第六章 一ノ瀬海斗――タンカー『五輪丸』司厨士 その三
十二
暗闇の階段に、ヘリのローター音が鳴り響いていた。
一歩一歩、海斗はタラップを踏みしめる。
その後ろを岩田が、そしてあの男が続いて来る。
階段からブリッジに入る防水扉は開け放たれていて――
そこからオレンジ色の光が漏れ射している。
そして、遂に三人はブリッジに到達し――
息を呑んだ。
正面の窓の外には大きなオレンジ色の炎……
すでに、甲板の中央部分までを舐めまわしている。
その炎を避けるように、光を投げかけながらヘリが飛んでいる。
そんな外の景色を映す窓は、そこここがひび割れていて――
蜜柑?
海斗は、デスクの上にぽつんとひとつ、蜜柑が乗っているのを確認する。
「船長――松本――あんたら」
背後から、絞り出すような岩田の声が海斗の耳に届き――
海斗は戦慄した。
正面のデスクに被さるように倒れた宮岡船長の死体。
そのそばの床には、仰向けの松本一等航海士が頭部を撃ち抜かれて――
「ウワアアアアアアアアアッ」
突然、海斗の背を悲鳴が突き刺した。
硬直した海斗の脇を、黒い影がばっ――と、ブリッジ内に飛び出す。
男の行く先には、迷彩服がひとつ、横たわっていて……
「ダダシュー! ダダシュームッ!」
ブリッジの床のそこここに、“迷彩服”が転がっているのが目に入る。
それは、おそらく『五輪丸』に乗り込んだ敵兵の死体――
ここで、自衛隊と敵兵の壮絶な戦いがあったのだろう。
それに巻き込まれて、船長と松本さんは死んだのだろうか?
「ダダシュームーッ! ウアアアアアッ……」
死体のひとつに跪き、男が泣き叫んだ。
肩を両手に持ち、必死で揺さぶっている。
しかし――死体は、何も答えない……
海斗は愕然とした。
言葉は判らなかったが、その死体は、男にとって大切な誰かに違いない。
と――
海斗は、ぐっ――と、左腕を強く掴まれた。
振り向くと、岩田の鋭い目が海斗を見詰めていて――
「走れ!」
岩田の囁きが飛んだ。
十三
弾けていた。
海斗は、一瞬で防水扉を飛び越え――
階段を駆け下り始めた。
ガチャガチャと背嚢が背中で激しく揺れる。
背後に岩田の追従する気配――
「ストップ! スターップ!」
背後の男の声は悲鳴のようだ。
ダダダダダッ――
チュッ――チュインッ!
重い銃声と跳弾の音が背後で跳ねた。
構わず海斗は全力で降り続ける。
無我夢中だった。
T字路に倒れた敵兵の死体を飛び越える。
廊下を曲がり、扉を通過し、さらに階段を下る。
どこをどう走りどこに向かっているのか――
そんなことは何も考えてなかった。
なぜか――海斗たちは食堂前の通路に戻って来ていた。
咄嗟に食堂に飛び込み――
結局、海斗たちは厨房まで戻って来てしまったのだ。
――帰巣本能?
一瞬、そんな言葉が海斗の脳裏をよぎり――
厨房の先の通路に飛び込もうとしたところで、海斗の足は停まっていた。
駄目だ! この下は米麦倉庫――行き止まりだ!
肩で大きく息をする。呼吸が完全に上がっていた。
背後を振り返ると、岩田が厨房に飛び込んで来るところだった。
その向こう――食堂に、さっきの敵兵が、喚きながら突入して来た。
「スタップ! スタァーップ!!」
泣き声のような英語が、海斗に突き刺さる。
厨房の入り口で、男が止まった。
調理台を挟み、こちらに銃口を向けた。
「ウッ――ウウウッ――ウッ」
男の肩が震えていて――
荒い呼吸の中、ごくり……と、海斗は唾を飲んだ。
「チェーファーカディ! ミーコシャット! ミーコシャット!」
男が、多分、ペルシャ語で……何か叫んだ。
「ユー! アイ……アイ、キルユー! ウウッ――」
男の声と、銃口が震えていた。
男は激情の嵐に呑み込まれているようだった。
死――
人生で初めて身近に迫った死――
海斗は、急激に指先や足先が冷たく冷えるのを感じた。
と――
視界の端で、何かが、ギラリ――と、光った。
海斗の左前に、中腰の岩田が敵兵に向き直って立っていた。
いつの間にか、岩田の右手には、牛刀がしっかりと握りしめられていた。
十四
「誰かいるのか?」
突然――
泣きながら銃を向ける男の背後から、大きな声が厨房に届いた。
日本語だ!
