第五章 須藤香織――タンカー『五輪丸』一等航海士 その五
二十一
船首にいた二人の自衛官が、即座に飛び出してもう一隻のボート上を駆けた。
一ノ瀬の落ちた海面を見詰める二人――
やがて、
ぽかっ――
と、二人の目前の暗い波間に、一ノ瀬の顔が浮かんだ。
ぐいっ――
一ノ瀬は、自衛官二人に肩を掴まれ、海から引き出された。
「ふあっ――げっ……げほっ! げほっ!」
一ノ瀬が、床に手を突いてむせこんだ。
濡れたオレンジ色のライフジャケットが震えている。
「大丈夫ですか?」
「歩けます?」
自衛官たちが、そんな生存者を気遣って声をかけていた――
「ヒトマルハチ、要救助者、一名確保ぉ!」
香織の背後で“先任”の銅鑼声が響いた。
ボート後尾に立った先任は、隊長が消えた五輪丸の舷側を睨み据え――
「こちらヒトマルハチ! 艦長!
タンカーの乗員のうち、十一名を救助しましたが、
隊長のタテノ一尉が最後の乗員を救出後、
どうやら船上で撃たれたようで、戻りません!」
隊長、タテノさんっていうのか――
香織は、タテノが消えた『五輪丸』の舷側に掛かった縄梯子を見上げた。
絶対――絶対に、戻ってきて――
次の瞬間――
ドドドォ―――――――ン……
凄まじい爆発音が轟き、激しい熱風が香織の祈りを打ち砕いた。
二十二
「きゃあっ――」
視界がオレンジ色に染め抜かれた。
悲鳴を上げた香織は、咲奈の細い身体を折れんばかりに抱きしめた。
その近くに、二人の自衛官と海斗が倒れ込んだ。
香織の身体の下のボートが、ぐわっ――と大きく持ち上がった。
「くそっ! お前たちはここで待て! 俺がタテノを連れて来る!」
先任のそんな声が聞こえ、香織は、はっ――と顔を上げた。
揺れるボート後方で、先任が仁王立ちになっている。
ほぼ同時に、近くにいた自衛隊員のイヤホンからだろうか――
『……要救助者と共に……離脱! タテノを捨て……戻れ! 急げ!!』
指揮官と思しき男の金切り声が、香織の耳に届いてきた。
「先任! 離脱命令です!」
「先任! 先任!!」
椚田と北濱が立ち上がった。
乗員を掻き分け踏み出そうとした先任の、両側から肩を掴んで引き止める。
椚田がそのまま先任をボートに押さえつけた。
「こらっ! 放せ、放せぇっ……」
先任が、椚田と北濱の身体の下でもがいた。
「いい! 出せ!」
椚田が、背後の総舵手に声をかけた。
香織の近くの、海斗を連れて来た自衛官二人が、何か光るものを手にした。
ナイフだ!
二人の自衛官が、船首に向かって這うように進み――
「……くそっ!」
自衛官の一人が吐き捨てた――
ぶつっ……
ぶつり!
二人が、『五輪丸』側のボートと連結していたロープを断ち切った。
「こ、後進いっぱ――い! ……くそっ! かかれぇ!」
背後から、必死な声が香織に突き刺さった。
ヒュッ……ヒュイイイ――――――――ン!
エンジンが悲鳴を上げ、ボートが身震いする。
ドッ……バババババババババババっ!
船体が跳ねた。
ボートがタンカーを離脱し始め――
ドッ……ドドド――――――ン!
さらなる爆発が『五輪丸』を揺らす――
「ま、待ってください! あの人が、私を助けてくれたあの人がまだ!」
一ノ瀬の懇願が、香織の耳を撃つ――
「くそっ! たてのぉぉぉぉぉぉぉっ!」
先任の絶叫が、夜空に向かって迸った――
二十三
『館野さんを捨て戻れ。この言葉が聴こえてきたとき、証人はどう思いましたか?』
画像の中の滝村に、冷たい白い光が降り注いでいた。
ああ――ここはあの暗い海ではないのだ――
104号法廷を映したモニターを見詰めながら、香織は思った。
この別室には、香織の他には書記官一人しかいない。
「待って――と、思いました」
あの時の記憶を反芻しながら香織は答える。
『そして、直前にはタンカーで大きな爆発が起こっていた――これについては証人はどう感じていましたか?』
スピーカーを通して伝わる滝村の声が――なんとなく冷たく感じられて。
「あの瞬間はもう、何が何だか――」
その時の思いを、香織は正直に告白する。
『質問を変えますね。今考えれば、その瞬間、あなたたちの状況はどうだった――と、証人は思いますか?』
「そうですね――私たちは、非常に危険な状況だったと思います」
『危険とは、具体的にどう危険だったのですか?』
「『五輪丸』はもう、誘爆が止まらない、最終段階にあったように思います。あのままあの場所に留まり続ければ、船の爆発に巻き込まれて、私たちは――」
ここで香織はいったん言葉を切り、唾を飲み込んだ。
「私たちは、皆、助からなかったかも知れません」
『では、証人は、聴こえてきた『館野さんを捨て、戻れ』という指示は、妥当であったと、そう思いますか?』
モニターからの滝村の声が、ひどく遠かった。
香織は、しばらく考えてから、
「正直、私には――解りません」
