第五章 須藤香織――タンカー『五輪丸』一等航海士 その二
六
「大丈夫ですか?」
女性裁判長の優しい声が、張り詰めた法廷に静かに響いた。
関東地方裁判所104号法廷――
本日は、弁護人側一人目の証人尋問が行われていた。
満席の傍聴人と報道関係者の熱気。
左側に三人の検察官と、右側に三人の弁護士。
滝村だけが立って、書類を手に持ち、質問を続けている。
弁護人席の前には、制服姿の風間。
薄灰色の瞳を下に向け、静かに座る無言の白い背中……
ここまでは、これまでの尋問と同じ光景である。
ただ――
証言席には、誰も座っていなかった。
主のいない椅子だけが、そこにぽつんと佇んでいる。
「もし、辛ければ仰ってくださいね? 適宜休廷を挟みますので」
裁判長の声掛けに、
『私は――私は、大丈夫です。どうぞ、続けてください』
証人――須藤香織の、気丈だが掠れた声がスピーカーから届いてきた。
別室からのリモートによる尋問――
PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した香織に対する、これが裁判所の執った措置である。
あの夜の出来事は、香織の心にいまだ癒えぬ傷を刻み込んでいた。
ジッ――ジチッ――
静まり返った法廷に、建材の微かな軋みだけが響いた。
「では、質問を続けさせていただきます。よろしいですか?」
おもむろに滝村が訊いた。
『はい。お願いします』
「では、この爆発が起こり、侵入者たちは混乱し、その後、何やら相談を交わした後に、四人だけ残して、艦橋から階下に降りて行った。そして、残った侵入者は、床にしゃがむあなたたちに銃口を向け、英語で『動くな』と言った。その後、どんなことがありましたか?」
『はい、確か、侵入者の一人が、誰かと無線で交信し始めました』
「どんな内容でしたか」
『解りません、英語ではなかったので……多分、ペルシャ語だったんじゃないかって』
「その後、どんなことがありました?」
『どのくらいの時間が経ったか判りませんが――
本当に、永遠と思えるほど長かった――突然、外を見ていた侵入者の一人が、何か叫んで窓の外を指さしました。彼らみんながそっちを見たので、何事かと、私も恐る恐る顔を上げてそちらを見ました。そうしたら、『五輪丸』の左前方の海上で、何か、赤い光が、ぽっ――とひとつ、灯っているのが見えました――』
「それは、証人は何だと思いましたか?」
『その時は何が何だかさっぱり判りませんでしたが――後から考えれば、多分、『ぎんが』がイラン船を撃沈した時の光だったんだと思います』
「なるほど。その後は何かありましたか?」
『侵入者たちに動揺が広がって――口々に、何か喋り合ってました。それと、一人が無線で何か喚き散らしていたのを憶えています』
七
黒くぽっかりと開いた銃口が突き付けられ――
香織の首筋に、死神の冷たい手が、そっと触れた気がした。
咲奈を抱きしめる香織の腕に、ぎゅっと力がこもる。
船外から忍び込んだ熱気が、ねっとりと二人にまとわりつく。
空調の音が、香織の耳にやけに大きく響いていた。
船首の炎の明かりが、蛇の舌のようにチロチロと、暗い室内のコンソールや計器を舐める。
侵入者たちが、うろついたり、何か話したり喚き合ったりしている。
通信機をいじっていた者が、短く大声を発し、物言わぬ機械に拳を叩きつけた。
彼らにとって、何か不測の事態が起こっているように香織には思えて――
と――
バタバタバタバタ――
重低音が、遠くから届き始める。
暗闇の中、一台のヘリコプターらしき影が近付いて来る……!
あのヘリは……敵の? それとも――
咲奈と二人、顔を見合わせる。
うろついていた二人の侵入者が、他の二人に声をかけ外に出て行った。
その頃には、探照灯の光も眩しく、ヘリはブリッジのすぐそこに迫っていた。
光がブリッジを照らし、一瞬、香織は逆光でヘリが見えなくなる。
ヘリのローター音が、ブリッジ内に大きく響き渡り――
ダッ――ダダダダッ!
