第八章 風間ジェミニ――護衛艦『ぎんが』艦長 その四
十三
夜の闇の中、自転車を引きずりながら、五人の少年が家路についていた。
虫の音が、自転車の転がる音と重なる。
皆、黙りこくって歩いていた。
「そーじ……ありがとな」
突然――隣を歩くシマブーが、ぼそっ……と呟いた。
風間は何も答えることができず、黙って自転車を押している。
「ごめん、そーじ」
シマブーが謝った。
風間は、どう答えていいのか――解らない。
ぐちゃぐちゃな感情が、胸で渦を巻いた。
唇が震え、熱いものが目から噴き出して――
「うっ……えっ、えっ――」
嗚咽を始めていた。
中学生にボコボコにされても泣かなかった風間が、泣いていた。
つられるように、シマブーも、金城も、我那覇も――
皆、鼻をすすって泣き始めた。
ただひとり――
比嘉だけは、泣かずに真っすぐ前を向き、自転車を押して歩き続けていた。
「じゃあな、そーじ。また明日な」
自転車を押しながらシマブーが言って、四つ角を右にハンドルを切った。
すでに金城、我那覇と別れた彼らは、後はここでシマブーと比嘉が、風間と別れて同じ方向に向かって帰るだけのはず――だった。
風間の家は、この四つ角を直進した先にある。
答えない“そーじ”に視線を送りつつ、シマブーが歩き去ろうとする。
が――
「あれ? ヒガッチ?」
シマブーが、そのまま風間と共に直進しようとする比嘉に声をかけた。
「シマブー、先に行っててくれ」
比嘉はそう告げて、風間と並んで自転車を押し始める。
シマブーは、そんな二人をしばらく見詰めていたが、ほどなく自分の家に向かって歩き始めた。
風間と比嘉は、黙って歩き続ける。
自転車のチェーンの音が、夜の闇に転がり続けた。
やがて、比嘉が、
「なあ、風間――何でお前、シマブーたちを助けたんだ?」
風間は、どう答えていいか判らない。
「なあ、何でだ? なんで、シマブーたちを助けたんだよ?」
しばらく考えてから――
風間は、切れて血がこびりついた唇を動かし、答えた。
「じいちゃんから、空手は、他人を守るために使えって――」
ざあっ……
二人の間を、風が吹き抜けた。
虫の音が、相変わらずかしましい。
「へえ――空手、やってんだ……」
比嘉が呟いた。
しばらくしてから、風間が、
「なあ――どこまでついて来るんだよ?」
「さあ、どこまでだっけな」
比嘉がすっとぼけた。そして――言った。
「ごめんな――風間」
二人の足が止まった。
風間は、比嘉をじっと見つめた。
比嘉の吊り上がった目の中の瞳が、風間を見返してくる。
今度は風間が訊く番だった。
「比嘉、お前こそ、何で俺を助けたんだよ?」
すると――比嘉が、答えた。
「俺の仲間を助けてくれたお前を、
俺が助けないわけにはいかないだろ?」
比嘉は自転車にひょい、とまたがった。
「今日はありがとな――それに、ほんと、今までの事、悪かった――まあ、謝って簡単に許してもらえることでもないと思うけど――俺、最低のことしてた。俺、最低な人間だ。それだけ、ちゃんと言っておきたかった。じゃな」
比嘉が自転車のペダルを蹴って元来た道を戻っていく。
星々が輝きだした夜空の下――
小さくなっていく比嘉の背中を、風間はじっと見送り続けていた。
十四
劇的な変化――ではなかった。
でも、確実に……風間の小学校生活は変わった。
“ゲームセンター駐車場事件”の翌日――
シマブーは再度、風間に謝りに来た。
風間はシマブーを安易に許す気にはならなかったが、それでも放課後に、シマブーを家に呼んで遊んだ。
“友達”とは不思議なものだ。
気付けば二人は以前と変わらず夢中でミニモンに興じていた。
そんな自分たちを、風間は呆れつつも、喜びとともに受け入れたのだった。
金城、我那覇とも、ほどなく元の関係に戻った。
他の級友たちも、風間に話しかけてくるようになった。
風間と比嘉の関係は、最初はぎこちなかった。
比嘉はもう、風間を目の敵にしなくなったが、話しかけてもこなかった。
風間の方でも、特に比嘉と仲良くなろうとかいう気持ちはなく、二人の距離は離れたまま数週間が推移した。
ただ、少なくとも、風間の中で、比嘉は、
“自分をいじめる理不尽な級友”
ではなく、
“自分の非を素直に認め謝れる人間”
という評価に変化していた。
そして――そんな比嘉に、少し興味を持ったのも確かだった。
きっかけは、些細なものだった。
風間が児童館に孤独を慰めに行く頻度は少なく――
