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第五章 須藤香織――タンカー『五輪丸』一等航海士 その四

十五

「じゃあ、行きましょう!」

 鈴野が、本多たち『五輪丸』クルー生存者六人に、力強く宣言した。

「咲奈、行くよ」

 香織は、床に伏せている咲奈に声をかけ、肩を貸し立ち上がらせる。

 咲奈の眼はうつろで、身体には全く力が入っていない……

 相変わらず上空を舞うヘリの探照灯が、ブリッジ内を時折照らし出す。

 と――

 白い光の中に浮かび上がる、仰向けに倒れた松本の死体……

 瞬間――立ち上がった咲奈の瞳に生気が宿る。


「みっちゃあん!」


 咲奈の叫びがブリッジに響いた。

 力を取り戻した咲奈が、香織の腕を振りほどき、松本の死体に駆け寄る。

「咲奈!」

「咲奈さん!」

 香織と鈴野が同時に叫んで咲奈を追った。

 咲奈は、反り返ったような形で仰向けに倒れている松本の身体に飛びついた。

 そして、松本を抱き起そうとして――

 こと切れた松本の、かっ――と見開かれた目が、咲奈を見詰める。

 反射的に松本の身体を離した咲奈は、


「いやぁ――――――――っ!」


 暗いブリッジを切り裂く叫びを迸らせ――

 身体を仰け反らせた咲奈の瞳が、ぐるっ……と裏返る――

 駆け寄った香織は、咲奈を抱き留め、

「咲奈――咲奈!」

 呼びかけるが、咲奈は応える気配がない。


 イラン兵の侵入、婚約者の死――


 地獄の夜は、咲奈の正気を完全に奪い去ってしまった……

「おう、どけ」

 香織と鈴野の背後から、声がかかった。

 椚田が、二人の間にその四角い身体を割り込ませる。

 そして、咲奈の小さな身体を、その異様に広い肩に、ひょい、と担ぎ上げた。

「椚田さん!」

 鈴野が男に声をかけると、椚田は、腹をさすりながら、

「……ぃてて――この人は俺が運ぶ。副隊長は、この人たちと」

 柔らかな目で香織と本多たちを見回してから、

「周囲の警戒を頼みますよ」

「よし! じゃあ俺が、左舷のボートまで先導します! 付いてきてくださいよ!」

 もう一人の自衛官、北濱が、元気な声で言った。

 ましらのように左ウイングに飛び出て、左右を警戒した後、

「オッケーです!」

 声をかけた。

 咲奈を肩に担いだ椚田、本多たち『五輪丸』クルー、香織の順で続き――

 香織が振り返ると、鈴野が小さく頷いた。

 歩き出した香織は、背後で最後尾を務める鈴野に、心強さを感じていた。


十六

 固形物のような熱気と、潮に火と油が混ざり合った臭いが大気に充満していた。

 船首方向を見て、香織は息を呑む。

 吹き上がる炎が、船の中央部付近までを飲み込み、なめ尽くしていた。

 北濱が、左ウイングに設置されたタラップを軽快に降りていく。

 踊り場に着くと左右確認し、またさらにその下へ――

 北濱に続く、咲奈を担いだ椚田の揺るぎない広い背中。

 そして本多と他のクルーの面々、後衛の鈴野の足音を背後に聞きながら、香織もタラップを下に降りて行った――



『何とか私たちは、『五輪丸』のブリッジ直下のデッキに、無事到着しました』

 スピーカーからの香織の声が、法廷に響いた。

「その後、証人たちはどうしましたか?」

 滝村が淡々と問いを続ける。

『北濱さんの誘導で、左舷の後部付近の、縄梯子のかかっている場所まで移動しました』

「その縄梯子を使って、証人たちは下で待つ『ぎんが』のボートまで、降りたのですね?」

『はい』

「証人は、何番目に縄梯子を降り始めたのですか?」

『私が最初に縄梯子を降り始めました』

「咲奈さんは、椚田さんが担いで降ろしたのですか?」

『いえ――』

 香織が、ひとつ言葉を切ってから、続けた。

『鈴野さんが、『私が降ろします』って言ってました』

「鈴野さんが! どう降ろしたのですか?」

『何か、そう、『ロワーリングで降ろす』とか言ってましたね』

「それはどんな降ろし方でしたか?」

『鈴野さんが咲奈を向かい合わせに抱きかかえ、一本のロープを使って降りていく、そんな感じでした』

「証人たちが縄梯子で降りる横を、『ロワーリング』で鈴野さんが咲奈さんを降ろしたのですか?」

『はい、そうです。縄梯子を使っていた私は、下のボートがはるか遠くで、結構な高さがあり、正直ちょっとビビってました……なので自分で思ったよりも、かなりゆっくり降りていたみたいで、その横を、鈴野さんは壁を蹴って飛び跳ねるように下に降りて行ったのが印象的でした』

「では、椚田さんと北濱さんはどうしていましたか?」

『『ロワーリング』を、椚田さんが補助してロープを操り、北濱さんはデッキの上で、警戒に当たってくださってました……』


十七

 香織は縄梯子を握りしめつつ、左右の足をゆっくり交互に下ろしていった。

 香織のすぐ上を、別の乗員が降りて来る。

 私はもうどれくらいこの動作を続けたんだろう――

 まだまだ海面は足の下はるか遠くのような気がする。

 風が強まっているように感じるのは気のせいか?

 潮の香りに油の嫌な臭いが濃く、はっきりと混ざっていて――

 時折、目の前のタンカーの壁の奥から響く


 ドン――ドドン――


 という音は、船内の誘爆音か?

