第六章 一ノ瀬海斗――タンカー『五輪丸』司厨士 その一
一
ドドォン――
夢見心地に、遠雷のような大きな音が耳に聞こえ――
「いってえ!」
左肩に走る強い痛み――
一ノ瀬海斗は、目を覚ました。
部屋が震え、照明が一瞬明滅する。
――何だ?
白い床と、そこに転がる黒いスマホ。
身を起こすと、目の前に大きなリクライニングチェア――
やっと、寝ていた自分がチェアから落っこちたことに気が付いた。
そして、ここが“船の上”であることも思い出す。
さらに、唐突な違和感――
エンジン音が、消えている……
どうしたんだ?
先ほどまで心地よい揺れを届けてくれていた『五輪丸』の機関――
それが、完全に“沈黙”していた。
つい先日までの閉塞感が、海斗の胸中に蘇る。
イラン戦争勃発後、ペルシャ湾内に閉じ込められた不安な日々――
アメリカとイランの停戦合意がようやくまとまり……
イラン政府の通行許可を受けた『五輪丸』は、ホルムズ海峡を抜け、日本に向けて順調に航行しているはずではなかったか。
混乱する頭で、床のスマホを持ち上げた。
一歳になる娘、愛菜を抱きかかえる妻、美咲の笑顔――
海斗は、そんな待ち受け画面を一瞥してから、少し荒れた手でジーンズの後ポケットにスマホを突っ込み、ゆっくりと立ち上がった。
ここは、船員のレクリエーションルーム。
二十畳ほどの空間に、テーブルと椅子が置かれている。
一方の壁面にはテレビが置かれ、据え置きのゲーム機なども設置されていた。
日々の仕事を終えた海斗は、ここでくつろぎながら煙草を吸うのが日課だった。
この日は、スマホで漫画を読んでいる内に寝落ちしてしまったのだ。
そういうことも、ままあることだった。
レクリエーションルームはすでに無人だった。
寝る前に一緒にいた船員たちは、すでに自室に戻って行ったのだろう。
ジーパンにTシャツという普段着姿の海斗は、ルームを出た。
食堂を抜け、狭く曲がりくねった廊下を速足で歩く。
機関の音が消えた暗い廊下は、不気味な静けさに満ちている。
何が起こったんだ? そして、さっきのあの“轟音”は?
海斗は廊下の突き当りに至った。
目の前には外デッキに出るための重い扉。
中央に設置された大きなハンドルを、ゆっくり回し、扉を開ける。
そして、海斗は――信じられない光景に唖然となった。
二
巨大なタンカーの船首から、大きな紅蓮の炎が立ち上っていた。
炎の先端が星空を舐め廻し、煙が夜空に吸い込まれて行く――
むわっ……とした熱気は、大気の熱か、それとも炎のものか?
潮の香りに交じって、つんとした油と、鉄が燃える独特な臭いが鼻をくすぐる。
タンカーの機関音とは別の、唸るようなエンジン音が、どこからか響いてくる。
「おい……冗談じゃねえぞ」
ざわざわと不安が心の中を駆け巡る。
海斗はブリッジを見上げた。
ブリッジは暗く、中で何が起こっているのかは――判らない。
これは、訓練したとおりに動く時が来たようだ。
海斗は、まず、自室に戻り、ライフジャケットを取りに行くことにした。
その後、ボートデッキに赴き、集合した他の船員たちと共に、救命艇の準備をする。
これが非常時を想定した訓練での、海斗の動きだった。
踵を返すと、出てきた出入口を中に戻った。
狭い階段を居住区の中層階に向け、一段飛ばしに駆け上がろうと――
「な、なんなんだよ、お前ら!」
突然、上方からの船員の声――
「ホールドアップ!」
「フリーズ!」
聞き慣れない英語と、ガチャガチャという金属音――
海斗は、さっ――と血の気が引くのを自覚した。
何だ? この感じ――
本能的に、足音を忍ばせながら元来た階段を下に向かって降り始める。
上階からはさらに英語の怒号と船員の悲鳴が聴こえてくる。
おいおい、なんだよ……テロリスト?
いや、正体はさっぱり解らないけど、
正体不明の敵対的な何か
が、タンカーに乗り込み、他の船員を脅していることは確かだ。
だめだ、ライフジャケットを取りに部屋に戻ることはできない。
っていうか、そもそもボートデッキに行っても……
仲間は誰もいないか、下手をすればこの謎の武装集団がいるかもしれない。
――どうする?
