第八章 風間ジェミニ――護衛艦『ぎんが』艦長 その七
三十
「それでは、検察官から質問をさせていただきます」
立ち上がった主任検事が、そう、宣言した。
休廷を挟み、証言台には、落ち着きを取り戻したかに見える風間が着席していた。
「まず、お伺いしたいのは、被告人が『五輪丸』からの救難信号を受け、信号の発信源への急行を命じた場面です。ここで、被告人は、氷室司令の指示を仰がなかったと証言しています。理由は、『五輪丸』から詳報が届かないことは、何か緊急事態が惹起したと考えるのが妥当で、一刻も早く現着する必要があったからであり、氷室司令も同じ考えであるはずと思ったから、ということでしたね?」
「はい」
「ですが、これは被告人の思い込みであり、実際に氷室司令がどう判断したか、は判らないですよね」
風間は、少し間を置き、
「そうですね」
肯定した。
「では、被告人は、この時点で、氷室司令の指示を仰ぐべきだった、そうではないですか?」
風間は、やや顔を傾け、口を引き結んでから、
「いえ――やはり、あの時点ではあの判断が最善だったと思います」
「では、被告人は、あの時の自分の行動は間違っていなかったと、そういうことですか?」
「そうです」
風間が間髪入れず返答した。
「被告人は、なぜそこまで自信を持ってそう答えることができるのですか?」
「この指揮を執った直後、副長がこの件を司令に報告しています。その際に、氷室司令から、停船命令は下されませんでした。ですから、氷室司令も、同じ判断を下したに違いない、と確信できるのです」
「ふむ――」
検察官は鋭く風間を一瞥し、
「では、次に、被告人の、国籍不明艦船に対する主砲発射の指揮について伺います」
左手に持った書類に目を落とした。
「被告人は、この指揮について、『正当防衛に該当する行為だった』と仰っていますが、間違いないですか?」
風間は、じっと目の前の机の一点を見詰め、何度か小さく頷きながら、
「はい。間違いないです」
「ですが被告人。敵艦船と『ぎんが』の発砲は、ほぼ同時でした。正当防衛を主張するには、無理がありませんか?」
問うた。ちょっと首を傾げた風間は、
「結果論と言われればそれまでですが、あの時点では最善の判断だったと、私は思っています」
「相手の攻撃を待ってから、反撃に転じる、という選択肢は、被告人にはなかったのでしょうか?」
薄灰色の瞳をさっと検察官に向けた風間は、
「私は、肉薄する艦船を見て、『明らかな攻撃の意思』を感じました。現に日本のタンカーが目前で燃えています。戦場では、判断の遅れが取り返しのつかない結果をもたらすこともあり得ます」
「では、被告人は、主砲発射を命じたご自身の指揮は、やはり自衛権の逸脱には該当しないと、そう思いますか?」
「そう――思います」
三十一
法廷の中心で、白い制服が際立っていた。
主任検事の質問は、燃える艦船から海に逃げ出した乗員の救助放置の場面に移る。
「海に投げ出された敵艦船の乗員を見た時、被告人は、放っておくしかない、と思ったと言いました。その理由のひとつが、この乗員は敵であり、船内でトラブルを起こす可能性がある、と――」
ここで検察官は、いったん言葉を切り――
「被告人が遭難者を救助しないと決断した時、村澤副長が『国際法に抵触』と言ったと言いましたね? この国際法について、教えていただけますか?」
法廷に、スピーカーのノイズだろうか?