短く答えた。滝村はなおも質問する。
『でも、証人たちは助かりました――その結果については、どう思いますか?』
『あんた、大したもんだぜ――ありがとう、助かったよ!』
精悍な顔でにっ……と笑った館野の顔が、香織の脳裏に浮かんだ。
肩に置かれた大きな掌の力強さと、その時に湧き上がった安心感――
「ごめんなさい――ちょっと――すみません」
香織は、こう答えるのが、やっとだった――
二十四
『私たちは、本当に――地獄を体験しました』
裁判官、書記官、弁護人、検察官、傍聴人、報道関係者、そして風間――
彼らがそれぞれの位置、立場で今、別室から流れてくる香織の証言を聴いていた。
香織は、この事件の香織なりの総括を、述べようとしていた。
『その……私は、法律のこととか、憲法のこととか、
詳しいことは良く判りません。
戦争のことも、はっきり言って良く判らない――
ただ、これだけは言えます。
私は――私たちは、あの時、“戦争”の中に放り込まれたんだと。
いえ……実際には、ホルムズ海峡が封鎖され、ペルシャ湾に閉じ込められていた時から、すでに私たちは戦争に放り込まれていたのかも……
ただ、その戦争が、牙を剥いてきたのがあの夜でした。
これまで、私は、戦争なんて、どこか遠くの出来事くらいに思っていました。
でも、あの夜を境に、戦争は――
戦争は、絶対にあってはならないものだと、心から思うようになりました』
ここで、香織はいったん言葉を切った。
そして静かに、続きを語り始める。
『でも、それと同時に、自衛官の人達を、本当に、心から尊敬できるようになりました。
命の危険も省みず、私たちを助けてくれた――
まるで、まるで本当に、映画か何かのヒーローが現れたのかと――
私には思えました。
そして、私は助かった――
でも……館野さん……館野さんは……うっ……ううっ……』
「以上ですか?」
香織の嗚咽に、滝村の言葉が被さる。
リモートによる尋問であるはずなのに――
まさに証言台に香織が座って泣いているかのように感じられ――
「……以上ですね……これで、私の質問を――」
『待ってください!』
香織の必死の叫びが、滝村の静かな質問終了の宣言を断ち切った。
思わず滝村は、香織の声の流れて来たスピーカーを見上げる。
『待ってください。もうひとつ、もうひとつ、私、言っておかなければならないことが』
嗚咽をこらえた香織の声が、白い法廷に流れる。
『私――いえ、わ、私たちは、本当に――
風間艦長に、感謝しています。
私たちは、本当に、絶望の底に、あの夜、叩き込まれました。
そんな中、真っ暗闇の地獄に、風間艦長は――
『ぎんが』は、来てくれたんです』
香織の脳裏に、館野の力強い瞳や、鈴野のあどけない硬い笑顔が蘇る……
『そんな……そんな、風間さんが、被告人として、裁判に……
こんなこと――私……おかしい、って
……間違ってる、って思って、
だから、私、証人に――』
絞り出すような、途切れ途切れの香織の声――
『風間さん……私や咲奈、他のみんなも――
あの夜、助け出された私たちは、あなたに、本当に感謝しています。
それだけは、どうしても伝えておきたくて――』
それまで被告人席で俯いていた風間が、顔をゆっくり持ち上げた。
薄灰色の瞳で、天井のスピーカーからこぼれてくる香織の声を見詰める――
『風間さん――本当に、ありがとう……ありがとう、ございました……』
嗚咽しつつ謝意を述べる香織の声に、風間は少し微笑むと、小さく首を振った。
ほどなく――審議は、休廷に入った。
二十五
「では、検察官、反対尋問をどうぞ」
女性裁判長が宣言し、引き続き、リモートによる証人尋問が再開された。
検察官席の三人――
一番奥に細く鋭い輪郭の主任検事、真ん中に血気盛んそうな若い検事、そして一番手前に白髪の眼鏡をかけた老検事が座っている。
このうち、普段であれば、主任検事が即座に立って反対尋問を開始するのだが、主任検事と若い検事が何事か話し合っていて、なかなか立とうとしない。その手前で、老検事が、眼鏡のブリッジをすっと上げて、鋭い目つきで反対側に座る滝村を見詰めている――
「検察官、反対尋問は? なし、ということでよろしいですか?」
そんな彼らを見て、裁判長がそう、質問すると、真ん中の若い検事が、
「あ、すいません、はい、お待たせしました」
慌てて立ち上がった。
彼の声は、どこか急いているようだった。
「それでは、今度は、私から質問させていただきますね」
主任検事が、何か言いたげな顔で、立ち上がった若い検事を見上げている。
が――ほどなく、諦めたような顔をして、主任検事は、目を閉じ、腕を組んだ。
「……そんなに多くを訊くつもりはありません――私から確認したいことは、二、三点です」
若い検事が、そう、前置きをした。
法廷に、香織の『はい』という短い返事が落ちた。
