第八章 風間ジェミニ――護衛艦『ぎんが』艦長 その二
五
「滝村さん! それは証拠提出しないと、約束したはずだ!」
風間の声が轟いた。
傍聴人席の記者たちが、手を止め、風間の大きな背中をまじまじと見つめる。
その向こうに、眼鏡をかけた滝村が、静かな表情で風間を見下ろしていて――
怪訝そうに二人のやり取りを見守っていた裁判長が、
「弁護人、どうしましたか? どうしますか? 撤回しますか?」
滝村は、困ったような表情で風間に近付き――
しかし、法廷全体にはっきり聞こえる声で、言った。
「風間さん――これは、今やあなたにとって唯一の肉親からの嘆願書です。あなたと話して、私も最初は、この嘆願書の提出を諦めました。けれど、あなたのお父上は、私に、『どうしてもジェミーを救いたい、何とかしてほしい』と頼み込んできたのです。この気持ちを、私はどうしても止めることができな――」
「嘘だ!」
風間が声を荒げた。
「俺の親父が、
俺と母を捨ててアメリカに帰って行った親父が、
そんなこと言うはずがない!
それは滝村さんにも十分に解るはずじゃないか!
こんな時だけ父親面するなんて、いい迷惑だ!」
吐き捨てた。
「だけど風間さん、あなたのお父上は、あなたと同じ軍人だ。あなたの気持ちは誰よりも解っている。この嘆願書は、あなたの情状面の立証として、提出する価値が――」
「解ってたまるか!」
風間はなおも食い下がる。
「親父はアメリカ軍の軍人なんだよ!
自衛官じゃない!
アメリカの軍人に、俺たち自衛官の気持ちなんか、解ってたまるか!」
滝村は、神妙な面持ちで、風間を凝視し、しばらく沈黙した。
滝村と同僚の弁護人も、裁判官も、検察も、傍聴人席の面々も――
じっ――と、この成り行きを見守っている。
「どうしますか、弁護人――書証の提出、再考しますか?」
裁判長が柔らかな声で提案する。
と、滝村は、ひとつ大きく溜息を吐き――
さっきよりも声を落とし、言った。
「風間さん――後、これはね……あなたのお父さんだけじゃなく、
アメリカ軍からの正式の要請でもあるんだ――」
「おい、米軍だって?」
「嘘だろ、どういうことだ?」
「ほら見ろ、ジェミニは米軍の回し者なんだよ……」
「静粛に! 静粛に願います!」
法廷に静けさが戻るまで――
風間は、滝村に喰いつこうと身体を浮かした姿勢のままで固まっていた。
滝村が続けた。
「お父さんも、米軍も、あなたの行動の正しさを良く解っている。自衛隊では色々と縛りがあってできないことも、普通の軍隊である米軍では、当たり前にできる。だから米軍は、今回のあなたの行動を、有能な軍人の采配として評価した。そういうことなんだよ」
風間は唖然としたまま、滝村を見つめた。
が、やがて――
風間の唇が、笑みの形に歪んでいく……
「わかりました……提出してください」
諦めたように呟き――
風間は、滝村の方に向けていた身体を、ゆっくりと正面に戻した。
「ありがとうございます、風間さん!」
滝村は、目を閉じ、風間に対して少し長めに頭を下げた。
それから、おもむろに直立して、裁判長に言った。
「お待たせしました、裁判長。それでは、嘆願書を読み上げます――英語で書かれていましたので、翻訳し要約した内容を読み上げます」
滝村の、嘆願書の要旨を読み上げる声が、静寂の法廷にいんいんと響き渡る。
俯く風間の唇が――わずかに細かく震えていた。
六
日本の裁判官、検察官、弁護人、そして国民の皆さん。
私はジェミニ・カザマの父であり、元アメリカ海軍少将で引退し、現在は米印太平洋軍のシニア・アドバイザーを務めているジェラルド・P・ビンセントです。私の息子で、海上自衛隊二等海佐のジェミニ――ジェミーが、被告人として、日本の刑事裁判に立たされているということを聞き及び、大変驚愕し、かつ、危惧を抱いております。
私は若い頃、沖縄のホワイト・ビーチで勤務しました。沖縄は、そして日本は、とても良い国という印象が私にはあります。人々は優しく、礼儀正しく、これほど民度の高い国があるのかと、驚きを隠せませんでした。そして、私はある沖縄の女性と恋に落ちました。この時、女性が身ごもったのが、私の息子、ジェミーです。残念ながら、女性の両親が、私との結婚に反対し、さらには私の沖縄での任期終了にともない、私はアメリカに帰らざるを得なくなり、これによってジェミーの誕生を見ることも、成長に寄り添うこともできなくなりました。ただ、ジェミーの母親から、定期的に近況が届いており、彼が自衛官になったと聞いた時には、奇妙な絆さえ感じたものです。
