第八章 風間ジェミニ――護衛艦『ぎんが』艦長 その一
一
廊下に立つ風間ジェミニの耳に、バイタルモニターの音が静かに滲んだ。
病室を覗くと、そこには派手な服の女性二人と、黒服の男が、母のベッドの傍らに控えていた。
三十度ほどの仰角をつけたベッドの上に、やせ細った女性――ジェミニの母、悦子が、仰向けに寝て、黒服と何か打ち合わせをしている。
酸素吸入の管が鼻から、点滴の管やモニターのコードが腕や胸から伸びている。
母の目が、廊下に佇むジェミニを捉えた。
「じゃあ、その段取りでお願いね――ちょっと、みんな席を外してもらえるかしら?」
振り返った男性と女性二人が、ジェミニに気付き、
「ジェミニさん?」
「あら? ジェミーちゃん」
男性は母の店を切り盛りする男性スタッフ、女性二人はホステスだ。
三人は、ジェミニに微笑みかけて歩き出し、
「立派になりましたね、ジェミニさん」
すれ違いざま、黒服がジェミニの腕に、そっと触れた。
出室する三人と入れ違いに、ジェミニは病室に足を踏み入れる。
海上自衛官の白い制服を着て、花束を手にしていた。
脇に抱えた制帽を、サイドテーブルに、そっと置く。
ジェミニを見上げた悦子が、
「防衛大学卒業おめでとう――ほんと、立派になったわね」
落ちくぼんだ眼窩の中の目を細め、にっこりと笑った。
ジェミニは手に持った花束を母の胸に置き、
「母さん……具合は?」
「まあ、ありがとう! 大丈夫よ」
そして、男女三人の影を追うように出入り口を見やり、
「店は、上手くいってるの?」
「あなたが心配することじゃないわ――私がいなくても、ちゃんと回ってるわよ」
母の瞳が上から下に動き、
「そうやって、軍服を着ていると、ほんと、あの人みたい――」
しみじみと呟いた。
ジェミニは、少し顔をしかめて、
「母さん、俺は自衛官になったんだよ――軍人じゃないんだ」
悦子の唇が、ばかね、と動いた。
「同じじゃない、自衛隊も、アメリカ軍も――」
「同じじゃない」
断言して、ジェミニがベッドの傍らのスツールに腰を下ろす。
バイタルモニターの音が、母の心音を規則正しく刻む。
しばらくして、母は、少し悲し気な顔をして、
「パパは……あなたのパパは、本当にいい人だったのよ、ジェミニ――」
「母さん……俺は――」
またか……ジェミニは思った。
「ごめんね――ジェミニ、あなたをパパに、会わせてあげられなくて――」
母の目に涙が浮かぶ。
ジェミニは、ふっ……と笑った。
「いいよ、母さんを捨てた男になんて、会いたくもない」
「ジェミニ――」
父の話になると、いつもこうだ――
「それに、俺にはじいちゃんがいたし」
母はジェミニから目を逸らした。
「おじいさんが亡くなって、もう二年経つのね――」
そして、祖母は、祖父の後を追うように、その一年後に亡くなっていた。
母は、窓の外の沖縄の街に視線を移した。
木々と家々の屋根の上に、重い雲が垂れこめている。
「貴方には、本当に、つらい思いをさせたわ――ごめんね」
呟く母の横顔を、ジェミニは黙って見詰めていた。
二
悦子は、沖縄に生まれた。
若い頃、アメリカ軍兵士と恋に落ち、ほどなく子供を身ごもった。
それが――ジェミニだった。
しかし、この米軍兵士は、赤子の誕生を待つことなく、沖縄での任期を終え、アメリカに帰ってしまった。それ以来、この兵士と悦子は、音信不通となった。
ジェミニを産んだ後、悦子は米軍基地近くの風俗店で働き始めた。
悦子の父――ジェミニの祖父は、公務員だった。
定年退職後、家で琉球空手の道場を営んだ。
この祖父が、ジェミニの父代わりだった。
ジェミニはそっと、右手の拳だこを見詰める。
祖父からジェミニは琉球空手を学び、祖母が母代わりに色々世話をしてくれた。
祖父は父のことを語らなかったが、良く思っていないことは明らかだった。
不思議なことに、悦子は父のことを悪く言ったことが一度もない。
そして悦子は、いつも米軍兵士の誰かと恋に落ちては別れ、を繰り返した。
ほどなく悦子は、那覇のナンバーワン風俗嬢として不動の地位を築き――
若くして店を任されるオーナーママとなった。
