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第五章 須藤香織――タンカー『五輪丸』一等航海士 その二

「大丈夫ですか?」

 女性裁判長の優しい声が、張り詰めた法廷に静かに響いた。


 関東地方裁判所104号法廷――

 本日は、弁護人側一人目の証人尋問が行われていた。


 満席の傍聴人と報道関係者の熱気。

 左側に三人の検察官と、右側に三人の弁護士。

 滝村だけが立って、書類を手に持ち、質問を続けている。

 弁護人席の前には、制服姿の風間。

 薄灰色の瞳を下に向け、静かに座る無言の白い背中……


 ここまでは、これまでの尋問と同じ光景である。

 ただ――

 証言席には、誰も座っていなかった。

 主のいない椅子だけが、そこにぽつんと佇んでいる。


「もし、辛ければ仰ってくださいね? 適宜休廷を挟みますので」

 裁判長の声掛けに、

『私は――私は、大丈夫です。どうぞ、続けてください』

 証人――須藤香織の、気丈だが掠れた声がスピーカーから届いてきた。


 別室からのリモートによる尋問――


 PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した香織に対する、これが裁判所の執った措置である。

 あの夜の出来事は、香織の心にいまだ癒えぬ傷を刻み込んでいた。


 ジッ――ジチッ――


 静まり返った法廷に、建材の微かな軋みだけが響いた。

「では、質問を続けさせていただきます。よろしいですか?」

 おもむろに滝村が訊いた。

『はい。お願いします』

「では、この爆発が起こり、侵入者たちは混乱し、その後、何やら相談を交わした後に、四人だけ残して、艦橋から階下に降りて行った。そして、残った侵入者は、床にしゃがむあなたたちに銃口を向け、英語で『動くな』と言った。その後、どんなことがありましたか?」

『はい、確か、侵入者の一人が、誰かと無線で交信し始めました』

「どんな内容でしたか」

『解りません、英語ではなかったので……多分、ペルシャ語だったんじゃないかって』

「その後、どんなことがありました?」

『どのくらいの時間が経ったか判りませんが――

 本当に、永遠と思えるほど長かった――突然、外を見ていた侵入者の一人が、何か叫んで窓の外を指さしました。彼らみんながそっちを見たので、何事かと、私も恐る恐る顔を上げてそちらを見ました。そうしたら、『五輪丸』の左前方の海上で、何か、赤い光が、ぽっ――とひとつ、灯っているのが見えました――』

「それは、証人は何だと思いましたか?」

『その時は何が何だかさっぱり判りませんでしたが――後から考えれば、多分、『ぎんが』がイラン船を撃沈した時の光だったんだと思います』

「なるほど。その後は何かありましたか?」

『侵入者たちに動揺が広がって――口々に、何か喋り合ってました。それと、一人が無線で何か喚き散らしていたのを憶えています』


 黒くぽっかりと開いた銃口が突き付けられ――

 香織の首筋に、死神の冷たい手が、そっと触れた気がした。

 咲奈を抱きしめる香織の腕に、ぎゅっと力がこもる。

 船外から忍び込んだ熱気が、ねっとりと二人にまとわりつく。

 空調の音が、香織の耳にやけに大きく響いていた。

 船首の炎の明かりが、蛇の舌のようにチロチロと、暗い室内のコンソールや計器を舐める。

 侵入者たちが、うろついたり、何か話したり喚き合ったりしている。

 通信機をいじっていた者が、短く大声を発し、物言わぬ機械に拳を叩きつけた。

 彼らにとって、何か不測の事態が起こっているように香織には思えて――

 と――


 バタバタバタバタ――


 重低音が、遠くから届き始める。

 暗闇の中、一台のヘリコプターらしき影が近付いて来る……!

 あのヘリは……敵の? それとも――


 咲奈と二人、顔を見合わせる。

 うろついていた二人の侵入者が、他の二人に声をかけ外に出て行った。

 その頃には、探照灯の光も眩しく、ヘリはブリッジのすぐそこに迫っていた。

 光がブリッジを照らし、一瞬、香織は逆光でヘリが見えなくなる。

 ヘリのローター音が、ブリッジ内に大きく響き渡り――


 ダッ――ダダダダッ!

 ドダダッ!


 外で、重い銃声が轟き、


 カン! ガッ……カン、チュウン!


 金属が金属を叩く固い音が、耳をつんざいた。


 これは――()()()()()()()()()()()()()


 ということは……

 少し離れた位置にうずくまる松本と目が合った。

 松本が力強く頷く――

 松本を監視していた侵入者が、窓外に大きく迫ったヘリに視線を移した。

 その隙を逃さず、床にうつ伏せになった松本が、無線を口に当て、


「聴こえるか! こちら『五輪丸』ブリッジ! 武装した侵入者は十名! 内二名がブリッジ外に出て、二名がブリッジを制圧中! 他は船内を捜索に出た模様! なお、ブリッジでは船長が射殺され、生存者が――ぐわっ!」


 気付いた監視者が、松本の背中を、銃床でしたたかに打ち据えた。

 床に無線を取り落とした松本が、ゆっくりと監視者に向き直って座る。

 ヘリのローター音に負けぬ監視者の怒号が香織の耳に届く。

 そして、監視者がそんな松本の頭部に銃を向け――

 一瞬、松本の唇が、笑みに歪んだのを、香織は見た……


 ダァン!

