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第六章 一ノ瀬海斗――タンカー『五輪丸』司厨士 その四

十七

「おおい、おっさん!」

 自衛官が、岩田の傍にしゃがみこんだ。

 両肩を持ち、仰向けにする。

 だらり――と、岩田の身体が甲板に横たわった。

 ライフジャケットの胸の辺りに、大きなどす黒い染み――

「え……い、岩田さん?」

 海斗は、甲板を這って、岩田に近寄った。

 しかし岩田は、ただうつろな目で虚空を睨んでいるだけ――


『このあほたれが! ぼーっとしとったらあかんで!』

 

 関西弁の叱咤が頭をよぎる。

 しかし――

 目の前の岩田は、もはや何も言わずに――


「そ、そんな、岩田さん――岩田さ――――――ん!」

 

 うわあああああっ――


 海斗は、岩田にしがみついた。

 全く力の入っていない岩田の身体が、()という現実を海斗に突き付けて来る。

 が――

 暴力的な強い力が、海斗の左肩を鷲掴んで岩田の死体から引きはがした。


「しっかりしろ! 行くぞ!」

 

 耳元で、炎よりも熱い自衛官の怒声が響いた。

 それでも――海斗はまだ、岩田の死を受容できず、しゃくりあげている。

 すると、自衛官は、海斗から離れ、近くの甲板から黒い何かを拾い上げた。

 それを、海斗の目の前に突き付ける。


 ひび割れた画面から笑いかける美咲と愛菜――

 それは、海斗のスマホだった。


「おら見ろ、あんちゃん! あんたには待ってくれてる人がいるんだろ?」

 

 紅蓮の光が揺らめく中、海斗の心に力強い何かが沸き上がり始めた。

 海斗は唇をかみしめて嗚咽を抑え、

「は、はい!」

 立ち上がろうとしたが、膝からがくっ――と、くずおれてしまう。

「おい、しっかりしろ!」

 そんな海斗の右脇を、自衛官の大きな肩が支えた。

「――つっ!」

 自衛官が顔をしかめる。

 そうだ! 彼は足を――

「す、すみません!」

「いいってことよ」

 にっ――と笑うと、

「ほらよ」

 自衛官が海斗にスマホを返してくれた。

 海斗は、受け取ったスマホを、さっとジーンズの後ろポケットにしまい込む。

 しまい込みつつ――

 海斗は、自分の左肩、ライフジャケットのオレンジの生地に、白い粉の手形が残っているのに気付き――


『絶対生きて帰らな。な?』

『あほたれ!』


 海斗は唇を噛んで歩き始める。

「へっ……」

 肩を組んだ自衛官の笑い声が耳に届いた。

「いい待ち受けじゃねえか……奥さんと娘さんか?」

 汗にまみれた顔で自衛官が訊いた。

 よく見ると、頬に一条の傷が入って血が流れている。

「は、はい! そうです!」

 海斗が男に答えた。

「へへ……おれもさ。かあちゃんと、娘が待ってる……」

 ぐい、と男が海斗の腰に手を回して前進を促した。

「さあ、一緒に帰ろう! 日本へ!」

「はい!」

 海斗は、自分の膝に、徐々に力が戻ってくるのを感じていた――


十八

 しばらくして――

 海斗は脚に力が完全に戻り、逆に脚を負傷した自衛官を支えて歩いた。

 炎の熱気が、歩みを急ぐ二人の背をじりじり焦がしていく――

 やがて二人は、左舷の舷側にたどり着いた。

 掛けられた縄梯子、その遥か下に、人を詰め込んだボートが見える。

「おい、降りれるか? 大丈夫か?」

 十メートルはある高さに、海斗は一瞬ひるんだものの、

「大丈夫です、降ります!」

「よし、先に行け!」

 自衛官に、大きな手で左肩をバン、と叩かれた。

 海斗はゆっくりと、縄梯子に取りついた。

 まだ少し膝が震えている。


 だが大丈夫だ。

 自分には待ってくれている家族がいる。

 絶対に、日本に生きて帰る――


 この決意が、海斗の震えを抑止してくれていた。

 縄梯子を握る手がやけに冷たい。

 一段一段、慎重に海斗は縄梯子を下っていく……


 ドドドン!