ドダダッ!
外で、重い銃声が轟き、
カン! ガッ……カン、チュウン!
金属が金属を叩く固い音が、耳をつんざいた。
これは――侵入者がヘリを攻撃している?
ということは……
少し離れた位置にうずくまる松本と目が合った。
松本が力強く頷く――
松本を監視していた侵入者が、窓外に大きく迫ったヘリに視線を移した。
その隙を逃さず、床にうつ伏せになった松本が、無線を口に当て、
「聴こえるか! こちら『五輪丸』ブリッジ! 武装した侵入者は十名! 内二名がブリッジ外に出て、二名がブリッジを制圧中! 他は船内を捜索に出た模様! なお、ブリッジでは船長が射殺され、生存者が――ぐわっ!」
気付いた監視者が、松本の背中を、銃床でしたたかに打ち据えた。
床に無線を取り落とした松本が、ゆっくりと監視者に向き直って座る。
ヘリのローター音に負けぬ監視者の怒号が香織の耳に届く。
そして、監視者がそんな松本の頭部に銃を向け――
一瞬、松本の唇が、笑みに歪んだのを、香織は見た……
ダァン!
重い音が香織の身体をぶっ叩いた――
刹那、窓外が閃き、松本の後頭部から、真っ黒な血しぶきが背後に迸る。
びくり、と身体が痙攣し――
そのまま仰向けに倒れ込むのが影絵のように見え――
「―――――――――――ッ!」
声にならない悲鳴が、咲奈の喉から絞り出された。
香織は必死に、松本の姿が見えないよう小さな咲奈を抱き締める。
「やっ……ィア――――――――――ッ!」
腕の中の咲奈は、今にも弾け飛んでしまいそうで――
そんな中、どうしたわけか、ヘリが機首を翻した。
そのまま、タンカー左舷を闇の向こうに遠ざかって行く……
え? そんな――なぜ行ってしまうの?
松本の死とヘリの謎の反転に、香織の心臓が、絶望にぐっ――と、握り締められた。
私たちは――助けてもらえないの?
船外に出ていた二人の侵入者達がブリッジ内に戻って来た。
中の者と何事か言葉を交わす――
そのうちの一人が、松本を撃った男を怒鳴りつけた。
香織に銃口を向けていた男が、このやり取りに気を取られ視線を外した。
――今か?
香織の心に、燃えるような“何か”が湧きあがった。
脚にぐっ――と、力が籠もる。
今、ここで、この男の腹部に飛び掛かれば、あるいは――
いや――
香織は、心の中で首を振る。
自分は特に訓練を受けたわけではない。
水泳でインターハイに出たことはあるが、それが何だというのだ。
格闘技は高校時代の体育の授業で、柔道を少しやった程度。
ここで無謀な賭けに出て、自分まで倒れるわけにはいかない――
「ャあっ……あっ――何でっ……ぃやっ……」
激しく震えて嗚咽する小さな咲奈を、ぎゅっ――と抱きしめる。
そして――
心の中で荒れ狂う激情を、香織はどうにか抑え込んでいた。
八
『……ら、海上自衛隊、護衛艦『ぎんが』! 大丈夫ですか?』
炎の赤い光に舐められるだけとなった青黒いブリッジ内に、突如、日本語の無線の声が響き渡った。
えっ? 自衛隊?
香織の心に再び希望が灯る。
そうか! あのヘリは、自衛隊のヘリなんだ!
護衛艦が――海上自衛隊が、近くにいる!
でも、だとしたら――どうしてヘリは、戻ってしまったのか?
『『五輪丸』! こちら、『ぎんが』! 誰か応答を!』
松本の、物言わぬ身体のそばに落ちた無線機から、日本語の音声が流れる。
松本を殺した男を怒鳴りつけていた男――
どうやら、この男が侵入者たちのリーダーのようだ――
が、無線機を床から拾い上げ、口に当てた。
「アー……ジスイズイランネービー……ウー……ジスタンカーイズ……アー……アス……ラトシュッ!」
最後の言葉はペルシャ語だろうか?
