した。この敬親の「そうせい(良きに計らえ)」と部下に任せる度量の広さが、長州藩の奇妙な風通しの良さを生み、松陰をさらに加速させることになる。


再び江戸へ向かう許可を得た松陰は、己の命の使い道をさらに過激な方向へと定めつつあった。

なぜなら、時代はもはや、一介の浪人がのんびりと学問に励むことを許さないほどに、急速に狂い始めていたからである。


嘉永六年六月三日(1853年)。

浦賀の海に、巨大な四隻の漆黒の軍艦が現れた。亜米利加の使節、マシュー・ペリーの率いる黒船である。


その砲声は、日本の、そして松陰の運命を根底から覆す、終わりの始まりの合図であった。


次章、第三章へ続く。

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