 大き目の爆音が響き、びりびりと『五輪丸』が身震いした。

 一瞬、海斗は目を閉じ、手足を止め――


「よし、頑張れ! 下にボートが待ってるぞ!」


 自衛官の頼もしい声が上から響く。

 海斗は眼を開き、再び青黒い船体を見詰めながら、またひとつ、またひとつと梯子を踏みしめる。

 その時――


 タ――――ン……


 頭上で銃声が響いた。

 びくっ――海斗は身を竦めた。

「うぐっ!」

 頭上で自衛官のうめき声がした。

 海斗が見上げると、自衛官の表情が苦悶に歪んでいる……


「だ、大丈夫ですか!」

 う、撃たれたのか? 

 海斗は驚いて声をかけた。


「いいから早く降りろ!」


 怒鳴って、自衛官は舷側から身を翻し、船上に消え――


「させるかよ!」


 怒声がかすかに届き、


 タタッ――タタタッ――


 続いて乾いた銃声が響いた。

「ひいいいいいいっ」

 海斗は頭上から迫る恐怖を感じて、一気に残りの梯子を降り始めようと――

 いや――


 海斗の身体は、宙に浮いていた――


十九

 満天の星空だ。


 銀河――


 一瞬、そんな言葉が頭に浮かび――


 ひゅうっ――


 風鳴り?


 ――ドパン!


 巨大な何かがしたたかに背を打ち、一気に海斗は暗闇の中へ――

 

 ごぽっ!


 口の中が塩辛い。

 耳が何かに塞がれる。

 海――海中?

 

 海斗は思わず必死で腕を動かそうと――

 いや――もどかしいくらいに、腕が動かない……

 目を開けても何も見えない――いや、目が痛い、暗い、そして――冷たい……

 もがく。あがく。海面は? 空気が――


『次、会えるのはいつ?』

 家――リビング。美咲が愛菜を抱き上げながら訊く。

『四月かな? 帰ってくるの』

『この子、海斗の事、忘れちゃうわよ』

 不満そうに頬を膨らます美咲。

 海斗を見て笑う無邪気な愛菜――


 ああ――駄目だ……

 俺――死ぬのか?


 スマホが照り返す、イラン人のあどけない顔――

『ユア……ユア、ファミリー?』

『イエス。マイファミリー……』

 イラン人が、ふっと微笑んで――


『見るな』

 冴え冴えとした自衛官の声――

 タタン!

 イラン人の、見開かれた眼から零れ落ちる涙……


 絶望――その時……


『あほたれ!』


 突然、岩田の怒声が聞こえた気がした。

 ぐっ――と、何かが背中を押したような――

 次の瞬間――


 ざぱっ――!


 海斗は頬に熱気を感じ、そして、


 はっ――はあっ――


 大きく息を喘がせ、空気を貪った。

 そんな海斗のオレンジ色の両肩を、何かがぐいっ――と掴み上げ――


 ザバッ――


 海斗の身体は、ボートの上に引き上げられた。


「ふあっ――げっ……げほっ! げほっ!」

 

 床に手を突き、海斗は激しくむせこんだ。

「大丈夫ですか?」

「歩けます?」

 そんな海斗に、誰かが声をかけて来た――


二十

「ヒトマルハチ、要救助者、一名確保ぉ!」

 大きな“銅鑼声”が海斗の耳に突き刺さった。

 海斗は両脇を二人の自衛官に支えられて歩いていた。

 ボートは二隻あった。

『五輪丸』に接舷しているボートは空っぽだ。

 その向こうのボートは人でいっぱいだった。

 中央の、見知った『五輪丸』クルーと視線を交わす。

 彼らの周囲には、黒っぽい装備に身を包んだ自衛官たちが座していた。

 皆、『五輪丸』の舷側方向に銃口を向けている――

 そんなボートの船首部分に乗り込むと――

 そこには、担架に横たわった女性が一人。

 確か、航海士の原木ばらきさん?