私がジェミーのことを強烈に印象付けられたのは、この事件でした。ホルムズ海峡で、日本の海上自衛隊の護衛艦『ぎんが』が、イランのテロリストと交戦し、炎上していたタンカーから乗員を救出したというニュースが、私たちアメリカの軍事関係者の間を駆け巡りました。アメリカでは、この救出劇は、日本の海上自衛隊に英雄が誕生した瞬間として印象付けられました。そして、この救出作戦を指揮したのが何と、私の息子のジェミーであったと知り、私は身体の震えを抑えることができなくなりました。歓喜の震えです。私の息子が、日本の英雄となったのです! こんな誇らしいことはありません。しかし、同時に悪い情報も入ってきました。日本の政府、自衛隊は、ジェミーを英雄ではなく、法を逸脱した犯罪者にしたがっている。耳を疑いました。しかし、同時に、私は、日本の憲法、法律、そして自衛隊の複雑な背景に思いを巡らさずにはいられませんでした。
日本の自衛隊が、専守防衛を旨とする誇り高い軍隊であることを、私は十分に理解しています。そして、その練度の高さも。しばしば自衛隊は、我々米軍との演習で、何度も、完膚なきまでに我が軍を打ちのめしました。そのたびに、私たちアメリカ人は、あなた方日本の自衛隊の素晴らしい練度と規律を、羨望の眼差しで見つめ、惜しみない賞賛を送ることとなったのです。ですが同時に、私たちは、自衛隊の苦しい立場に思いを馳せざるを得なかった。あなたたち日本の自衛隊は、決して自分から攻撃することができません。相手の攻撃があって初めて反撃できる。これは軍事的には致命的な弱点となる。現に、日本は共産圏からの絶え間ない脅威にさらされています。領空侵犯と、これに対応する航空自衛隊機のスクランブル回数は年々増加しています。そして、彼らは完璧に自分の任務を遂行している。一発の銃弾も撃たずに、です。撃つとしても、威嚇射撃のみです。このようなことは我々には想像の埒外です。そして、こういった困難な任務をこなしている自衛隊の隊員の方々には、同じ軍人として、本当に尊敬の念しかありません……
七
今回のホルムズ海峡での事件――ここでジェミーは、軍人として完璧な判断と指揮を下しました。目の前の炎上する同胞のタンカー、肉薄してくる高速艇。我々アメリカ軍の常識では、即座にこの高速艇を排除する以外の選択肢は有り得ません。親愛なるジェミーは直ちにこの決断を下し指揮した。そして、間を置かず同胞のタンカー救助に着手した。確かに、高速艇から海に投げ出されたテロリストたちを救助しなったことについては、議論の余地は残るでしょう。でも、想像してみてください。同じ日本人のタンカーが炎上して目の前にある。私ならば、ジェミーと同じ決断を下します。同朋の命を助けることが軍人の使命です。テロリストの命と同胞の命のどちらが重いか。比べようもありません。そして、ジェミーは英雄となりました。十一名のタンカー乗員の救出。突入した特別警備隊の隊長が未帰還となった悲劇はありましたが、もしこれが我が軍であれば、国家の英雄譚として讃えられ、永く語り継がれるべき壮挙です。だから私は嬉しかった。それに、ジェミーにかつて私が愛したエツコの影を見たことも大きかったのかもしれません。エツコは、芯の強い、優しい女性でした。私は彼女のそんなところに魅かれたのです。ジェミーはまさに、このエツコの息子だ、と私に確信させる、この事件の彼の行動は、そうしたものだったのです。
ですが、これが日本では問題になった。まず、テロリストの高速艇に対する先制攻撃。これが、自衛隊に許されている行動基準から逸脱しているということです。そして、海に溺れるテロリストたちを見捨てたこと。
私は単純に、今の自衛隊法が間違っているとか、日本国憲法の、特に九条が時代に合わなくなっているとか言うつもりはありません。先ほども述べたとおり、むしろ、こういった縛りがある中で毅然と任務を遂行している自衛官の皆さんに、驚異と尊敬の念を感じてやみません。しかし――やはり、今の日本の、自衛隊のこの状況に、私は懸念を感じざるを得ないのです。
まず、懸念のひとつめは、この軍事行動によって、ジェミーが通常の刑事裁判の被告人として立たされている、という事実です。我が国では、いや、軍隊を持つほとんどの通常の国家では、これはありえないことです。軍事行動における逸脱は、普通は特殊な軍事裁判で裁かれる。これは、日本国憲法で日本が“軍を持たない”と規定していることからくる矛盾です。“軍を持たない”から“軍事法廷も存在しない”。ですが、これで本当に良いのでしょうか? 軍人が、普通の法廷で、“殺人罪”“職権乱用罪”などで裁かれる――こんなことは我が国の軍人にとっては耐え難い屈辱です。自衛隊は実質、軍に他ならない。それなのに軍事法廷がない。今後も前線の自衛官が通常の刑事裁判で裁かれるリスクを負うのだとすれば、一体誰が命を賭して国を守ろうとするでしょうか?
