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第六章 一ノ瀬海斗――タンカー『五輪丸』司厨士 その五

二十二

「館野さんの太い腕は、私に生きる力を与えてくれました」


 三十分の休廷後――

 法廷に戻ってきた海斗は、泣きはらした目で語った。

「そして、私は、今、『生かされた自分』を強く実感しています。あの夜、右往左往するしかなかった私を、普段と同じように導いてくれた岩田さん――さ、最後は、私を庇って……」

 ここで海斗はいったん言葉を切り、涙を呑み込んだ。

「岩田さんは常に言ってました、『俺は天涯孤独だ』『いつ死んでもいいんだ』って……だ、だからって、こ、こんな……」

 ぐずぐずっ――と、海斗が鼻をすすった。

「でも……でも、岩田さんの教えは、私の中に生きています。岩田さんの教えを、自分の仕事に活かしていく、これが私の、岩田さんに対するせめてもの恩返しだと思って……そして、館野さん……あの地獄で、命を賭けて私たちを救ってくれた……館野さんには、感謝してもしきれません」

 ここで一呼吸置き――

 海斗は、ゆっくりと証言台に立ち上がった。

 椅子が床に擦れて重い音を発する。

 ひょろっとした背広姿が、被告人席でじっとうつむく白い制服に向き合った。

 海斗はもう一度、大きく鼻をすすった。


「風間さん。館野さんを――

 ()()()()()()()()()()()()()()、すみませんでした――」


 深々とお辞儀をした海斗に、風間が目線を上げ見詰める。

 再び頭を上げた海斗の真っ赤な眼と、風間の薄灰色の瞳が静かに正対した。


「――館野さんは、他の隊員を撤収させた後、爆発が続く『五輪丸』に――たった一人残って、私を見つけ出し、連れ帰ってくれました。そして最後は、私をボートに下ろしてから……敵兵に撃たれて」


 細い海斗の背広の肩が震えた。


「まるで、館野さんは、私の身代わりに死んでしまったような……」


 岩田と館野――

 二人の犠牲に生かされた悲しみに胸を焼かれ――

 それでも海斗は力を振り絞る。


「つ、妻と娘を見るたび、私は思います……岩田さんと、館野さんのお陰で、私はあの地獄から帰って来れたのだと……そして、風間さん――あなたの指揮がなければ、そもそも、私はここにこうして立ってさえいませんでした」


 いつしか海斗は、まっすぐな視線を風間に向けている。


「あの夜の、あの海でのあなたの行動のお陰で、私は生きています。

 妻と娘と、生きています。

 本当に、ありがとうございました。

 あなたと、岩田さんと、館野さんに救われた命を、

 大切に生きていきたいと思っています」


 もう一度、海斗が風間に頭を下げる。

 そんな海斗をしばらくじっと見詰め――

 風間は、ふっと目を閉じた。

 その唇が、少しだけ微笑んでいた――


二十三

 反対尋問が始まった。

 始まったが――

 立ち上がり、

「これから私が質問します」

 そう宣言した主任検事は、質問をなかなか発しようとしなかった。

 明らかに、その表情には、戸惑いが浮かんでいる。

 その横で、若い検事が、憮然とした表情で腕を組み座っている――

 主任検事が、ようやく重い口を開いた。

「えー……それではお訊きします。証人の、館野一尉に対する印象について、もう一度、お話しください」

 目を真っ赤にしつつも落ち着きを取り戻した海斗が、正面を見据えたまま、

「命の恩人です」

 短く答えた。

「初めて館野さんと会った時のことと、その時の気持ちをお願いします」

「初めて会ったのは、厨房で私と岩田さんが敵兵に追い詰められた時でした。館野さんの日本語を聞いた時の安心感と、敵兵を倒して私たちを救ってくれた時は頼もしく感じました」

「その後の館野さんの行動と、彼に対する印象をお願いします」

「彼がいてくれる、それだけで、私は生きて帰れるんだと確信できました。岩田さんも同じだったはずです――けれど、デッキに出た時に――」

 ここで、海斗は言葉を切り――

「倒れた岩田さんを見て、私は自分を見失いました――その時も、私を現実に引き戻してくださったのは、館野さんの太い、たくましい腕だった――私の肩を掴んだ彼の力強い手の感触が、今でも蘇ります――館野さんの腕が、私を死から家族の元に引っ張り戻してくれた――今でも私は、そう感じています」

