第六章 一ノ瀬海斗――タンカー『五輪丸』司厨士 その二
六
「しかしあれやな、海に出た後、どこに向かえばええんやろ……」
背後で岩田が囁きながら溜め息をつく。
海斗は食堂の出入り口から狭く暗い通路を覗きこみ、
「岩田さん、取りあえず今ならいけそうです」
「仲間はおらへんのか、わしらの仲間は」
「敵兵もいませんが、私たちの仲間も見当たりませんね」
「しゃーない、行くか」
そろそろと、二人は食堂を這い出した。
背を屈め、足音を極力立てないよう注意しながら先に進む。
そんな二人の耳に、またしてもあのヘリのローター音が聞こえて来た。
「あかん、また戻って来よった!」
岩田が鋭く囁いた、その時――
ダーン、ダダッ――
ようやくたどり着いた船外に出る鉄扉の向こうに、重い音が響いた。
銃声?
二人は、びくり――と、身体を強張らせる。
後ろから付いてきていた岩田は、海斗の肩に手を置き、
「外に出るのは危険やな。ちょっと様子見るか」
二人は鉄扉までゆっくり進み、海斗は外の状況に耳をそばだてた。
相変わらず、ヘリのプロペラの音がバタバタと響いている。
そして、散発的な銃声――
時折、ドドン――という籠るような音が響き、船体がびりびりと揺れた。
銃声はどうも、少し遠いように海斗には感じられ、
「ちょっと見てみます」
背後の岩田に告げると、岩田は、
「イチ! 待て! わしが見る、お前はしゃがんどけ」
海斗の肩を掴んで止め、自分が前に出た。
重いハンドルを回してロックを解くと、岩田はゆっくり扉を開けていく――
熱い空気の塊と、いやな鉄の焦げたような臭いが流れ込む。
ヘリのローター音が大きく廊下に反響した。
岩田は隙間から身体を乗り出し、外の様子を窺う――
「あー……大分炎がこっち来とるわ。参ったなあ……ん? やべ!」
岩田はさっと身体を廊下に戻し扉を閉め、ハンドルを回した。
さっきまでのヘリの音と銃声も遠くに締め出される。
「どうでしたか?」
海斗が訊くと、岩田は、
「ブリッジに上るタラップに、何人かの敵兵がいてるみたいやわ」
「じゃあ、外に出るのは危険ですね!」
「それがやな、どうも妙なんや」
岩田が神妙な顔つきになる。
「なんかな、敵兵、空に向けて発砲しとるみたいなんや」
「え? 空ですか?」
岩田はしばらく考え込み、
「何かなあ……ヘリに向かって撃っとるみたいに見えるわぁ」
「それって――」
「ヘリは、わしらを救助しに来てくれたんかも知れんぞ」
海斗は胸に希望の光が灯るのを感じた。
「ほやけど今、こっちから外に出るのは、ちょいリスクが高そうやな」
岩田がじっと黙り込む。
「よし、裏の出口からデッキに出るか」
二人は頷き合うと、今度は元来た廊下を奥に向かって戻り始めた。
七
通り慣れたはずの曲がりくねった通路――
今ではそれが、悪意に満ちたダンジョンのようだ。
どこから“敵兵”が現れるか判らない。
が、しかし――
同時に、この延焼防止目的の構造が、自分たちを隠してくれてもいるのだ。
そんな事を思いながら、海斗は、岩田の小さな背中について行く――
タタタ、タタタタッ――
ドッ――ドダドドドッ――
銃声に、びくり――と、二人は足を停めた。
岩田と海斗が同時に天井を見上げる。
銃声は遠く、はるか上の方から響いてきたように思えた。
何が起こったのか、誰かが戦っているのか――
海斗と岩田は顔を見合わせた。
「な、何ですかね? じ、銃撃戦?」
「のように聞こえるが……」
息を潜め、しばらく立ち止まっていた二人だったが、
「まあ、ここにいてもしゃあない。行くで」
岩田の号令で、再び二人は歩を進めた。
その岩田が、次の曲がり角の先を覗き見て、さっ――と顔を引っ込めた。
海斗も、咄嗟に足を停める。
岩田が、無言で海斗に通路の先を指さした。
この先に”敵兵”がいる――
おそらくはそういうことだ。
岩田が、今度は元来た方向をしきりに指さしする。
「戻れ」の合図――
海斗は回れ右して、通路を戻り始めた。
足音を極力立てないよう、かつ、なるだけ速足で……
背嚢やライフジャケットの衣擦れの音が、必要以上に通路に響く。
心臓がばくばくと早鐘を打つ。
その音すら、敵兵に聞こえるのではないか――
「フリーズ!」
突然、背後から鋭い声がかかった。
びたっ――海斗の脚が凍り付いた。
心臓も、鼓動を止めたかのよう――
背後から、重い足音と、カチャカチャという音が近づいて来る。
恐る恐る振り返ると、岩田が両手を頭上に挙げ凝固していた。
その向こうに、背の高い黒い人影が、立ち止まって――
ぴたり――と、銃口を岩田の後頭部に突き付けていた。
岩田さん……
ごくり――唾を飲んだ。
「ドンムーブ――ハンズアップ!」
鋭く影が告げ――
岩田の頭部に当てていた銃口を、今度ははっきりと海斗に向ける――
死――
銃口の不吉な黒い穴が、海斗を凝視していた。
そして――
海斗は、両手をゆっくりと頭上に挙げた。
八
「シッ! シッダウン!」
人影が命じた。
岩田と海斗が、ゆっくりと床に膝をつく。
「ドンムーブ」
銃口を海斗に突き付けたまま、人影が左手を口元に当て、何か喋り始めた。
すらりと背の高い男だった。
照明が十分でないのでよく判らないが、迷彩服を着ているようだ。
顔は、目だけが露出した、いわゆる“目出し帽”ってやつか?