いや、一か月も経った頃には、全くなくなっていた。
が、児童館で出会った海洋冒険漫画にはますますぞっこんになっていた。
ある時、風間は、小遣いをはたいて買った漫画の最新巻を、学校に持って行ってしまった。
これを休憩時間に夢中で読んでいた風間は、担任から、
「おい! 漫画を教室に持ち込むんじゃない!」
こっぴどく怒られ、漫画を取り上げられてしまったのである。
「放課後、職員室に来るように」
担任に告げられた風間は、また説教か――と、重い足取りで職員室の敷居をまたいだ。が、担任教師は、
「余計なものは学校に持ってこない!」
取り上げた漫画本で風間の頭をポン――と叩くと、漫画本を返してくれた上に、
「先生もな、その漫画、大好きなんだ! 泣けるよなぁ!」
笑ったのだった。
ほっ――としつつ、また嬉しくなったりしつつ、でもこれからは気を付けようと自省しつつ職員室を出ると、外の廊下に、何と、比嘉がいたのである。
「何だ、返してもらったのか。良かったじゃんか」
風間はびっくりして、
「何でお前、ここに?」
「いいじゃねえか、別に」
比嘉は風間に背を向け、下駄箱に向かって歩き出した。
つられて歩き出した風間に、比嘉が、
「なあ、俺もその漫画――好きなんだよ」
前を見たまま、言った。
しばらく二人は廊下を並んで歩いた。
下駄箱に着いた時、風間は比嘉に、その最新巻を差し出していた。
「貸してやるよ」
比嘉が相好を崩した。
「まじ? やった、嬉しい! 明日返すからよ!」
そんな比嘉を見て、風間も笑ってしまったのを憶えている。
十五
漫画の貸し借りをしている内に、比嘉とは急激に仲良くなった。
比嘉、風間、シマブー、金城、我那覇は、小学校の仲良しグループとなった。
小学校六年生は、彼らとの思い出でいっぱいだ。
一緒に海に行ったり、昆虫採集もした。
映画を見に行ったり、廃墟を秘密基地にしたりした。
比嘉と風間は、二人が対立していたころからは想像もつかないくらいに気が合った。
いや――たまに喧嘩はした、ちょっと殴り合うような喧嘩になったこともあった。
が――それは、以前のような“断絶の喧嘩”ではなく、すぐに修復される、いわゆる“仲が良いほど喧嘩する”喧嘩だった。
ある時、比嘉と話すうちに、比嘉は、ぽつぽつと風間を虐めた理由を語った。
比嘉は、あの頃、戦時中の沖縄で何があったのかを詳しく知ったのだった。
米軍の上陸、沖縄の人々の徹底抗戦、タコつぼや防空壕などに逃げ込んだ人々に対する米兵による火炎放射攻撃、ひめゆり隊の悲劇など――
その過程で、比嘉は、どうしようもなくアメリカ人に対する怒りが湧きあがった。
それが――風間に向かってしまったと語った。
語った直後、再度、比嘉は風間に頭を下げた。
外で遊んでいた時の事だ。
学校の裏山……彼らが“秘密基地”にした、ガジュマルに囲まれた空き地――
「いや、もういいよ、比嘉」
風間は言った。
それから、頭を下げたままの比嘉に、
「俺だって、感心してるんだぜ? そうやって、きちんと謝れるお前って、凄いと思う」
素直な気持ちを伝えた。
と――腰を曲げた比嘉は、顔を少し上げ、風間を見詰めた。
吊り上がった目に、いたずらな光が宿る。
「なあ……ほんとはさ、ちょっとお前、カッコいいからいじめたくなっただけ、って言ったら――怒るか?」
「何? このやろ――」
「うそ、うそ、うそだって!」
ガジュマルの木々の間を逃げる比嘉の後ろ姿を、風間は鮮明に覚えている――
風間と比嘉、シマブーの三人は、中学、高校もずっと一緒だった。
比嘉は、愛国心旺盛だった。
「戦艦大和はさあ、沖縄を助けてくれようとしてくれて、絶対負ける戦いに錨を上げて来てくれたんだぜ!」
熱く風間に語った比嘉。
そんな比嘉が、中学生の頃に、
「俺、将来防衛大学に行こうと思ってるんだ」
と言い出したのは、極めて自然な流れに風間には思えた。
「なあ、お前も一緒に防衛大学目指さないか?」
ある日、中学からの帰り道で、自転車をこぎながら、比嘉が風間を誘った。
十六
比嘉の誘いを聞いた時――
風間の胸に何か、つっかえるものが湧きあがった。
夕闇が迫る沖縄の道――
背の低い家々や木々が左右に流れ、少し先には海がさざ波を立てている――
制服がべったりと肌に張り付き、暑さが重い固形物となってのしかかった。
「ごめん、比嘉――俺、他にやりたいことあるから」
比嘉を見ずに、風間は答えていた。
比嘉は、少し間を置いてから、
「そっかー! 他にやりたいことがあるのか!