 目の前の頑丈な鋼鉄の壁が、音とともに細かく震えているように感じる。

 早く、早く降りなければ――

 本能的な恐怖が、香織の指先を震わせた……

「頑張れ! もう少しだぞ!」

「そうそう、その調子!」

 ボートから自分を励ます自衛隊員の声が聞こえる。

 下を見ると、ボートと海面が思ったより近付いてきていた。

 気がせいた香織は、急いで縄梯子を降りようとする――と、


「きゃあっ!」


 香織は、足を滑らせるとともに、手も梯子を掴み損ねてしまった。

 星空が視界一杯に飛び込んでくる――

 すぐに香織は、自身の身体が何かに受け止められたのを感じた。

「大丈夫ですよ!」

「ケガはありませんか?」

 口々に、男たちが声をかけてくる。

「あ、ありがとうございます、私は、私は大丈夫です」

 答えながら、香織はボートに立ち上がり、周囲を見渡した。

 不思議なことに、香織の立つボートは無人だった。

 ボートの向こうに、もう一隻、ボートが接舷されている。

 そこに、鈴野ともう一人の自衛官がしゃがんで、何か話しているのが見えた。

「どうぞ、あっちのボートに進んでください」

 自分を受け止めてくれた自衛官に促され、香織は歩き始めた。

 そして、鈴野たちの間に、横たわってる咲奈を見つけた。

「あの――すみません、いいですか?」

 声をかけると、鈴野と自衛官が立ち上がった。

 香織は、咲奈の傍らにしゃがみこむ。

 担架に固定された咲奈は固く目を閉じ、気を失っていて――

 かすかに胸が上下しているのが救いだった。

「可哀そうに――」

 香織は、咲奈の額と頬にかかった髪の毛を、慈しむように指で整えた。

「そうそう、大丈夫ですよ!」

「よく頑張りましたね!」

 次々と救助された乗員が、ボートに降り立ち、それを自衛官が出迎えてくれている。

 それにしても――

 香織は、心の中に、安堵感がどっと広がるのを感じた。


 ああ、これで、私は助かったのか――でも……


 ブリッジ内の凄惨な状況と、船長と松本の死体が脳裏に浮かぶ――

 せっかく日本に帰ることができると、皆、喜んでいたのに――

 一気に地獄に突き落とされた理不尽に、香織は胸が締め付けられるのを覚えた。


十八

「よーし、大丈夫、大丈夫ですよ!」

 最後に縄梯子を降りて来たのは本多だった。

 出迎える隊員たちに、青い顔で力なく微笑んでいる。


「……戻ります! ここを、お願いします」

 近くに立った鈴野の決然とした声が響いた。


 はっ――

 として香織が振り仰ぐ。

 鈴野は、年かさの自衛官を、まっすぐ見上げていた。


「鈴野さん!」


 思わず、香織は声をかけた。

 振り向いた鈴野の顔を、香織は見詰め――


 隊長は、あなたに、ここに残れと命令したはずでしょ?