ともかく、英語が堪能な人間ではないようだ……
これに対し、今度は無線機から、
「This is the Japan Maritime Self-Defense Force.What are your demands?(こちらは日本の海上自衛隊である。君たちの要求は何か?)」
しかし、リーダーらしき男は、また何か聞き取れない言葉で毒づいた。
他の仲間に、左手の無線を上げ下げしながら、何事か話しかけている。
これに対し、三人が何か返している。
リーダーが持った無線機から、なおも日本語が、虚しく吐き出され続け――
その頃になって――香織は、ツン……と、鼻を突く臭いに気が付いた。
これは鉄の――血の臭い?
それとも、外から流れ込んできた燃える油の?
だが――どちらも“死の臭い”であることには変わりはない……
じっとりと、粘り気のある汗が肌を伝った。
ブリッジには暑さだけでない、重たい何かが充満し始めているようで――
ドォン――
籠るような音がして、びりびり……とブリッジが揺れる。
話し合っていた侵入者たちが、新たな炎の吹き上がった船首に顔を向けた。
船首の方で誘爆が始まっているのだろうか?
日本の護衛艦が、すぐ近くまで私たちを助けに来てくれている――
でも――果たして、私たちの救助に、間に合うのだろうか?
その時だった。リーダーが握り締めた無線機から、
「『五輪丸』の皆さん! 必ず自衛隊が助けに行きます! 待っていてください!」
一縷の希望が胸に灯り、香織は咲奈を抱きしめる両腕にぐっと力を込めていた――
九
「ムーブフォワード!」
背後から、空気を裂くような怒声が突き刺さった。
振り向くと、居住区に通じる出入り口から、侵入者の一人が銃を構え入って来た。
その後ろにぞろぞろと続く影は――
『五輪丸』のクルーだ。
入ってきたのは四人で、さらにその後ろから、
「クイック!」
もう一人の侵入者が、銃でクルーを追い立てた。
彼らも捕まってしまったんだ――
ぎゅっ……と、香織は唇を噛む。
クルーの先頭の男が、オレンジ色の光の中に入る。
優し気な、丸眼鏡をかけた男――
機関員の本多だ。
不安げな表情が、炎の明かりに揺れていた。
香織の心に一瞬、安堵が拡がる。
見知った顔を見るというだけで、こんなにも心が落ち着くものなのか――
本多の後にも、見知ったクルーの顔が続き――
「げっ――」
「えっ? ……船長?」
クルーたちに、ざわっ――と、動揺が走った。
「シャットアップ!」
侵入者が鋭く叫び、クルーに銃を突きつけた。
空気が一気に凍り付く――
「シッダウン!」
有無を言わせぬ圧に、本多たちは慌てて床にしゃがみこんだ。
本多たちを連行してきた男の一人が、リーダーに声をかけた。
二人でしばらく話をした後、今度はリーダーが本多に何か話しかけた。
それに、聞き慣れない言葉で応答する本多――
そうだ! 香織は思い出していた。
本多は、この船で数少ないペルシャ語を話せる日本人なのだ。
リーダーは、ゆっくり立ち上がった本多に、左手の無線を見せ語りかける。
炎の照り返しに緊張した表情を浮かべた本多が、しきりに小さく頷いている。
本多はリーダーから無線を受け取り、マイクを口に当てた。
「こちら『五輪丸』。私は、ペルシャ語を話せる乗組員の、本多です。あの、イランの人達は、あなたたちにここから黙って立ち去るよう、要求しています」
バタバタバタ――
ほぼ同時に、ヘリのローター音がブリッジに近づいてきた。
香織は前方の窓に視線を移す。
そこには、暗闇をかき分け、再び向かってくるヘリの姿――
やった! 戻ってきてくれたんだ!
香織の心に、消えかけていた希望の光が灯った。
同時に、ブリッジ内の侵入者たちが動揺した。
二人が、左ウィングの開け放たれた出入り口から外に駆け出した。
リーダーが大声で本多に喰いつかんばかりに詰め寄る――
「あの、『五輪丸』! こちら『五輪丸』! い、イランの人達は、ヘリを撤退させるようにと、言ってます! あの! もしもし?」
必死の形相で無線に叫ぶ本多――
ヘリはブリッジ上空に達すると、左右に蛇行を始めた。
そこに銃声が重なる。
ヘリの腹部や脚で、火花が散るのが遠目にも判った。
金属が金属を叩く固い音が、香織の耳に届く――
また、ヘリが侵入者から狙撃されてる!