海斗は、はっ――とした。
同時に、暗い中で男が目を見開き、銃ごと背後を振り向こうと――
「危ない!」
反射的に、海斗は男の向こうの“日本人”に、声を投げた。
「伏せろ!」
「ウワアアアアアアアア――――――――――ッ!」
日本語と男の吠え声が交錯した。
刹那――
中腰の岩田が右手の牛刀を捨て、海斗に向かって飛びついた。
タ、タタタ、タ――
ダダダ、ドダッ――
銃声が轟き、海斗は岩田に厨房の床に押し倒された。
キンカンカンキン!
ぶら下がった調理用具が、火花を散らせて揺れる。
天井がスローモーションのように海斗の視界を流れ去り――
どうっ――
人の倒れる重い音が、厨房の入り口付近に響いた。
チャ……カチャ……
調理器具が音を立てて揺れていた。
海斗は床に仰臥していた。
腰が痛い――
保存食が詰まった背嚢が、背中を圧迫している。
海斗の胸の上に、岩田がしがみつき倒れていた。
ゆっくりと身体を離した岩田が、
「おい、イチ、大丈夫か?」
声をかけてきた。海斗は、暗くて表情の見えない岩田に、
「は、はい。だ、大丈夫です」
荒い息を吐きながら、何とか答えていた。
海斗も、もぞもぞと身体を起こし立ち上がる。
厨房の向こうの食堂に、一人の大男が片膝をついていた。
「おい……生きてるか?」
日本人の男が、やや震える声で海斗たちに問いかけた。
「おっそいわぁ……わしら、死ぬとこ、やったでえ」
立ち上がった岩田が、荒い呼吸の間に冗句を挟み込んだ。
日本人は、分厚いライフセーバー――いや、防弾チョッキか? を着こみ、ヘルメットを被って目にはゴーグルを装着し、手に小銃を構えている。
「悪い悪い……な、なんせ、道が混んでて、ね」
絞り出すような冗談で答え、大男はゆっくりと立ち上がろうと……
「くっ――」
大男の身体が、ガクッ――と沈んで、再び左膝を床に着いた。
「あんた――足、負傷したんか?」
岩田が駆け寄り、大男の左脇を支えた。
「へっ……なあに、か、かすり傷さ――弾は、貫通して――つっ!」
立ち上がった男は、左脚を浮かし、右脚に全体重をかけた。
見ると、男の左太ももの迷彩柄に、ジワリ――と、黒い染みが拡がっている。
岩田に支えられながら、空いている手でスコープを跳ね上げた。
「自衛隊です、もう大丈夫だ! ――さあ、ここを脱出しましょう!」
黒々と大きな瞳で、岩田と海斗を見やる。
その自衛官の精悍な顔つきに、海斗は、一気に安堵が拡がるのを感じて――
「ヤー……アッラー――」
海斗の足元から、敵兵の男のかすかな声が聞こえてきた。
びくり――と身が竦む。
足元に倒れた男の瞳と目が合う――
「アアッ……ヴァーイ――」
男の細い呟き――
大きな目から涙が頬を伝って流れ落ち、口は空気を求め喘ぐ。
と――
岩田から離れた自衛官が、足を引きずりながら歩み寄ってきた。
自衛官が大きな掌で海斗を押しのける。
自衛官の大きな身体に、敵兵の身体が隠れた。
「見るな」
一言呟き、
タタン――
敵兵の脚が、ビクッと痙攣して、動かなくなった。
海斗の呼吸が止まっていた。
自衛官の眼は……
さっきの熱を喪って、氷のように冷え切って見えた――
十五
スマホの光に照らされ、微笑んだ男――
『ユアファミリー?』
暗い浴室の湿気の中の、一瞬の交感――
「おい、大丈夫か?」
立ち尽くす海斗の耳元で、自衛官の太い声が響く。
男の死体を見詰めていた海斗は、はっ――と自衛官に目を移した。
自衛官の瞳には、またさっきの“熱”が戻っている。
「自衛隊ってことは、あんたら、ヘリコプターで?」
岩田の問いに、自衛官は、顔をしかめながらもにっこりと笑って、
「ええ、あのヘリも確かにうちのヘリですが――これから貴方たちをボートに乗せて俺たちの艦まで案内します! さ、行きましょう!」
促した。それを聞き、岩田は、
「そうか――おい、イチ! 背嚢はもういい、置いとけ!」
言いながら、自らも床に背嚢をどさっと降ろした。
海斗もそれに倣う。
その時――
ドドドドン!