 言いかけて――言葉を飲み込んだ。

 青い顔の鈴野の瞳に、揺るがぬ決意を見たからだ。


 鈴野さんは、()()()()()()()()()()()()()()()()()――


 理解した香織は、一言――


「ありがとう!」


 大きな声で礼を言った。


 鈴野が、にっこりと微笑む――


「無理はするな!」

 年かさの自衛官が、自分の娘に対するように声をかける。

「はい!」

 暗闇の中、はっきり返事し、鈴野は軽快に駆け出して行った。

 再び、彼女は“地獄”に戻っていく――

 香織の胸が、ぎゅっ――と締め付けられた――


『ヒトマルハチ! 要救助者、六名確保!』


 縄梯子を登る鈴野を見送った年かさの自衛官が、無線に報告を入れた。

 その後、彼は香織に視線を移した。

「さっき――あなたは、鈴野に何を言おうとしたんですか?」

 香織はしばらく黙ってから――

「鈴野さんとは、ふねに戻ったら、ビールを飲もうと約束したので――」

 答えていた。

「そうですか――」

 暗闇の中、自衛官が静かに微笑んだ。


「須藤さん。あの――さっきは、すいませんでした」

 近付いてきた本多が、青い顔で香織に謝った。

「何であんたが謝るの?」

 香織がそんな本多に問い返す。

「や……その、『五輪丸』のエンジン動かせって、脅しちゃって――」

「ふっ――は、あははっ!」

 香織は思わず吹き出していた。

 呆然と見詰める本多の肩を叩いた香織は、

「いいんだって。だって、あんたが私を脅したわけじゃないじゃない」

「あ、いや、そうなんですけど、でも――」

 笑いを止めた香織が、真剣な顔で本多を見詰めた。

「とりあえずはさ――今は、互いに助かったことを、喜ぼう」

 香織の言葉に、

「はい!」

 本多は、小さく頷いた。


「馬鹿野郎! 何としても全員連れ帰るんだ! どうやって詰めればいいか考えろ! その頭はただの飾りか何かか?」

 向こうで、さっきの自衛官が、部下のヘルメットを拳で小突いているのが見え――


 ズズン――


 地響きのような音が『五輪丸』の腹の中から響いてくる――

 そうだ――まだ、完全に助かった訳じゃないんだ……

 香織の心に、一抹の不安が灯った。

 いや――

 自分たちは、万一の場合はボートが安全なところまで連れて行ってくれる……

 でも――

 まだ船の中にいる隊長や、椚田さんや北濱さん、そして鈴野さんたち自衛官は――

 いつ大爆発を起こすかも知れない船の中で、他の乗員を救助しようと奮闘してくれているんだ……

 香織は、胸の前で両手を組み合わせ、皆の無事の帰還を祈った――


十九

 どのくらいの時間が経っただろう――

 縄梯子を、見知った隊員が下りてくるのを香織は見つけた。


 北濱さんと、椚田さんだ!