サイドテーブルにある純白の制帽の傍らに、母の使い古したプラダのバッグが置かれている。
母の稼いだ金は、そんな母の装飾品や、その時その時に付き合っていた米軍兵士に注ぎ込まれていたようではあったが、母はそれ以上に良く働き、ジェミニたち家族を支えてくれた。
だから――学生時代に、金銭的に困ったという記憶は、ジェミニには皆無だった。
けれど――
母がやり手のオーナーママとして風俗店を切り盛りする、ということは、ジェミニと母はすれ違いの生活を強いられる、ということでもあった。
下校してもすでに家にいない母。
又は、下校後、すぐ派手な洋服に化粧を施し出勤していく母――
そんな母の背中を見ながら、ジェミニは負い目を抱えるようになって行った。
ジェミニが防衛大学に進学したのは、入学金も無料で、学生の間も特別公務員として給料が出るからでもあった。早く母の負担を減らしたい、ジェミニがそう考えたのも自然な流れではあった。
海上自衛官の幹部候補として配属が決まった防衛大学の卒業間際――
母が倒れたと連絡を受けた。
末期の肝臓がんだった。
そして防大を卒業し――
ジェミニは、休暇を利用して、そんな母に会いに来たのだった。
三
ジェミニの母への思いは複雑だった。
幼い頃は、母を母と思っているような、いないような――不思議な感覚だった。
言ってみれば、ジェミニにとって、“母”は祖母であり、悦子は“たまに家に帰ってくる若い綺麗な女の人”、だった。
自分に父がいないとはっきり自覚したのは、小学校入学後だ。
授業参観で、級友たちの若い両親を見て、なぜ自分は年取った祖父母なのだろうと疑問に思うようになったことがきっかけだった。
母は、家に若い米兵を連れてくることが多かった。
小学校中学年の頃、ジェミニは、何度か母に「この人がパパなのか」と訊き、そのたびに母からやんわりとそれを否定されたのを憶えている。そんな母の隣の、軽薄そうに笑う米兵の顔も、ジェミニの嫌な記憶のひとつだった。
「おい、ソウジ。道場に行くぞ。道着を着てこい」
こんな時に祖父が居合わせると、必ず祖父はジェミニを道場に連れて行った。
祖父は、「ソウジ」とジェミニを呼んだ。
「ジェミニ」は母がつけた名前だ。
「あんたは6月〇日生まれ、双子座だからね! 双子座は英語で『ジェミニ』って言うのよ! あんたの父親はアメリカ人だし、いい名前でしょ!」
無邪気に笑う母を、複雑な思いで眺めたことを思い出す。
祖父は、孫を捨てたアメリカ人を連想させる名を拒んだのだろう。
はっきりとは言わなかったが、祖父なりに「ジェミニ」を「双二」又は「双児」と読み替えていたのかもしれない。
祖母も自分のことを「ソウちゃん」と呼んでいたし、風間家ではそれが普通だった。
中学に入るまでは、別にこれを何とも思っていなかった。
バイタルモニターが、母の心音を、相変わらず無機質に刻んでいた。
――なんで俺はここに来たのだろう?
ジェミニは、ふと、そんなことを考えた。
考えながら、いや、唯一の肉親の母がもうすぐ死んでしまうのだ――
だから、会いに来るのは当然じゃないか――
そうも思った。
「でも良かった――あなたが軍人になってくれて……」
物思いにふけるジェミニの耳に、母の言葉が刺さった。
ジェミニは、自分の唇の左端がめくれ上がっていくのを感じながら、
「何だよそれ――どういう意味だよ」
訊いていた。
訊きながら、母の答えを聞きたくない、とも思っている――
「だって、何だか、あなたがパパのことを、赦してくれたみたいで――」
母の落ちくぼんだ目に涙が零れる。
ジェミニの胸の奥で、“獰猛な何か”が、身じろぎした。
「なあ、自衛官は軍人とは違う、って言ってるだろ」
自分の声に、怒りが滲んでいるのをジェミニは自覚した。
「それに、俺は一生、父親のことは赦さないよ――赦すわけないじゃないか」
母は、涙の零れる目を細めて、ジェミニに訴える。
「そんな悲しいこと言わないで――あなたにとっては、唯一のパパなんだから――」
「もうやめてくれよ、母さん――」
――なんでこの人はいつもこうなんだ!