大きな爆音が轟き、厨房が揺れた。
ぶら下がった調理器具がぶつかってランダムな音を立てた。
「おおっと! 急ぎましょう!」
自衛官が言って、足を引きずって歩き始める。
海斗は、もう一度、倒れている男を見つめ――
彼もまた、人間だった――
「おい、イチ」
岩田が海斗の腕を握った。
その眼が真っすぐに海斗の眼を射抜く。
「ええか。あの人はやるべきことをやったんや――行くで!」
胸につっかえるものを抱えたまま――
海斗は頷くと、食堂を出た自衛官を追いかけ始めた。
「ヒトマルヨン! おやっさん、うるさいよ――聞こえてるから、もうちょっとその銅鑼声のボリューム、落としてくんねえかなあ……」
狭い通路を歩きながら、自衛官がどこかと無線で交信していた。
引きずってはいるが、先ほどよりよほど足取りはしっかりしている。
今、岩田が船内を先導していた。
岩田の後に自衛官が、一番後ろを海斗が続く。
「ヒトマルヨン! 厨房から二名の生存者確保! 今からそっちに向かう……」
『ヒトマルハ……ヨン、急いで……』
無線の向こうからの“銅鑼声”が、くぐもって聞こえてくる。
「ヒトマルヨン、判ってるよ……置いてかれちゃたまったもんじゃない」
通信を終えると、
「いや――炎が船の中央まで迫って来てたんで、俺以外の隊員にはボートへの撤収を命じたんですが――厨房に何か引っかかるものを感じてたんで、来てみて大正解でしたよ」
「何が引っかかったんや?」
先導する岩田の問いに、
「何か鍋で作ってたでしょ? まだ温かかったし――」
「あー、葛餅か」
「へえ、葛餅!」
自衛官が応えたその時――
ズズズン――
再び船が大きく揺れ、爆音が響いた。
その場でたたらを踏んだ三人は、狭い廊下の壁にもたれるような形になる。
「畜生、火が大分船の中央に迫ってきてやがるんだ……間に合うといいがなあ」
自衛官が毒づいた。
「こっからは時間との戦いやな」
岩田が言って、さっきよりも歩を早めた。
十六
外のデッキへの出入り口に着くと、岩田がハンドルを回して扉を開けた。
オレンジの光が廊下に差し込み――
ゴウッ――
質量を伴う風が吹き込んだ。
熱――
海斗は愕然とした。
外の状況は予想以上だった。
炎は、海斗たちのすぐそこまで、甲板上を進んで来ている。
空気に煙と――油の臭いが混じっていた。
「くそ、やべえ――よし、行こう、俺が先に出る、続いてくれ」
そう言って、男、岩田、海斗の順で、デッキに出る。
様々なアッパーデッキの上の構造物――
ベントポストや通風筒、多数の配管の集合体の隙間を縫い、熱風が吹きすさむ。
いよいよ『五輪丸』の最後の時が迫っていた。
海斗の心に恐怖が満ちる。
三人の歩みが自然と早くなる。
その時だった。
ズッ、ガチャッ――
頭上の足音と金属の擦れるような音――
刹那、
「あほたれ!」
ダダダッ――
岩田が海斗を跳ねのけるのと、銃声が轟くのがほぼ同時だった。
海斗は、甲板に左肩からしたたかにたたきつけられた。
「野郎!」
自衛官の野太い怒声が聴こえ、
タタタッ――タタッ――
ダララララッ――
銃声が交錯した。
「ひっ!」
悲鳴を上げ、反射的に海斗は甲板にうつぶせに頭を抱えた。
しばらく甲板にうずくまる海斗――
熱い風が頬をなぶり、海斗はおそるおそる顔を上げる。
ブリッジに続くタラップから、敵兵が一人、向こう側に落ちていくのが見え……
そして、その手前の甲板に――
岩田が倒れ伏しているのを……海斗は見た。