海斗の足は、低層階の入り組んだ通路を、無意識に自分の“居場所”に向かっていた。
三
通路を抜け、間口をくぐると、そこは部員食堂だった。
テーブルと椅子が夜の闇に沈み、空調と換気扇の音だけが耳に届く。
周囲を警戒しながら食堂を進み、厨房に入る。
見慣れた調理台――周辺にはガスコンロや揚げ物機。
天井付近からお玉やトングなどの調理器具がぶら下がる。
よし、ここなら……どこにでも行ける……
海斗は少しだけ、安心した。
厨房はブリッジの構造物のいわば“ハブ”のようなところだ。
部員食堂と士官食堂の中央に位置し、部員食堂の奥には、さっきまでくつろいでいたレクリエーションルームがある。他にもいくつかの出入り口があり、それぞれ冷凍・冷蔵庫に繋がっていたり、階段を降りれば乾物倉庫があったり、別の出入り口から階段を昇れば居住区に、降りれば機関室に繋がる。
そう、海斗はタンカーの料理人――司厨士である。
この商船越後屋の『五輪丸』に乗り組んで二年目、ようやく仕事にも慣れてきた。
もう一人、厨房には司厨長がいた。
岩田悟朗、この道三十年のベテランだ。
岩田は五十八歳、海斗が二十六歳、親子ほどの年齢差である。
『鍋はストッパーで固定せいといつも言うとるやろが! ここは船なんやぞ!』
『エサちゃうで! 料理やで! 盛り付け、いつになったら綺麗にできるんや!』
『この、あほたれが!』
岩田の関西弁の怒鳴り声が頭に響く。
海斗は、一瞬、日常が遠く過ぎ去ってしまったような妙な感慨に捕らわれて――
――ん?
暗い中、ガスコンロの上に置かれた湯気を立てる鍋が、海斗の目に飛び込んだ。
火は切られているようだが……
これは、岩田さんが?
考える海斗の耳が、部員食堂の向こうの廊下の重い足音を捉えた。
まずい! 侵入者か?
と――
突然、背後に人の気配を感じたかと思うと、海斗は大きな手に口を塞がれていた。
「んん!」
思わず声が出た。
そのまま、ゆっくりと後ろに引き倒されて行き――
口と腰のあたりをがっちり確保され、まだ湯気を上げる鍋の背後に引き込まれた。
刹那――
バラバラと足音がして、外から二人の人影が厨房に入ってきた。
海斗は何者かにホールドされたまま、身を固くした。
鍋とコンロの隙間から見える男たちは、手に銃を持っているようだった。
顔にはゴーグルらしきものを付けている。
見つかったら、殺される――
恐怖と共に、口に当てられた手が温かく、そして妙に粉っぽいことに気付き――
男たちは、ひととおり厨房の中を歩き回って確認する。
そして、すぐに別の出入り口から駆け出して行った。
侵入者が出て行ってしばらくして、海斗の戒めが解かれた。
後ろを振り向くと、そこには――
「岩田さん!」
しわだらけの顔の司厨長の瞳が、じっと海斗を見詰めていた。
「このあほたれが。ぼさーっとしとるんやないわ。しっかりせんかい」
囁く岩田の関西弁が、妙に懐かしかった。
四
「さて、こっからどうするかやが、イチ」
“イチ”は、岩田が海斗を呼ぶときの愛称である。
ここは厨房からひとつ、階段を降りた米麦倉庫。
米や麦などの粉物の袋が、いくつもパイ積みに積み上げられ保管されている。
ここなら死角も多く、そう侵入者に発見されることもないだろう――
ドドン……
遠くから爆音が響く。
遅れて倉庫の壁と米袋が、びりびりと少し揺れた。
「ゆ、誘爆が始まってるんでしょうか――」
口についた粉を拭いながら、海斗が言った。
「そやな――ここじゃなーんも外の状況が判らんからなぁ」
時折響いてくる爆発音のようなもの以外、倉庫は静寂が支配していた。
それにしても――海斗は思った。
ここに保存された米や麦は、半年は優にもつ分量である。
日本とイランの往復期間は約一か月半から二か月だ。
司厨士になりたての頃、海斗は、この過剰な備蓄に疑問を抱いた。
しかし、今回のホルムズ海峡封鎖が、この“備蓄の意味”を海斗に教えていた。
ただの海に浮かぶ箱と化した『五輪丸』の船内で、この糧食の“安心”が、どれだけ乗員の心を支えただろう。
さらに、海峡封鎖の始まったばかりの頃、岩田は、正月の余った餅を細かくちぎって乾燥させておいたものに、砂糖をまぶして“ひなあられ”として提供したり、五月には上新粉を練って柏餅を提供するなどした。
季節に応じた“出し物”に、乗員たちは大喜びだった。
この夜も、岩田は葛餅の仕込みのため、ひとり厨房に籠っていた。
火にかけた鍋の中で、片栗粉を素手で練り込みダマを潰していたその時――