 淡々と、しかしはっきり語る海斗を、主任検事はじっと見詰め――

「これで、私の質問を終わります」

 言って、主任検事は着席した。

 それを一瞥した若い検事が、勢いよく挙手をし、


「私からも、質問をお願いします!」


 立ち上がった。

 その横で、初老の検事が、自分の鼻筋を右手の人差し指でゆっくりとさすっている。

「はい、ではどうぞ――」

 女性裁判長の促しに、若い検事が、

「私が聞きたいのは、証人が館野さんに救われた直後の時のことです。証人は、厨房で敵兵に追い詰められていた。そこに、館野さんが現れ、敵兵を倒してくれた。でも、その敵兵はまだその時は息があった――そうでしたね?」

「……そうです」


『ヤー……アッラー――』

 暗い厨房の床に、大きな目を見開き、少年のような兵士が仰向けに倒れていた。

『アアッ……ヴァーイ――』

 涙が零れる瞳が海斗を見詰め、口はぱくぱくと喘いでいて――


「その後、館野さんが、そんな敵兵を撃ち殺しましたね。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


『見るな』

 抑揚のない声――

 無表情な館野の貌――

 感情のこもらない瞳――


 タタン――


 銃声――敵兵の脚の痙攣――


「怖かった――です」

 ぽつりと、海斗の言葉が証言台に転がった――


二十四

「怖かった――証人、()()()()()()のですか?」


 若手検事が、机に両手を突き、その丸っこい身体を乗り出していた。

 何が怖かったのか――

 海斗は、この質問を心の中で反芻し――

「敵兵が怖かったのですか? 状況ですか? それとも――館野さんですか?」

 若い検事の畳みかけに、


「館野さんが――です」


 海斗が囁いた。

 検事は、じっ――と海斗を見詰めた。

「では、お聞きします。証人は、館野さんの、何が怖かったのですか?」


 何が怖かったのだろう?

 海斗は自問する。

 なぜ? 館野は、自分を救ってくれた。

 館野が殺したのは、“敵”だ。

 自分たちを襲い、『五輪丸』を燃やし、船長や松本さんや、多くの仲間を殺した“敵”なのだ。


『ええか。あの人はやるべきことをやったんや』

 岩田の声が、海斗の耳に蘇る。

 そう――館野さんは、やるべきことをやっただけ。

 館野さんは、“義務”を果たしただけ――


『ユア……ユア、ファミリー?』

 『五輪丸』の、暗い浴室。

『イエス。マイファミリー……』

 答えると、男が人懐っこい笑みを浮かべ――


『ダダシュー! ダダシュームッ!』

 嵐が過ぎ去ったようなブリッジを、男の叫びが切り裂いた。

『ダダシュームーッ! ウアアアアアっ……』

 死体のひとつに跪き、男が泣き叫ぶ。

 今は、海斗は、男の言葉がペルシャ語で“兄”を指すと知っている。

 男は、自分の兄の肩を両手に持ち、必死で揺さぶっている。

 しかし、“兄”は――何も答えない……


 男が調理台を挟み、こちらに銃口を向けていた。

『ウッ――ウウウッ――ウッ』

 男は明らかにしゃくりあげていて――

『ユー! アイ……アイ、キルユー! ウウッ――』

 “殺す”と言いながら、でも、泣きながら、彼は――

 ()()()()()()()()()()……

 海斗を見詰める男の目には、憎しみは微塵もなく、ただ哀しみだけが――

 だから――彼は、()()()()()()()()()()のでは?