ジェミニの胸に怒りが渦巻く――そして――
「ねえ、母さん、ところで、この前まで母さんと付き合ってた米兵は、見舞いには来てくれないの?」
「ジェミニ、何でそんな悲しいこと言うの?」
ジェミニは立ち上がり、サイドテーブルから制帽を手に取った。
残されたバッグの中央で、プラダのロゴプレートが鈍く輝いている……
「じゃあ母さん。俺、行くよ。身体、大事にね」
自分でも意味のないことを言っている――
ジェミニは母を見下ろした。
「もう行くの?」
花束を細い腕で抱きながら、母が寂しそうにジェミニを見上げた。
――何でこんなところに来てしまったんだろう?
理由の判らない後悔に胸を締め付けられつつ、ジェミニは、
「また来るよ」
思いとは裏腹な言葉を告げ、母とバイタルサインの音に背を向けた――
四
関東地方裁判所第104号法廷。
被告人席に待機する風間の制服は、“母の病室の時”とは違っていた。
肩で輝く三本の金線と桜星ひとつ――
あの日の「幹部候補生」は、「二等海佐」となって、被告人席に座っていた。
すでに弁護士、検事たちも入廷し、裁判所の警備員たちが傍聴席に記者と傍聴人を導き入れていた。
この日も傍聴席は満席だ。
傍聴人の中に、日に焼けた大柄な青いアロハシャツを着た男が、サングラスをかけた目をじっと被告人席の風間に向けていたが――風間は全く気が付いていなかった。
裁判官席の奥の扉が開き、裁判官が入廷してきた。
その下に座った書記官が、
「御起立願います」
声をかけ、検事、弁護士、被告、傍聴人たちがそれぞれ立ち上がった。
女性裁判長を中心とする黒衣の三人が自席に立ち、静かに頭を下げた。
法廷の全員がこれに倣う。
「おかけください」
書記官の声掛けで、こもごも席に着席した。
女性裁判長が、傍聴人の頭上に設置された丸時計を一瞥し、
「では、少し早いですが、検察官、弁護人、双方準備が出来ているようでしたら開廷しますが、よろしいですか? ……では、開廷します」
これまでどおり、風間は、自席で両肘を自己の両膝に置き、両手の指と両掌を組んで自分の足元を見詰める姿勢を取る。
「それでは、本日は被告人質問ですが――」
女性裁判長がゆったりと弁護人の方に視線を移した。
「弁護人、追加の書証があるということですが」
滝村が立ち上がり、
「はい、弁護人は、追加の書証の提出を求めます」
書記官が動き、証拠カードを弁護人から受け取った。
いそいそと歩いて、裁判官、検事に回付していく。
「なるほど、弁〇号証として『嘆願書』を提出したいと――検察官、ご意見は?」
「嘆願書」の言葉を聞いた瞬間、それまで俯いていた風間の目が見開かれた。
危険を察知した猫のように、さっ、と滝村の方を振り返る。
風間が滝村に小声で何かを言いかけたが――
滝村は眼鏡の中の目を風間に向け、左掌でそんな風間を制した。
「しかるべく」
主任検事が立ち上がり、言った。
裁判長は、弁護人と風間のやり取りを柔らかいまなざしで見つめた後、
「では、採用します。弁護人は、嘆願書の要旨を告げてください」
促した。
風間が何か言いかけた姿勢のまま見つめる中、滝村が淡々と説明した。
「これは、元米軍将校の、風間ジェミニ被告人の父親からの嘆願書です」
「やめろ! 話が違う!」
風間の怒声が、白い空間を震わせた……