船首で爆発が発生し、武装集団が侵入したことに気付き、厨房に隠れた。
そこに、海斗が後からやってきて厨房の入り口付近に佇立した。
直後、侵入者の気配を感じ――
岩田は、海斗を厨房の暗がりの中に引き込んだのであった。
「他の乗員は、無事なのでしょうか?」
海斗が訊くと、岩田は肩をすくめた。
「やけなーんも判らん。参ったなあ」
岩田は白い粉のついたままの手で頭を掻いた。
「岩田さんも水臭いですよ……言ってくだされば私も葛餅作り手伝ったのに」
「あほ! お前は口が軽いやろ! サプライズにならんのじゃそれやと」
言ってから岩田は、
「大体わしに言われてからっちゅうのんは、下の下や。もっと自分でこういうことを考えなあかん。わしら司厨士は縁の下の力持ちや。乗組員の人らをどうすれば支えられるか――この意識が大事やといつも言うとるやろが、たわけが」
「こんな時に説教は勘弁してくださいよ」
抗議しつつ、海斗は、はっ――と思いついたように、
「ところで岩田さん。岩田さんは、実はアメリカの元特殊部隊の兵士で、これから武装集団に対して戦いを挑んで私たちを助けてくれるって言う――」
海斗の頭を、岩田がバシッ! と掌ではたき、白い粉がぱっと周囲に舞った。
「アホ! スティーブン・セガールちゃうわ!」
その時――
バタバタバタ……という音が、船外から聴こえてきた。
最初は遠い音だったが、やがて倉庫内の空気を震わせるくらいにまで近付き――
「岩田さん、あの音――」
「そや……ヘリの音や……」
岩田は、暗い天井を、じっ――と睨みつけた。
五
「それで、証人たちはどうしましたか?」
裁判長の席の下に座った書記官の眼鏡が目に飛び込み、海斗は、はっ――とした。
白い光の降り注ぐ関東地裁104号法廷――
この日、一ノ瀬海斗は被告人側の証人として召喚され、証言していたのだった。
「岩田さんと相談しました」
滝村の問いに、海斗は答えた。
「何を相談したのですか?」
「はい、このままここにいても仕方がない、何とか脱出する手立てを探すべきだと」
華奢な体格の海斗は、スーツに着せられている、という表現がぴったりだ。
海斗の右手の三人の弁護団――
その一番奥の滝村が、書類を見ながら海斗に質問を投げかけている。
弁護団の手前に、白い海自の制服を着た風間が、俯いて座っていた。
その薄灰色の瞳は、何も映していないかのよう――
「脱出するための相談として、どんなことを話し合いましたか?」
風間に視線を泳がせていた海斗に、滝村が問うた。
海斗は、正面に向き直り、
「とりあえず、外に出てボートデッキを目指そう、となりました。それから、侵入者に気取られないようにしながら、何とか他の乗員と合流しようと」
答える海斗を、左側から、三人の検事たち――
鋭い視線の主任検事、丸い顔の若い検事、そして、眼鏡をかけた白髪の検事が見詰める。
「先ほど聞こえて来たヘリの音については、どんな話をしましたか?」
海斗の正面、一段高くなった壇上からは、三人の判事の中心で、初老の女性裁判長の柔らかい目線が、海斗を見下ろしていた。
「まったく状況がつかめなかったので、正直、敵のヘリだろうと私たちは思っていました。しばらくしてヘリのプロペラのパラパラ言う音が遠くに去っていったので、動くなら今かもしれない、となりました……」
海斗と岩田は、暗い中、足音を忍ばせ米麦倉庫を出た。
階段を上り、厨房を経由し、乾物倉庫に入る。
「そいつや、そいつに乾燥食品は詰め込んであるわ」
岩田が乾物や調味料の在庫の並んだ棚の下の大きな背嚢を指さした。
非常事態が発生した際、司厨士は食料品を持ちボートデッキに赴く。
海斗が背嚢を背負おうとした時、岩田が制止した。
「その前に、これ着ときや」
言って、棚にかかった服を無造作に掴んで海斗に渡した。
それは、暗い中にもオレンジ色が鮮やかなライフジャケットだった。
「岩田さん、これ……」
感謝の視線を投げる海斗に、岩田はライフジャケットを着こみながら、
「あほ。別に特別にお前のために用意しといたんとちゃうわ。救命胴着を自分の仕事場に用意しとくんは、常識や。――ってか、義務、やで」
教え諭した。
そして、ライフジャケットを羽織る海斗を見詰め、
「なあ、お前には嫁はんと生まれたばかりの娘さんがおるんやろ? 絶対生きて帰らな。な?」
海斗のジャケットの肩を、ポン――と叩き、白い粉がわずかに舞った。
ジャケットが海斗の身体に心地よくフィットする――
「はい!」
返事をしながら、海斗は、尻ポケットの中のスマホを、ぐっ――と握り締めた。