額には、何かのスコープのようなものを装着している。
どうやら、男は今、マイクでどこかと通話しようとしているようだった。
海斗には解らない言葉で、しきりに何か話している。
が――
向こうからの返答は聞こえてこない。
いや――イヤホンをしているから聞こえてこないだけか?
「ラトッシュ!」
突然、男が吐き捨てた。
上手く仲間と交信できていないのだろうか――
男は、目出し帽の中の瞳を上げて、天井を凝視した。
そして、何やら独り言を言っている。
どうやら、男にとっても、“不測の事態”が発生しているように、海斗には思えた。
「ドンムーブ。オーケイ?」
男の問いかけに、
「イエス、オッケー。イエス……」
海斗はそう、答えるしかなかった。
そのまま、男は海斗たちに銃を向けたまま動かなくなり――
どれほどの時間が経過しただろうか?
それなりに長い時間だったような気がする――
「ヘイ! ユー! ヘイ!」
意を決したかのように、男が、岩田と海斗に語り掛けて来た。
「ブリッジ! ゴー! ブリッジ! ヘイ!」
「ブリッジに……連れてけ、ちゅうことか?」
「シャラップ! ノースピーク!」
岩田の海斗への問いかけを、男が鋭く遮断した。
海斗はたまらず、
「ドゥ……ドゥユーウォンチューゴーブリッジ?」
片言の英語で訊いた。
男は、これを受けてしきりに頷くと、
「イエス――イエス! ブリッジ! ゴー!」
ゆっくりと、海斗は立ち上がった。
九
海斗が先導し、暗く曲がりくねった通路を、ゆっくりと歩いて行く。
すぐ後の、運動靴の足音は岩田のものだ。
そして――
さらにその後ろの、重い靴音と金属のカチャカチャ鳴る音。
死――
見えはしないが、男は銃口を岩田か自分に向けているはずだった。
その冷たい射線を、海斗は嫌でも意識せずにはおれない。
階段を、次の階層に上って行く。
ここは居住区だ。
海斗たちの個室や、洗濯室、リネン室、浴室などがある区画――
次の階段に向かって、廊下を歩み続けていると、
「うわああああっ!」
突然、前方のT字路から声が響いてきた。
海斗は身を竦ませ、立ち止まった。
続いて、
「ドンムーブ!」
という声と共に、
タタタ――タタタッ――
銃声?
T字路に“敵兵”らしき人影が現れ――倒れた。
刹那――
海斗は、背後からガバっと抱きすくめられ――
そのまま後方に引きずられるようにして、廊下から“部屋”に引き込まれる。
海斗は、自分のわき腹に銃の硬さを感じ、ぎくりとなった。
見れば、男の反対側の腕は岩田を抱きかかえていて――
左右の壁に、いくつかの木枠の棚が並んでいる。
――更衣室?
さらに後方に進んだ男は、部屋の奥の引き戸を開けた。
中に海斗と岩田を放り込むと、男も中に入ってすぐに引き戸を閉めた。
熱気、湿気、硬い床のタイル――
そこは、『五輪丸』の浴室だった。
真っ暗な浴室――
ムッ……とする熱気と、固形物のような湿気が、海斗を包んだ。
浴室の戸口の内側に張り付くように、男が銃を構え屈んでいる。
外の様子に耳をそばだてているようだ。
「自衛隊です! 大丈夫ですか?」
「ケガはありませんか?」
戸口の向こうの廊下から届いてきた声――
湯が煙る暗闇の中、思わず、海斗は岩田と目を見合わせた。
十
自衛隊が――自分たちを、助けに来てくれている?
否応なく、期待と希望が、胸の内に沸き上がる。
ここです! ここにいますよ!
