第五章 須藤香織――タンカー『五輪丸』一等航海士 その三
十一
「みんな、伏せろぉ!」
野太い日本語が、ブリッジに響いた。
声の主は、一瞬で、近くの侵入者の一人の懐に飛び込み――
タタ、タタ――
ビクビクッ――
大きく身体を痙攣させた侵入者が、闇の中に倒れ込んだ。
そして――
タタッ――タタタタッ――
ドッ――ドダダダダダッ……
室内のあちこちで閃光が目を焼き、銃撃が交錯した。
鉄が鉄を弾く音が響き――
幾筋もの火線を背景に、反応の遅れた本多がゆっくり床に伏せ――
まるで、スローモーション――
と――
リーダーが、最初に飛び込んだ大男に身体をひねって銃を向け――
反射的に、香織は、リーダーに向かって床を蹴っていた。
競泳でプールに飛び込む時ような、爆発的な脚の力が彼女を突き動かす――
「うわああああああっ!」
跳弾の嵐の中、香織は咆哮し、リーダーの腰に横から飛びついた。
胴タックルのような形になって、リーダーと香織は床にどっと倒れ込んだ。
刹那、ダダダッ――という音が香織の鼓膜を揺らす。
リーダーが銃を撃ったのだ――
香織の腕の中で、リーダーの身体がもがいた。
香織はただ、リーダーの身体に必死にしがみついて……
ペルシャ語だろうか、リーダーの腹からくぐもった声が聴こえ――
タタン――
短い銃声が香織の耳元のすぐそばで弾けた。
びくっ――
腕の中で、リーダーの身体が引き攣り――
そのまま、ぐったりと動かなくなった……
「おい! 大丈夫か?」
香織の背中に、大きな掌が当てられた。
目をつぶっていた香織は、ゆっくりとリーダーの腹から顔を上げる。
青昏いブリッジ――
相変わらず、外からはヘリのローター音が聴こえてきている。
銃撃戦の音は、すっかり収まっていた。
つん――とした硝煙の臭いが鼻をくすぐる。
まるで線香花火の臭いだ。
そして――
香織を見詰める真っ黒いスコープ……
その上の頭部は打ち砕かれ、床にどす黒い血が流れていて――
!
香織は息を呑む。
胃が灼けつくような感覚――
「おい! 自衛隊だ! あんた、大丈夫か?」
耳元で、野太い男の声が響いた。
見上げると、男の黒々とした瞳と目が合った。
スコープの下の精悍な顔が、心配そうに自分を見詰めている。
香織は、細かく何度もうなずきながら、
「はい……はい、私は、私は大丈夫です」
どうにかそう、男に伝えていた。
男は、にっ――と、唇の端をゆがめると、
「あんた、大したもんだぜ――ありがとう、助かったよ!」
大きな掌で香織の肩を叩き、立ち上がった。
――大したもの? 何が?
香織は、現実感のないまま、周囲を見回す……
咲奈――!
両手両膝を床に突き、俯く小さな咲奈の姿が、香織の目に飛び込んできた。
ダメだ、私がしっかりしなきゃ……
香織は自分を奮い立たせ、咲奈の元に戻る。
「ごめんね咲奈、大丈夫、もう大丈夫だから――」
再び香織は、咲奈の細い身体を両腕で抱き締めた。
ヘリのローター音も、自衛官たちが会話する声も――
まるで水底に聴こえてくるかのように遠かった。
さっきまでの興奮が、何か非現実的な夢の中のような気さえしてきていた……
十二
「こちらヒトマルヨン、ブリッジにて六名の侵入者排除!
ブリッジクリア、要救助者六名、確保!」
大男の声が、朗々と響き渡った。
はっ――と、我に返った香織は、改めて周囲の状況を確認する。
探照灯の白い光が移動するブリッジは、まるで嵐が過ぎ去った後のようだった。
ひび割れた窓――
デスクのパネルや計器、コンソールもいくつか砕け散っている。
デスクに奇跡的に無傷で残る黄色い蜜柑が、どうにも非現実的だった。
床には、侵入者たちの死体が、そこここに転がっている。
横臥している者、ブリッジの窓に寄り掛かりぐったりしている者、うつぶせに倒れている者――
その侵入者たちに代わり、今は十名ほどの自衛官がブリッジに佇立している。
自衛官たちは、青昏い中に溶け込む迷彩服を着ていた。
ヘルメットを被り、上半身に着こんだジャケットは、目立って厚みがあった。
手には香織には名称の判らない武器――
ライフルより小さく、両手で把持する小さめの銃を携行していた。
「……ぐぅっ――かっ……腹っ……」
香織の耳に、苦悶の声が届いた。
見ると――一人の自衛官が、両手で腹を抑えてうずくまっている。
え? ――撃たれてる?