 生きてるのか? それとも、どこか怪我を?

 そんな原木に、先輩航海士の須藤香織すどう・かおりが心配そうに寄り添っていて――


「こちらヒトマルハチ! 艦長!

 タンカーの乗員のうち、十一名を救助しましたが、

 隊長の()()()()()()が最後の乗員を救出後、

 どうやら船上で撃たれたようで、戻りません!」


 ボートの後方に立つ“銅鑼声”が、叫んだ。


 ()()()()()()――

 

 海斗が自分を助けてくれたのであろう自衛官の名を心の中で反復したその時――


 ドドオォォォ――ン!


 背後で凄まじい爆音!

 突然、海斗は両側の自衛官に強くボートの床に押さえつけられた。


「うわぁっ……」

「きゃあっ!」

「伏せろぉっ!」


 そんな海斗の頭上を、乗員たちの声と熱風が吹き過ぎていく。

 ボートが激しく動揺した。


「くそっ! お前たちはここで待て! 俺が()()()を連れて来る!」


 銅鑼声の方を見ると、ボート後方にさっきの自衛官が仁王立ちしていて――


『タチケン………全員離脱! タテノを捨て…戻れ! 急げ!!』


 金切り声が、隣の自衛官の無線から海斗の耳に届く。


 え? 捨てる? タテノイチイを?


 海斗は愕然とした。


二十一

「先任! 離脱命令です!」

「先任! 先任!!」

「こら、放せ! 放せぇっ!」


“先任”と呼ばれた銅鑼声が、誰かに抑え込まれたようだった。

 熱風が吹きすさぶ中、


「いい! 出せ!」


 誰かの声が響いた。


 海斗を船底に押さえつけていた二人の自衛官が離れ――

 見ると、彼らは手に光る何かを持ち――

 牛刀? いや――巨大なナイフだ!


「……くそっ!」


 自衛官の一人が吐き捨て、空っぽのボートと繋がっていたロープを切断した。


「こ、後進いっぱ――い! ……くそっ! かかれぇ!」


 ボート後方から誰かの切迫した声が響く。

 直後――


 ヒュッ……ヒュイイイ――――――――ン!


 エンジンが悲鳴を上げ、海斗の身体の下のボートがブルブルと震えた。


 ドッ……バババババババババババっ!


 もの凄い音が跳ねて船体の震えが激しくなる。

 そして、ボートがタンカーから離れ始めて……

 巨大な“鉄塊”と化した『五輪丸』が、次々と起こる爆発に身を捩る。

 主を喪った縄梯子が、力なく揺れていて――

 自分の背中をここまで力強く支え、押してくれた、岩田と「タテノイチイ」の手を残したまま――


「ま、待ってください! あの人が、私を助けてくれたあの人がまだ!」


 思わず、海斗はうつ伏せのまま、叫んでいた。


「くそっ! タテノ! タテノォォォォォォォッ!」


 エンジンが波を切り裂く音、そして断続的な爆音の中――

“銅鑼声”の絶叫が、混沌の海域に長い尾を引いて響き続けていた――



 証言台の、背広の肩が震えていた。

 裁判官と自席の間に立った滝村の眼鏡が、そんな海斗をじっと見詰めている。

「船は……遠ざかる『五輪丸』は、爆発を続けていて――わ、私たちは助かりました、危なかった――でも、でも、あの爆発の中に――館野さんは――」

 被告人席の風間が、ぎゅっ――と目を閉じた。

 白い制服の肩章が、微かに震えている。

「証人は――」

 質問を続けようとした滝村の言葉を遮るように、


「館野さんだって家族がいたんです!

 待ってくれてる人が! なのに――なのに、私だけ……」


 ううううう……


 海斗の嗚咽が響き渡り、法廷は粛然となった。

「休廷しましょう――いいですね、弁護人」

 女性の裁判長の穏やかな声に、滝村が、

「ええ、ありがとうございます――お願いします」

 震える海斗の背中の向こうでは、初老の検事が、外した眼鏡のレンズを、そっと拭き始めていた――

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