思わず声を出しそうになり――
それは叶わない、と絶望する。
そんなことをすれば、目の前のこの男に何をされるか判らない――
「自衛隊? あ、ありがとうございます!」
浴室に届くタンカー乗員の声は少し弾んでいて――
「よく頑張りましたね! さあ、行きましょう!」
待って――
思わず、また海斗は声を上げそうになる。
と――
誰かが、引き戸の向こう、更衣室に踏み込む気配が――
戸口に張り付いていた男が緊張した。
チャッ……
ライフルをゆっくりと持ち上げる。
更衣室を近付いて来る重い足音――
目出し帽の中の男の眼が、暗い中でもギラリと光ったように見え――
「浴室は確認済みだ! 戻れ!」
足音の向こうから声が飛んだ。
「え? あ、一曹、ここ、確認したんスか?」
足音が止まり、カチャカチャと金属の擦れる音が響く。
「そこには誰もいなかったよ! さあ、行くぞ!」
「了解!」
ズチャッ、ズチャッ、ズチャッ――
足音が遠ざかり――更衣室を出て行った。
海斗の中の緊張が、急激にしぼんだ。
そして、心のどこかに抱いていた“希望”も遠ざかっていく……
戸口に張り付いていた男が、
「フーッ!」
大きく息を吐いた。
銃がだらり――と下がる。
そして、空いた手で目出し帽をかなぐり捨てた。
暗い浴室の僅かな視界の中、鼻筋は高いが、大きな目が幼なさを感じさせ――
男は、まだあどけない少年のように、海斗には思えた。
男の瞳には、安堵と脅えが同居しているようだった。
これは、チャンスがあるかも知れない。
海斗は岩田と目を見合わせ――
右手でそっと、ジーンズの後ろポケットに入れたスマホを握りしめた。
十一
「そして証人は、岩田さんと、その男とともに、しばらく浴室の中に身を潜めていたのですね?」
明るく空調の効いた法廷で、滝村が海斗に訊いた。
「はい、そうです」
「男は、どうしてそんなに長く浴室にいたのでしょう?」
「多分ですけど――状況がよく呑み込めていなかったのだと思います。私たちには、自衛官の人たちが、浴室は確認済みだからと去って行ったことが理解できていましたけど、彼は、すぐに浴室を出ては危険だと思ったのではないでしょうか?」
ピチャッ――ポチャッ……
湯船に落ちる湯滴が、時を刻む――
どのくらい時間が経ったろう?
押し包んでくる湿気と熱気で、シャツが海斗の肌に張り付いていた。
浴室の戸口に背を預け、男はじっ……と、座っている。
その眼は、海斗たちを見張りつつも、時折外の様子を窺うようにしていて――
と――
男の瞳が、海斗の尻ポケットに触れる右手を見咎めた。
男の眉間にしわが寄り―
「ヘイ! ショウミー!」
鋭く男が囁いた。
しまった――
海斗は胸の内で舌打ちする。
迂闊だった。
美咲と愛菜の元に、絶対に帰る――
この決意が、自然にスマホを握りしめる行為に繋がってしまっていた。
それを、男に疑われてしまったのだ――
岩田を見ると、岩田は小さく瞳を動かし、
“スマホを出せ”
合図した。
しぶしぶ、海斗はスマホを取り出し、男に渡した。
男はスマホを受け取り、じっ――と凝視する。
スマホに照らされた男の表情が、ふっと緩んだ。
「オー、グーシー……フー……ドゥ」
何と言ったのだろうか?
多分ペルシャ語だ……
「ユア……ユア、ファミリー?」
男が英語で訊いてきた。
「イエス。マイファミリー……」
海斗の言葉が浴室に小さく反響した。
男の唇の端が、少し上がったように見えた。
――笑った?
男がスマホを海斗に差し出す。
その待ち受けには、美咲と愛菜が柔らかく微笑みかけていて――
スマホを受け取ると、海斗は自分のポケットに戻した。
一瞬、男が人懐っこい表情を浮かべて海斗を見詰め――
が、すぐに瞳を床に落とし、思い詰めた硬い表情に戻った。
しばらくの沈黙の後――
男は顔を上げ、外の様子を窺ってから、再び海斗に視線を向けると、
「ゴー! ゴー、ブリッジ! ゴー!」
言って、立ち上がった。
海斗が岩田を見ると、岩田も静かに頷いている。
岩田の顔は汗と湯気で濡れ光っていた。
そう――今は、従うしかないか。
海斗と岩田は立ち上がると、男に促されるまま、浴室の引き戸を開けた。
更衣室と、その向こうの廊下の闇には、人の気配は――ない。
そろそろと、海斗は浴室から外に出た。
船内の冷えた空気が、海斗の肌に心地いい。が――
「ゴー! クイック!」
海斗に向けられた銃口が、一瞬緩んだ海斗の心を引き締める――
そして、海斗たちは再び、ブリッジに向け歩を進め始めた――