香織は、顔からざっ――と、血が引いて行くのを自覚した。
「椚田、どうした! 大丈夫か?」
さっき香織に声をかけてくれた男が、苦しむ男――椚田――に駆け寄った。
「いっ――いででっ……はっ、腹、うっ――ぐぐっ……」
「ヒトマルヨン! 椚田二曹が腹に被弾――」
椚田の腹部に手を当てた男が、緊迫した声を無線に送る――
が、男は、にっ――と笑みを浮かべ、
「いや、防弾チョッキで大丈夫だ……我が方に被害なし!」
無線に向かって報告していた。
香織は、ほっ……と、胸をなでおろす。
椚田は、空気を求め必死で息を吸おうとしていて――
「防弾チョッキに感謝するんだな! ……まあ、あんたは腹撃たれたって死ぬような男じゃないけどな」
「い――言い過ぎですよ、たいちょ……あー、はぁ――」
ようやく息が整ってきたようだ――
椚田は、無理に、にこっ――と笑った。
ヘルメットの中の顔が、ぱんぱんに膨れ上がる。
しゃがんだままだが、上半身は起こせるようになっていた。
男――隊長は、立ち上がると、
「よし! 木村は右、田中は左! 佐々木は下部ブロックへの出入り口をそれぞれ警戒しろ!」
てきぱきと指示を出してから、
「皆さん、もう大丈夫です! これからあなたたちを、俺たちの艦にご案内しますが、ちょっと待っててくださいね――」
隊長の指示通りに、隊員たちが自分の持ち場に就く。
「――自衛隊!」
「あ、ありがとう――」
「助かったんだ……」
ブリッジ中央に固まって座る生存者から、安堵の声が漏れた。
「さて――これからどうするか、だが……おう! みんな、集まってくれ!」
隊長の周囲に自衛官たちが集まる。
が――
香織は、窓際の小さな人影がひとつ、じっ……と佇んでいるのに気づいた。
ヘリの探照灯が、その自衛官を照らしては行き過ぎていく。
彼は、侵入者の死体のひとつに銃口を向けたまま立ち尽くしていて……
――彼は何をしているのだろう?
香織は不思議な感慨に囚われてその人影を眺めた。
「おい、スズ! ――おい!」
隊長が、その人影に、ドスドスと歩み寄った。
だが、小さな人影は微動だにしない――
「おい鈴野! しっかりしろ!」
隊長は、「鈴野」と呼んだ隊員の正面に立ち、荒々しく胸倉を掴んだ。
「おい! しっかりしろ! スズ! ぼーっとしてんじゃねえ!」
隊長の恫喝に、鈴野の身体が、びくっ――と弾む。
「す、すみません!」
幼い声だな――香織は思った。
バタバタバタバタ――
ヘリが飛び去り、光が鈴野と隊長の上を通り過ぎる。
鈴野の胸倉から手を離した隊長が、
「おい、スズ、あっちに女性の要救助者が二名いる。お前が落ち着かせるんだ! いいな!」
「は、はい!」
鈴野が、隊長に敬礼した。
さっ――と身を翻すと、鈴野は香織たちの方に近付いてきた。
「だ、大丈夫ですか? 怪我はないですか?」
声をかけてきた鈴野を見て、香織は息をのんだ……
鈴野は、女性だった――
「だ、大丈夫です、私は、でも、さ、咲奈が……」
驚きつつ、香織は四つん這いに床に凝固する咲奈を見て言った。
「ケガしてるんですか?」
傍らにしゃがんだ鈴野に、香織は、
「い、いえ――ケガはしてないんですが、恋人が――」
床に仰向けに倒れた松本の死体に視線を送る。
香織の目線を追った鈴野も、喉をごくりと鳴らし、
「そうですか――」
言ってから、香織を見詰めた。
鈴野の頬は青ざめ、唇がわずかに震えている――
鈴野の瞳に、香織は自分と同じ恐怖が宿っているのを見た。
が――やがて、鈴野は香織に向かって、硬くにっこりと笑い、
「頑張りましたね! もう大丈夫です! あなたたちを日本に連れて帰ります!」
鈴野の言葉が、じわりと胸に沁みこみ――
香織の中で、何かが、
プツン……
と、音を立てて切れた。
ボロボロと香織の目から何かが噴きこぼれ始めた――
「うっ……うっ―――ううううっ……」
香織は嗚咽し始め、そんな香織を、一回り小さい鈴野がそっ……と抱きしめた。
鈴野の身体は香織よりも、断然小さかった。
小さく、だが、温かかった――
香織の心の底から、堰を切って熱いものが迸り出ていた――
十三
香織のすすり泣きが、法廷の白い空間に生々しく響いていた。
誰もが皆、黙って香織の証言に耳を傾けている。
無機質な照明の下、記者たちのペンを走らせる音だけがやたらと耳につく。
「では、ここで、休廷しましょう」
女性の裁判長が静かに宣言した。
「お願いします」
滝村が頭を下げた。
被告人席では、風間が静かに目を閉じていて――