「まず、お伺いしたいのは――館野さんが暗いブリッジ内に突入してきた場面です。館野さんは、左側の出入り口からブリッジ内に入ってきて、まず、イラン兵の一人を射殺した――そうですね?」
『はい』
「その後、うずくまる咲奈さんに銃を向け、『五輪丸』のエンジンをかけるよう強要していたイラン兵が、証人の目の前でその館野さんに銃を向けた、そうでしたね?」
『そう……そうです』
「そして証人は、その隙を突いてそのイラン兵に、こう……タックルのように体当たりし、イラン兵を倒した――その後、館野さんが、倒れたイラン兵に止めを刺した、こういう流れでしたよね?」
二十六
銃撃、火線、暗いブリッジ、ヘリの探照灯――
咲奈に銃を向けるリーダー――
跳弾、火花、ガラスの割れる音――
香織は、自分の心臓の鼓動が跳ね上がるのを自覚した。
呼吸が自然に細かく早くなる――
香織は条件反射的にいったん息を止めてから、大きく深く息を吸い込み――
そして、言った。
「はい……そう、そうです」
『その時の気持ちを――教えてください』
若い検事の声が、ナイフのように香織の胸をえぐり――
『早く! 機関を始動させてください!』
本多の必死の形相――
丸眼鏡の奥の眼が大きく見開かれていて――
ヘリのローター音、ぐるぐる回る白い光、喚き続けるリーダー――
『……前方にいる護衛艦に、本船をぶつけろと……出来なければ、咲奈さんを、撃つ、って……』
咲奈を撃つ? 咲奈――咲奈!
リーダーの銃口の先――力なく座り込む咲奈の姿――
湧きあがるどす黒い感情……怒り? 何に対する? 理不尽? リーダー?
咲奈を傷つけた? 松本を殺された? 平和を奪われた?
立っている本多――私にタンカーを動かせと――その背後――
うずくまる咲奈――リーダーが咲奈に銃を――
ふざけるな……ふざけるな――ふざけるな!
「うわああああああっ!」
弾けた、飛んだ、組みついた、倒した、倒れた、銃声、声、もがいて抑えて――
タタンッ!
痙攣――そして、香織の腕の中、やつの身体は力が抜けて――
ヘリのローター音、線香花火の臭い――
『ありがとう、助かったよ――』
館野の声、でも――でも……
砕けたリーダーの頭部と……床のどす黒い血と脳漿――
つんと鼻を刺す鉄の臭い――
死んだリーダーの黒いスコープが私を睨んで――
「うっ……ううっ――」
唇が自然に震えた。熱いものが次々と目から溢れ出る――
自分はあの瞬間から、もう、綺麗な自分ではなくなってしまった――
この事実が、香織をずっと、苦しめ続けていた。
『では、質問を変えます』
モニターの向こうから香織を見詰めていた若い検事がそう言った時――
香織の中で、何かが“ぷつん”と音を立てて切れ――
「私、人を殺したんです!」
香織は胸の奥から、ドロッとした何か、を吐き出していた――
二十七
『私――私、あの時、人を、人を殺したんです!』
香織の告白が法廷を震わせた。
被告人席の風間が、弾かれたように顔を上げた。
『でも――でも、ああするしかなかった!
あいつは、館野さんを狙ってた!
ああする以外、どうすればよかったって言うんですか!』
香織の言葉に、法廷にいる全員が固唾を呑んでいた。
沈黙する法廷に、香織の震えるような泣き声が延々と響き渡り続け――
「いや、あの……」
若い検事が戸惑った表情で言いよどむ――
「えっ……とですね、その、イラン兵の死体を見て、館野さんに、あなたはどういう印象を――」
『館野さんは死んじゃったんですよ!』
香織が鋭く叫んだ。
『私を――私たちを守って! 名前だって、知らなかった!
そんな、知らない人が、私たちのために命を賭けて――
館野さんだけじゃない、
あの時の、鈴野さんだって、椚田さんだって、北濱さんだって――
みんな、命を賭けて、私たちを……
だから私たちは、こうして生きているんじゃないですか!』
「あ、あの、須藤さん、どうか落ち着いて――」
若い検事は、必死に香織をなだめようと――
主任検事は立ち上がると、若い検事の肩に右手を置いた。
「申し訳ありません、裁判長。これ以上は、証人の心身に過剰な負荷を与えかねません――すみません、反対尋問は、これで終了します」
主任検事が、泡を食ったような表情の若い検事に視線を送った。
その横で、白髪の検事は、静かに目を閉じている――
「証人、尋問は終わりました。本当につらい体験を、よく話して下さいましたね」
女性の裁判長が、別室ですすり泣く香織に声をかけている。
「どうか――ご自分を責めないでください。そして、ゆっくり休んでください――本当に」
『ありがとうございます……』
鼻をすすりながら答える香織の声が、法廷に返ってきた。
被告人席では、風間がきつく目を閉じている――
裁判長の指示で、リモートは閉じられ、この日の審理は閉廷した――