ジッ……ジジッ……という微かな音が響く。
風間がゆっくりと、口を開いた。
「ジュネーブ条約第二条約の第十八条――戦闘終了後は、遭難者等を直ちに救助しなければならない、というものです。これは、たとえ、敵であっても適用される――」
風間が言い終えるのを待ち、検察官が訊いた。
「もう一度、被告人の、敵艦船の乗員の救助を放置した理由を教えてください」
風間は、はっきりとした声で、主尋問の時と同じ、炎上する日本のタンカーの猶予が一刻もなかったことと、敵兵を『ぎんが』艦内に収容することで発生するトラブルを回避するためだったと答えた。
これを聞き終えた主任検事は、しばし間を置いてから、
「ところで――被告人は、この判断が、国際的に非常に大きな問題になるかもしれないという認識を、まさにこの時、持っていましたか?」
風間の白い制服が、ぴくっ――と動いた。
「……なくはなかった、です」
「それは、少しはあなたの意識にあったと、そういうことですか?」
「いや――どうでしたか……」
風間はゆっくりと、彫りの深い顔を持ち上げ、法廷の白い天井を見詰めた――
圧倒的な数の星々の輝きの下、黒々とした海に、ふたつの赤い光が灯っていた。
ひとつは巨大なタンカー『五輪丸』から吹き上がる炎――
もうひとつは、『ぎんが』右舷前方、不明艦から吹き上がる炎、だった。
『も、目標沈黙! キル、確認!』
『右舷前部に被弾あり! 応急班、確認急げ!』
艦橋に、CICのTOA、桧垣一尉の声が響く。
風間は敵艦からタンカーに視線を移すと、
「よし。本艦はこのまま、タンカーに向かう」
宣言した。
快調な機関の音が艦橋を揺らす。
燃える“敵艦”を右に見ながら、タンカーとの距離が詰まる。
風間は、タンカーの状況を詳しく見極めようと双眼鏡を持ち上げた。
三十二
「艦長! 敵船の周囲を見てください! 人です!」
副長の緊迫した声が耳に刺さった。
副長は、右後方に双眼鏡を向け、燃える“敵艦”を注視している。
風間も、副長の視線の先に双眼鏡を向けた――
敵艦から噴き上がる炎で、海面がクリアに見える。
その海面に、数名の人らしき姿が波間に見え隠れするのを――
そして、船から人が飛び降り水しぶきが上がるのを――
風間は目視した。
救助――
一瞬、風間の頭にこの言葉が浮かぶ――
しかし――
風間は即座にマイクを取った。
「総員へ。艦長。“敵性艦船”は排除した……
これより本艦は、同胞のタンカーの乗組員救助に向かう」
「艦長! 正気か? あの人たちを見捨てるのですか!」
副長の喰ってかかる声が、風間の耳朶を打った。
風間は、双眼鏡を下ろした。
副長は、今にも飛び掛からんばかりの目つきで風間を睨んでいる。
救うべきか? しかし――
風間は、自身の背後に『五輪丸』の噴き上げる炎の熱を感じた気がした。
マイクを再び口につけた風間は、副長から視線を外さずに言った。
「敵性艦船の乗組員を救助している暇はない。
全責任は私が取る。
タンカーに向けこのまま前進し、救助活動を開始する」
「艦長! 待て! そんなことは司令が許さないですよ!
いや、国際法にも抵触する!
まずは要救助者の救助を優先してください!」
副長の細い目が見開かれて自分を凝視している。
国際法――国際問題――あの“敵艦”は――《《イランの》》?
一瞬の風間の思考――
しかし、タンカーの炎の熱がじりじりと風間のうなじを焼きつけ始め――
副長の目線を真正面から受け止め、風間は静かに言った。
「いや副長、燃えているタンカーは、
いつさらに二次、三次の誘爆が起こるかわからない状況だ。
事態は一刻を争う。最大戦速! 取舵!」
「しかし、艦長!」
なおも食い下がる副長に、風間は、
「副長……ヘリに発艦準備を、タチケンにもタンカー乗船の準備を指示」
言い渡した。
タンカーの炎の映り込んだ瞳で風間を睨みつけていた副長は、次第にゆっくりと目線を下げると、
「……承知しました……ヘリに発艦準備を、立入検査隊に、タンカー乗船準備を指示します……」
震える声で、風間の命令を復唱したのだった――
風間は再び炎の『五輪丸』に向き直った。
刻々と、目標が近づいてくる。
しかし――
今度、風間の背後を脅かすのは、『五輪丸』の炎ではなく――
副長の刺々しい気配と、海に投げ出された敵艦の乗員たちだった。
彼らの叫び声が聞こえてくる気がする――
副長の言う通りか? ――引き返すか?