「それでは、三十分後に再開します」
裁判長が立ち上がるのに合わせて、法廷内の全員が立ち上がり、礼をする。
風間も、ゆっくりと立ち上がって礼をした。
ぞろぞろと傍聴人が退出していく――
三十分後――
「聞こえますか?」
『はい、聞こえます』
裁判長の確認に、香織の声が静かに答えた。
「どうですか、大丈夫ですか? 落ち着きましたか?」
『はい、大丈夫です――すみませんでした』
涙の余韻の残る声――
「いえ、謝る必要はないんですよ。今後も、もし、気分が悪いとか、何かあれば遠慮なく言ってくださいね」
裁判長が香織をいたわる。
『はい、ありがとうございます』
「では弁護人、質問を再開してください」
裁判長に促され、立ち上がった滝村が、
「辛い体験を長時間、お話しさせてしまい、本当に申し訳ありません」
『いえ――大丈夫です』
香織の声は落ち着いていた。
「では、先ほどの続きからお願いします。証人は、自分より小さな女性の自衛官、鈴野さんを見て、どうしようもなく涙があふれて止まらなくなった、そうでしたね?」
『はい、そうです』
「では、その後、何がありましたか?」
しばらく沈黙した後、小さく息を吸い込み――
別室の香織が、気丈な声で再び話し始めた。
十四
鉄と硝煙の据えた臭いの混じる空気の中――
「大丈夫ですか?」
嗚咽が収まった香織に、鈴野が声をかけた。
抱きしめていた手を両肩において距離を開け、顔を覗き込んでくる。
しばし鈴野のあどけない顔を眺め――
香織は、急に喉の渇きを自覚した。
「ビール飲みたい」
「……え?」
鈴野が、きょとんとした顔で香織を見詰める。
「ビールが、飲みたいです」
「ぷっ……」
鈴野が、口元を抑えて顔をそむけた。
後ろを向いた鈴野の肩が細かく震えている――
「いいか、右舷側ボートに優先に――」
他の隊員と話し合っていた隊長が、そんな鈴野に気付き、
「おい――鈴野! 何笑ってんだ! 不謹慎だぞ、こんな状況で」
「す、すいません」
身体を細かく震わせながら、鈴野が謝った。
「いいじゃないですか、隊長――可愛い女の子の笑顔は、こういう場所の救いですよ」
椚田が、お腹をさすりながら言った。
「椚田――お前、それ、明らかにセクハラ発言だぞ」
「やだなぁ、隊長――俺が腹撃たれても死なないって方が、よっぽどパワハラ発言でしょうが――」
「こいつ――」
「あっ……やめっ――」
隊長に腹を軽く叩かれた椚田が、身を捩る。
「ご、ごめんなさい……」
香織の謝罪に振り向いた鈴野は、柔らかく微笑みながら、
「いいんですよ! 私たちの艦にはキンキンに冷えたビールがたくさんありますから、戻ったら一緒にビール、飲みましょう!」
さっきまで青かった鈴野の頬に、わずかに赤みがさしていた。
少し嬉しくなった香織は、
「はい!」
元気な声で鈴野に答えていた。
「他の船員たちは、どこにいる?」
隊長が、目の前に立った本多に訊いていた。
「あの――良く判りません。下の居住区で、私たちは捕まったんですけど、私たち四人だけブリッジに上げられ、他の四、五名は、別の所に連れてかれちゃって――そ、そのほかの人たちは、どこにいるのか、さっぱり判りません」
答える本多を、じっと見詰めていた隊長が、
「そうか……判った、ありがとう」
礼を述べ、座り込んでいる香織たちに視線を移した。
汗の滴る日焼けした顔の、ゆるぎない自信に満ちた男の瞳――
香織は、自分の心が、すっ――と落ち着いていくのを感じた。
これから自分たちは生きるために脱出するんだ――
そんな希望が胸に沸き上がる。
隊長は、『五輪丸』クルーたちを見回した。
「よぉし! さっき指示した通りだ! 北濱! 椚田! この人達を、左舷ボートまで案内するんだ!」
「はい!」
「おう、任せろ」
背の低い男と、どっしりと四角い身体の椚田――まだ空いた左手でお腹をさすっている――が、それぞれ返事をした。
「鈴野! お前は北濱と椚田を指揮! 女性の要救助者をしっかり見てやるんだ!」
「はい!」
敬礼した鈴野の肩に、隊長は手を置き、
「その後、お前はボートに残って彼女たちを守れ……いいな」
言い聞かせた。
一瞬、鈴野は、何かを言いかけ――
「……はい」
目線を下げ、囁くような返事をこぼした。
隊長は頷くと、
「おし! 俺たちは手分けして残った乗員を探し出すぞ!
いいな、正当防衛と緊急避難の範囲内で、躊躇するなよ!」
言って、班員の一組をブリッジの外に出し、自らはもう一組を率いて、ブリッジの下の区画に繋がる階段を駆け下りていった。