この懸念が第一。
第二の懸念は、同盟国の軍隊としての懸念です。ジェミーのような果断な判断を下す指揮官がいる同盟国の軍隊は、我々にとっては非常に心強い。ですが、ジェミーの行動を違法と断じてしまえば、今後、もし、同じ戦線で自衛隊と米軍が並んだ時に、米軍は自衛隊を軍隊として信用できない、とみなすでしょう。これは日米の安全保障にも深刻な影響を及ぼします。
第三の懸念は、これにより、日本を取り巻く脅威となる隣国に付け入る隙を与えかねない、ということです。私たちアメリカ人だけでなく、この裁判は、国際的な注目を集めています。特に隣国は非常に熱心にこの裁判の行方を見詰めているでしょう。もし、ジェミーのこの判断を、違法と断じれば、自衛隊が致命的な弱点を持つ軍であるということを内外に明示してしまうこととなり、隣国の脅威がこれまで以上にいや増す可能性がある。こうしたことも、私たちの大きな懸念のひとつとなっています。
ここまで、国家的な視点で意見を述べさせていただきましたが、もっと個人的な視点から述べることを許していただけるのであれば、ひとりの父親として、親愛なるジェミーが、この件で有罪と裁かれることには納得ができません。
ジェミーは、私が愛したエツコを彷彿とさせる、優しく、果断な青年です。私が述べたことを、裁判官の皆様方におかれましては、十分に考慮の上、公明正大な判決を下されますことを、切に願う次第です。
最後に。ジェミー、私はお前を愛している。全世界が敵になろうとも、私はお前の味方だよ。
八
嗤っていた。
風間は、俯き、肩を微かに震わせながら、被告人席に座って、ただ、嗤って聴いていた。
最後の一言を、滝村が読み終えて着席し――
「くっ……くくッ――くふふっ……」
静寂の法廷に、乾いた風間の嗤い声が響いていて――
「被告人――大丈夫ですか?」
裁判長が、やんわりと風間に声をかけた。
風間はぴたりと嗤うのをやめ――
しばらくしてから、身体を起こし、
「すいません、大丈夫です」
制服の白いズボンの膝の上で、風間の握り拳が真っ青に震えていた。
「どうしましょう――休廷しますか?」
裁判長の気遣いに、風間は、
「大丈夫です、続けてください」
そんな風間を、じっと見つめてから、彼女は、
「では、被告人。証言台に座ってください」
促した。
風間はゆっくりと立ち上がった。
自席に座っている滝村を、複雑な視線で見やる。
滝村が、眼鏡の中の瞳で静かにその目線を受けた。
そして――
風間は、証言台に進み、着席した。
見届けた女性裁判長が、
「では、これから、被告人にお話を聞いて行きます。最初に告げた通り、被告人には黙秘権がありますから、答えたくない質問には答えなくても結構ですからね?」
「大丈夫です」
裁判長の言葉に、風間は迷いなく返答する。
これを受けて、裁判長は、弁護人席に視線を移し、
「では弁護人、質問を始めてください」
滝村は、再び立ち上がると、スーツを両手で少し直してから、
「それでは、私から、質問させていただきます」
風間は、無表情で、薄灰色の瞳を正面に向けている。
それを、じっ――と見詰めてから、滝村は質問を始めた。
「被告人――被告人は、沖縄で、アメリカ軍人の父と、沖縄の女性である母親の子として、生まれました。もし、よろしければ、被告人のご両親に対する思いを、聞かせていただけますか?」
滝村の眼鏡が、法廷の白い光を反射して輝いた。
白い制服の背中を光らせ、風間が、ゆっくりと話し始める。
「母は――母は、苦労した、と思います。複雑ですね――母は、仕事が生きがいの人でした。ずっと、働いていました。夜の仕事だったので、私はあまり母と話した記憶がありません。でも、私が生活するのに金銭面で苦労した、ということはありませんでした。寂しかったし、母を恨んだこともあります、でも、大人になった私には、母はできることはやってくれた人だった、という納得は――私の中に、あります」
ここで風間は言葉を切った。
滝村が、
「では、お父様に対しては?」
訊いた。
風間は少し間をおいてから――続けた。
「父は、私が生まれる前に去っていき、その後、一度も会ったことがありません。手紙が来たこともない。だから――何の印象も、感情もない。それだけです」
淡々と告げた。
「それだけですか?」
滝村の念押しに、
「それだけです」
法廷に、風間の言葉が静かに転がり落ちた――