風間は問う……
いや! 無理だ!
では、ボートを一隻降ろして、彼らを救助――
否! 彼らは敵だ! 艦内に収容してどんな行動を取るか判らない!
それに――
『五輪丸』救助に割く人員を減らすのか?
それで救える日本人の命を救えなくなったら――
国際問題、外交問題――あの艦は、やはりイランの――
『五輪丸』が艦橋の窓の外に大きく迫ってくる。
集中しろ、ソウジ! 日本人の救助が最優先だ!
煙を吐き出しながら揺らめくタンカーの炎を睨みつけ、風間は逡巡を振り払った。
三十三
「被告人? 黙秘ですか?」
白い天井――検察官の声。
風間は、はっとして検察官を見た。
「あ、いや、すみません、もう一度質問をお願いします」
喉がからからに渇いていた。
いつの間にか拳を握り締めている。
掌にじっとりと汗をかいていた。
検察官は、鋭い視線で風間を見詰め、
「では、もう一度――被告人は、被告人の敵艦船乗員の『見捨て』が、外交問題になるかもしれないという認識を、お持ちでしたか?」
再び風間の脳裏に立ち現れる、暗い海に呑まれる人々と炎を噴き上げるタンカー――
一瞬頭をよぎった“外交問題”……
「……持っていました」
静かに、風間は答えた。
検察は、風間をまっすぐに見据えて踏み込む。
「被告人は、その認識があったのに、敢えて無視した、ということですか?」
検事の視線を受けた風間――
『国際法にも抵触する! まずは要救助者の救助を優先してください!』
あの夜、烈火のごとく風間に迫った村澤の瞳がフラッシュバックする――
「そうです」
検察官から目を逸らし、低い声で風間が答えた。
「では、被告人は、被告人の判断で、日本の国際関係が損なわれるかもしれないという可能性を、もっと言えば、収束に向かっていたアメリカとイランの紛争が再燃するかもしれない可能性を――」
「異議あり!」
滝村が立ち上がり、鋭く声を上げた。
「誘導です。検察官は質問を変えることを要請します」
主任検事は、滝村に目線を送ると、スーツを両手で直しながら、
「質問を撤回します」
裁判官の言葉を待たずに落ち着いて答えた。
「では被告人。被告人は、イランの艦船の乗員を見捨てた判断は、間違っていなかったと、今でも確信を持って言えますか?」
滝村は、風間に畳みかける検察を横目に見ながら、席に座り直す――
風間は証言台で、薄灰色の瞳を瞼で隠した。そして一言――
「判りません」
吐き出すように答えていた――
三十四
検事の質問は、さらに進んで、タンカーからの乗員救助の場面となった。
「主尋問で、館野一尉が『五輪丸』に取り残されていると現場から報告があった時、被告人は、『館野を何としても救え』と命令した、そうですね?」
証言台の白い制服が小さくなっていた。
俯いた風間が、唇を噛んだ。
「そうです」
「そして、タンカーに大爆発が起こり、動けなかった被告人に代わって、村澤副長が『館野を捨ててでも、離脱しろ』と、指揮を執ってくれた、と、そう言いましたね」
「はい」
「その時の、被告人の気持ちについて、お聞かせいただけますか?」
風間の薄灰色の瞳が見詰める先に、証言台の机に設置されたディスプレイがある。
何も映していないはずのディスプレイ――
そこに、暗黒の海と激しく炎を噴き上げる『五輪丸』の姿が浮かび上がって――
『隊長の館野一尉が最後の乗員を救出後、
どうやら船上で撃たれたようで、戻りません!』
無線から、飯塚の叫びが風間の全身を打ち据えた。
風間は反射的に、
「館野を待て! なんとしても館野を――」
マイクに向かって叫んだ、その時――
オレンジ色の光が網膜を焼き――
ドドォォォォォォォォォン――……
海と夜空を震撼させる爆音が轟き、『五輪丸』はオレンジ色の球に呑み込まれた……
「艦長! 限界です!」
村澤の金切り声――
――館野!