ヘリの探照灯が、暗いブリッジ内を右往左往した。
通信席のデスクに覆いかぶさるようにして死んでいる船長と、少し離れた床に仰向けに倒れた松本、そして床の上の血だまりが、その度に現れては消え、現れては消えを繰り返す。
ヘリはなおも蛇行を続け、下からは侵入者がさかんに銃を撃ち上げている。
だめだ――
香織は思った。
この状態では、ヘリがタンカーに着艦することも、誰かを降ろすことも不可能だ。
香織の心に絶望が拡がる――
室内では、本多がなおも、
「ヘリを遠ざけて――」
と無線に訴えている……
その時――
香織の心に、ふと疑問が生じた。
ほぼ同時に、左ウイングの出入り口からヘリを迎撃していた二人が戻って来た。
そう――香織の疑問は、
ヘリはタンカー上空で蛇行を繰り返すだけで、特に攻撃する気配がないこと――
だった。
この不自然さに、もしかすると侵入者たちも気付いたのではないのか?
ヘリの探照灯の光が躍るブリッジの中で――
香織の胸に、得体の知れない胸騒ぎが広がり始めていた……
十
「立ってください、須藤さん」
本多が、ヘリの音に負けじと大声で香織に声をかけた。
「え――?」
「立ってください――お願いします」
再度、本多に促され、香織は、抱きしめていた咲奈をゆっくりと放す。
糸の切れた人形のように、咲奈は力なく両手を床に付いた。
それを見届けてから、香織はゆっくり立ち上がる。
そして、不審げに本多を見やると、本多は、
「彼らが、エンジンを――本船のエンジンをかけろ、と、言ってます」
「は? 何だって?」
香織は、本多の言っている意味が判らなかった。
「ですから、本船のエンジンを始動させてください、須藤さん」
ヘリからの探照灯に、白くなったり暗くなったりする本多の顔が言った。
「え? そんなこと、出来るわけ――」
本多の背後にいたリーダーが、突然、銃口を香織に突き付けて喚き出した。
思わず両手を上げる香織――
「いいから早く! 須藤さん!」
香織は訳も判らず、追い立てられるように操船コンソールのデスクまで歩いた。
松本にもらった蜜柑が、悪い冗談のようにそこにぽつんと置かれている。
「早く! 機関を始動させてください!」
本多に急かされるが、香織は全く状況が理解できない。
「は? 何言ってんの? どういうこと? この状況で、機関を?」
すると、業を煮やしたのか……
リーダーが、今度は床に力なく四つん這いになっている咲奈に銃を突き付け――
本多に、厳しい口調で何か喋った。
香織の心臓が、ぎゅっと縮む――
は? 何? どういうこと?
香織が混乱していると、本多が、
「須藤さん! こ、この人は、
機関を始動させて前方にいる護衛艦に本船をぶつけろ
と、そ、そう、言ってます! で、で、出来なければ、
咲奈さんを撃つ、って……」
――はあ?
香織の心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。
めちゃくちゃだ!
このリーダーは、狂っている!
香織の視界で、ヘリからの白い光とオレンジ色の炎の光、そして闇が、
ぐるぐるぐるぐるとブリッジ内を回る――
うずくまる咲奈、突き付けられるライフル、リーダーの喚き声、蜜柑、本多の必死な顔、レーダー、松本、無線、蜜柑、船長――
「須藤さん、早く!」
必死の形相で本多が叫んだ、まさにその時――
――ガンガンガン!
耳を弄する音が、右ウイングに出る防水扉から鳴り響いた。
喚き続けていたリーダーが、音のした方を注視する。
直後――
左ウイングの入り口から、大きな影――
いや、影たちがブリッジ内に踏み込んで来た――