「館野さんが、冷徹に彼を殺したのが、怖かったのではないですか?」


「異議あり! 誘導尋問です!」

 滝村が鋭く立ち上がった。

 若手検事は、そんな滝村をふてぶてしい目つきで見詰め――

「撤回します。もう一度聞きます。証人は、館野さんの、何が怖かったのですか?」


「人間でした」


 突然、海斗が言葉を発した。

 一瞬、若手検事は、きょとん――とした表情を浮かべ――

「殺された敵兵も、人間だったから――です」

 海斗が答え……滝村は、ゆっくりと腰を下ろした――


二十五

 若い検事は、机から両手を離してまっすぐに立ち、

「そうですね。殺された敵兵もまた、人間でした」

 言った。

「そして、殺される直前の敵兵は、どのような状態でしたか?」

 この質問に、海斗が、きっ――と、鋭く質問者を睨んだ。

 が、若手検事は、悠然とその海斗の視線を受け止める。

「良くは判りません――が、動ける状態ではなかったと、思います」

 ゆっくりと、海斗が答えた。

「そんな状態の彼を、どうして館野さんは撃ったのでしょうか?」

「異議あり! 館野さんの内心について、証人は知る由もありません! 検察官の質問は失当です!」

 滝村が立ち上がって異議を唱えた。

 やや間を置いてから、女性裁判長が、

「検察官。意義に対するご意見は?」

「質問を撤回します」

 滝村が座るのを待ってから、

「証人――証人の言葉で、この時、あなたが館野さんに感じた怖さを、どうか私に教えてください」

 海斗は、唇を噛んで下を向いた。

 そして――ゆっくりと、話し始める――


「判りません――何で、館野さんが怖かったのか――

 私には、()()()()んです。

 だって、館野さんは――私を救ってくれた恩人です。

 そんな人を、怖いと思うなんて……

 けれど……あのイラン人は、人間でした。

 私たちと同じ、何ら変わることない人間でした。

 怯え、迷い、怖がっていた。

 大切な何かを持っていた。

 そして、あそこで、大事な人を喪った。

 私に銃を向けながら、彼は最後まで引き金を引けなかった――」


 海斗の声が、静かな法廷に響き渡っていた――


「確かに、あの時、彼はもう動けなかった。

 放っておいても死んだでしょう。

 もしかしたら、館野さんは――

 彼が苦しまないように止めを刺してあげたのかもしれません――

 けれど――館野さんは、あの時の館野さんは、

 私は怖く感じてしまった――

 でも、思うんです――

 館野さんも苦しかったんじゃないかと。

 どんな理由であれ、彼を殺す時に、

 ()()()()()()()()()()()()()()んじゃないかって……」


 被告人席の風間が、両手をぎゅっ――と握りしめ、目を閉じていた。


「これがあの時の――私の正直な、気持ちです」


二十六

「では、次の質問に移ります」

 若手検事が、俯く海斗にさらなる問いを投げかけた。

「証人がボートに乗り、『五輪丸』で大爆発が起こった時のことです。あの時、あなたは、館野さんを見捨ててでも脱出するように、という命令を聞きましたね?」

 海斗は眉間にしわを寄せつつ、

「はい」

「その時の、あなたの気持ちを教えてください」

 しばらく黙っていた海斗の、唇が震え始め――

 ようやく、海斗が口を開いた。


「ひどい、と思いました――

 だって、私を救ってくれた館野さんを――

 見捨てるなんて――そんなこと……」


 肩を震わせる海斗に、若い検事が、

「自分を助けてくれた人を見捨てる――

 証人は、この命令に、ひどい、と、憤りを感じた、そうですね?」

「憤りというか――なんて言えばいいのでしょうか……上手く言えません」

「指揮に対する理不尽を感じたと、いうことでいいですか?」

 若い検事の言葉に、鼻筋を指先で撫でていた初老検事の動きが止まった。

「理不尽――そうですね、理不尽だ、と……思いました」

「ありがとうございます。私の質問は以上です」

 満足気に若い検事が告げ、着席しようとしたその時――


「だけど!」


 海斗の声が白い法廷に突き刺さった。

 若い検事の座る動作が止まる。

 真っ赤な目で、海斗が若い検事を凝視していて――


「だけど、心の中では、私は判ってたんです――

 ()()()()()、と――私たちが助かるためには必要な指揮だったと――

 でも――

 爆発炎上する『五輪丸』を見て、

 私は、館野さんをそこに置き去りにした後悔や後ろめたさよりも――

 何よりも……


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を――


 私は……私は、()()()()()()()んです――」


 言い切って、海斗は再び涙を流し始めた……

 この言葉を聞いて、被告人席の風間が、ふと目を上げて海斗を見た。

 灰色の瞳に、一瞬、光が宿る――

 そして、風間が、確かにひとつ……頷いていた。

 対して、若い検事は、黒い瞳に戸惑いの色を浮かべて海斗を見詰める――


「検察官、反対尋問は、以上でよろしいですか?」

 裁判長の声掛けに、我に返った若い検事が、

「あ、ああ、すいません、はい、以上です」

 悄然と、自分のシートに腰を落としたのだった……


二十七

「弁護人、追加の質問はよろしいですか? そうですか、では、一ノ瀬さん、証人尋問は終了しました。長時間、辛い体験をお話しいただき、本当にお疲れさまでした……後ろの長椅子に置いた荷物をお忘れないように――では、退出してください」

 女性の裁判長が、柔らかく海斗を労り、退廷を促した。

 証言台に、ゆるりと立った海斗は、やはり背広を着慣れてないあどけなさがあった。

 背後の長椅子からリュックを取ると、海斗は書記官に先導され、法廷を後にした。


「さて、ではこれで、証人尋問は終了ですね? では、次回期日は被告人質問となりますが、その前に、検察官、弁護人、双方から何かありますか?」

 女性裁判長の言葉に、滝村が立ち上がった。

「裁判長。実は、もう一人、証人尋問の追加をお願いしたいのですが」

 裁判長は柔らかな視線を滝村に投げ、

「誰ですか?」

 訊いた。これに対し、滝村は、


「はい、弁護人は、


 護衛艦『ぎんが』元乗組員の、()()()()さん


 の証人尋問を請求致します」


 答える滝村を、反対側から、初老の検事が鋭く見据えていた――

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