心の中で叫ぶ。
館野! お前はまだ、そこにいるのか?
キノコの傘のように吹き上がる爆炎――
比嘉を喪った暗い海が脳裏に浮かぶ――
「タチケン隊! 要救助者と共に全員離脱!
館野を捨ててでも戻れ! 急げ!!」
悲鳴のような村澤の声が風間の心を引き裂いた。
振り向くと、炎の光に揺らめく村澤が、握りしめたマイクを口に当て――
「待て! 副長!」
風間は叫び、村澤に飛びつき、胸ぐらを掴む。
「ふざけるな! 館野を待て!
館野を捨てて戻るなど、この俺が許さん!」
驚きに目を見開く村澤の瞳――
「もう誰も死なさない! もう誰も殺させない!
いいか! 俺は! 俺は……」
いつしか――
風間は胸ぐらを掴んでいる相手の瞳が、薄灰色であることに気付き――
いや……炎に揺らめく彫りの深い顔……
――俺?
俺が、俺の胸ぐらを――掴んでいる?
そして――
その、もう一人の風間の唇が、ぐいっと左側に大きくめくれ上がって――
……だが、その瞳には、怯えの色が――
風間は、驚いて手を放し――いや……
風間は、副長の胸ぐらなど、掴んではいなかった。
艦橋の窓に映り込んだ自分の顔を、風間は――ただ、見詰めていた。
その向こうに、燃え上がる『五輪丸』が……
さらに爆音を轟かせ、新たな炎を噴き上げている……
全身が強張っていた。
握りつぶした拳の爪先が掌に痛いほど食い込んでいる――
「タチケン収容後、本艦、離脱……」
風間は、自分が下した指揮を、別人の声のように聴いていた――
三十五
白い制服が小刻みに揺れた。
また――風間は泣いていた。
静かに、涙を流していた。
そんな風間を、主任検事が神妙な表情で見詰めていた。
白い照明に、主任検事の顔が青白く浮かび上がる。
「自分は……」
震える声で風間が言う。
「館野を――絶対に、救いたかった――
もう……誰も、私は……失いたくなかった――けれど」
風間が言葉を切る。
「む、村澤三佐は、本当に優秀な――自衛官だと、思います……
最後の最後、私は逡巡した――
自分にはやはり……指揮官の、資格はなかった……」
主任検事が、フーっ……と、大きく息をひとつ吐いた。
「私からの質問は、以上です」
そう言って、主任検事は静かに着席した。
法廷に、風間の鼻をすする音だけが響き渡っていた――
三十分の休廷の後――
法廷の白い光に、証言席の風間の白い制服が溶け込んでいくようだった。
「被告人、大丈夫ですか?」
穏やかな声で、裁判長が訊いた。間を置いて、
「はい――大丈夫です」
俯いたまま、風間が答えた。
「では――検察官、よろしいですか?」
女性裁判長の促しに、
「はい! お願いします!」
三人の検察官の中の、真ん中に座った若い検察官が勢いよく立ち上がった。
先ほどまで尋問していた主任検事の質問は終了していたが、この若い検察官が、被告人に訊きたいことがあると、裁判官に要請したのだ。
これを受け、嗚咽している風間の状況を見た裁判長が、休廷を宣言し、その後の審理再開で、この若い検察官に質問させる段取りとしたのだった。
若い検事は、証言席にひっそりと座る風間に鋭い視線を送り、
「それでは今度は私から、質問させていただきます」
はつらつとした声が、法廷に響いた。