 香織の心が、ほっ――と、少し軽くなる。

 香織たちの乗るボートに近付いた椚田に、

「おい、椚田――大丈夫か?」

 年かさの男が声をかけた。

 自分のお腹をさすりながら、椚田が、

「いやあ――まだ痛いっすよ、先任」

「何言ってやがる! お前なら銃弾の二、三発、なんてことないだろ?」

「む、無茶苦茶言わないでくださいよ」

 咲奈の近くに座っていた香織は、近付いてきた北濱に、

「先ほどは、どうもありがとうございました」

「おー! さっきはどうも! いやあ、良かった良かった! もう大丈夫だ!」

 言いつつ、北濱は咲奈を見詰め、

「まだ、目覚めませんか――」

 心配そうに言った。香織の心が、ずきり――と痛む。

「はい……その、ブリッジで、婚約者が殺されてしまって――」

 ヘルメットの中の北濱の顔が曇った。

「そりゃお気の毒に……ボート、走り出したら結構揺れますから、申し訳ありませんけど、しっかり見ててあげてくださいね」

 気遣う北濱に、香織は、

「はい――ありがとうございます」

 その時――


 ドドドドン――


 大きな爆音が『五輪丸』から響き、香織の心臓が一瞬、跳ねた。

「わっ――」

「何だ?」

 ボートの中央に乗せられた生存者たちが動揺する――

「おい! ヒトマルヨン! こちらヒトマルハチだ! 応答しやがれ! ……」

 向こうで、“先任”が必死で無線に呼びかけているのが見える。

 と――

「大丈夫ですから――絶対に、あなた達を、日本に連れ帰りますから!」

 北濱の声に振り返ると、北濱の黒い瞳が、力強く香織を見詰めていて――

 香織は、“隊長”の黒い瞳を思い出していた……

「この野郎! 生意気なところは相変わらずだな――心配させんな! 今どこだ?」

 まだタンカーに残っている隊員と通信しているのであろう先任の声が届く――

「ヒトマルハチ! ヒトマルヨン、急いで戻ってこい!」

 先任の言葉を聞きながら、多分、先任の無線の相手は、きっとあの“隊長”なのだろうと、香織は想像していたのだった――


二十

「よし、頑張れ! 下にボートが待ってるぞ!」

 突然、上方から、聞き覚えのある良く通る声が響いてきていた。

 香織が見上げると、乗員が一人、まさに縄梯子を降りてくるところだった。

 その上に、男が一人、乗員を見守るように舷側から顔を覗かせている。

「隊長!」

「……隊長! 早く!」

 近くの隊員たちが口々に叫んだ。


 ――やっぱり、隊長だ!


 香織は思った。

 隊長は、最後まで船に残って乗員の救出に尽くしたんだ!

 香織の胸が熱くなった、その時だった――


 ターン――


 虚空に銃声が響いた。

 香織はぐっと身体が強張るのを感じた。

 舷側から顔を出していた隊長の顔が、苦悶に歪んだように香織には見え――


 チャッ――カチャカチャッ――


 ボートの隊員たちが、一斉に銃を上方に向ける音が不吉に響く。

「だ、大丈夫ですか!」

 縄梯子を降りている乗員が、隊長に声をかける。

 すると、隊長は、

「いいから早く降りろ!」

 怒鳴った。

 そして、隊長の姿が、舷側の影に、ふっ……と消えて――


 タタタタ――

 タタタタ――


 虚空に乾いた銃声が響いた。


「ひいいいいいいっ」


 乗員が高い悲鳴を上げ――

 香織には、乗員がタンカーを蹴って空中に飛び出したように見え――

 香織の心臓が凍り付いた。


 彼は――一ノ瀬(いちのせ)


 オレンジのライフジャケットにジーンズ――

 一ノ瀬海斗(かいと)

『五輪丸』厨房の若い調理師――司厨士(しちゅうし)だった。


 ダバッ――


 ボートの脇の暗い海に、一ノ瀬は沈んでいった――

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