……残念だな、お前とは大学も同じ所に通いたかったんだけどな」
その後は、他愛もない会話を交わした二人……
やりたいことがある――
嘘だった。
風間は、まだ、自分が何をやりたいか、どうやって食べていきたいか……
全く何も考えていなかった。
中、高、大と進むうちに、自然に見つかるだろう……
そう、思っていた。
でも、比嘉にはとっさに嘘をついた。
なぜだろう?
後から考えた風間は、父に対する反発だ――と、気付いた。
父は軍人だった。会ったことは一度もない。
自分と母を捨てた父と“同じ道”を歩む――
それは、風間にはない“選択肢”だった。
でも、これを、比嘉に直接話す気になれなかった。
だから――
風間は、比嘉の誘いを、
「他にやりたいことがある」
と告げ、断ったのだった――
「なあ、シマブー! お前は防大来ないのかよ?」
高校の教室の後ろの棚に腰かけながら、比嘉が、シマブーの出っ腹を拳でつついた。
シマブーは、太った身体を捩り、
「だから、俺は行かないって言ってるだろぉ? 俺には無理だって、自衛隊は!」
言ってから、
「俺は実家の家業を継ぐの!」
「シマブーの実家って建設業だっけ?」
「そうだよ。高校卒業したら、修行だよう」
シマブーが情けない声を上げる。
風間は、そんな二人を見比べながら訊いた。
「それで比嘉は、自衛隊はどれを志望するんだ? 陸? 海? 空?」
「まあ、海かな! やっぱ大和、好きだからな~! 海上自衛隊に入って、いつか自分の艦を持つぞ~!」
棚に腰かけ、足をぶらぶらさせながら比嘉が言った。
「ヒガッチは泳ぎも得意だしね」
シマブーが言うのに、
「まあな! そういうことも含めて、やっぱ、海かなあ、俺は」
三人の、高校生活の午後が過ぎていく――
十七
蒸し暑い午後だった。
天から雨が縄のれんのように降り注いでいた。
午前の晴天が、嘘のようだ。
風間は家の茶の間で、寝転んで漫画を読んでいた。
開け放たれた窓から、雨に冷やされた風が心地よく室内に吹き込む。
時折、ごろごろ……という雷鳴が、遠方から届いて来る。
雨が急速に強くなる予感を、外の大気は否応なく孕み始めていた。
風間の耳に、自転車の急ブレーキの音が聞こえ――
バシャッ――
濡れた道に、自転車が倒れる湿った音……
何だ?
風間は、漫画を脇に置き、イグサの畳の上に身体を起こした。
バチャバチャと、家に走り込んでくる誰かの足音――
ガラガラと、家の引き戸が引き開けられた。
風間は立ち上がって、玄関に向かう。
そこには――
全身ぬれねずみと化したシマブーが、肩で荒く息を吐き立っていた。
髪の毛が、まるで海藻のように額に貼り付いている。
「あれあれ、島袋君、どうしたの? そんなに濡れて……」
祖母が、風間の肩越しに驚いた声を上げた。
祖父も、玄関に顔を出す。
シマブーの目が、水の滴る髪の毛の間から、じっ――と、風間を見詰めた。
「ヒガッチが、ヒガッチが……」
一気に胸の中の胃がせりあがってくる気がした。
じっ――と、シマブーの次の言葉を待つ……
「ヒガッチが、死んだ」
時が止まっていた。
雨はいよいよ激しさを増し――
スコールだ――
大地を、したたかに打ち据えていた。
シマブーが嗚咽を始めた。
シマブーの大きな泣き声が、雨音とともに風間の家の玄関に響き渡った……
高二の夏休みだった。
比嘉は、ビーチ監視員のアルバイトをしていた。
この日――
少し荒れだした海で、子供が一人、沖に流された。
離岸流だった。
比嘉は即座に海に飛び込んだ。
子供のところまで泳ぎ切り、近くの岩場に子供を押し上げたという。
が――
その後、比嘉は波のうねりにさらわれ、海に呑まれた。
数時間後――
溺死体となった比嘉が、沖の方で発見された。
頭に打撲の跡があったことから、おそらく、子供を岩場に上げた後、波にもまれて岩に頭を打ち付けたのではないか――というのが、警察の見解だった。
比嘉と一緒に監視員のバイトをしていたシマブーは、救助を信じ待っていたが……
死んだ比嘉が引き上げられるに至って、風間の元に走ったのだった――