 

 重い音が香織の身体をぶっ叩いた――

 刹那、窓外が閃き、松本の後頭部から、真っ黒な血しぶきが背後に迸る。


 びくり、と身体が痙攣し――


 そのまま仰向けに倒れ込むのが影絵のように見え――


「―――――――――――ッ!」

 

 声にならない悲鳴が、咲奈の喉から絞り出された。

 香織は必死に、松本の姿が見えないよう小さな咲奈を抱き締める。


「やっ……ィア――――――――――ッ!」


 腕の中の咲奈は、今にも弾け飛んでしまいそうで――

 そんな中、どうしたわけか、ヘリが機首を翻した。

 そのまま、タンカー左舷を闇の向こうに遠ざかって行く……


 え? そんな――なぜ行ってしまうの?

 

 松本の死とヘリの謎の反転に、香織の心臓が、絶望にぐっ――と、握り締められた。


 私たちは――助けてもらえないの?

 

 船外に出ていた二人の侵入者達がブリッジ内に戻って来た。

 中の者と何事か言葉を交わす――

 そのうちの一人が、松本を撃った男を怒鳴りつけた。

 香織に銃口を向けていた男が、このやり取りに気を取られ視線を外した。


 ――今か?

 

 香織の心に、燃えるような“何か”が湧きあがった。

 脚にぐっ――と、力が籠もる。

 今、ここで、この男の腹部に飛び掛かれば、あるいは――

 いや――

 香織は、心の中で首を振る。

 自分は特に訓練を受けたわけではない。

 水泳でインターハイに出たことはあるが、それが何だというのだ。

 格闘技は高校時代の体育の授業で、柔道を少しやった程度。

 ここで無謀な賭けに出て、自分まで倒れるわけにはいかない――


「ャあっ……あっ――何でっ……ぃやっ……」


 激しく震えて嗚咽する小さな咲奈を、ぎゅっ――と抱きしめる。

 そして――

 心の中で荒れ狂う激情を、香織はどうにか抑え込んでいた。


『……ら、海上自衛隊、護衛艦『ぎんが』! 大丈夫ですか?』


 炎の赤い光に舐められるだけとなった青黒いブリッジ内に、突如、日本語の無線の声が響き渡った。


 えっ? 自衛隊?


 香織の心に再び希望が灯る。


 そうか! あのヘリは、自衛隊のヘリなんだ!

 護衛艦が――海上自衛隊が、近くにいる!

 でも、だとしたら――どうしてヘリは、戻ってしまったのか?


『『五輪丸』! こちら、『ぎんが』! 誰か応答を!』


 松本の、物言わぬ身体のそばに落ちた無線機から、日本語の音声が流れる。

 松本を殺した男を怒鳴りつけていた男――

 どうやら、この男が侵入者たちのリーダーのようだ――

 が、無線機を床から拾い上げ、口に当てた。


「アー……ジスイズイランネービー……ウー……ジスタンカーイズ……アー……アス……ラトシュッ!」


 最後の言葉はペルシャ語だろうか? 

 ともかく、英語が堪能な人間ではないようだ……

 これに対し、今度は無線機から、


「This is the Japan Maritime Self-Defense Force.What are your demands?(こちらは日本の海上自衛隊である。君たちの要求は何か?)」


 しかし、リーダーらしき男は、また何か聞き取れない言葉で毒づいた。

 他の仲間に、左手の無線を上げ下げしながら、何事か話しかけている。

 これに対し、三人が何か返している。

 リーダーが持った無線機から、なおも日本語が、虚しく吐き出され続け――

 その頃になって――香織は、ツン……と、鼻を突く臭いに気が付いた。

 これは鉄の――血の臭い?

 それとも、外から流れ込んできた燃える油の?

 だが――どちらも“死の臭い”であることには変わりはない……

 じっとりと、粘り気のある汗が肌を伝った。

 ブリッジには暑さだけでない、重たい何かが充満し始めているようで――


 ドォン――


 籠るような音がして、びりびり……とブリッジが揺れる。

 話し合っていた侵入者たちが、新たな炎の吹き上がった船首に顔を向けた。

 船首の方で誘爆が始まっているのだろうか?

 日本の護衛艦が、すぐ近くまで私たちを助けに来てくれている――

 でも――果たして、私たちの救助に、間に合うのだろうか?

 その時だった。リーダーが握り締めた無線機から、


「『五輪丸』の皆さん! 必ず自衛隊が助けに行きます! 待っていてください!」


 一縷の希望が胸に灯り、香織は咲奈を抱きしめる両腕にぐっと力を込めていた――

 

「ムーブフォワード!」


 背後から、空気を裂くような怒声が突き刺さった。

 振り向くと、居住区に通じる出入り口から、侵入者の一人が銃を構え入って来た。

 その後ろにぞろぞろと続く影は――


『五輪丸』のクルーだ。


 入ってきたのは四人で、さらにその後ろから、

「クイック!」

 もう一人の侵入者が、銃でクルーを追い立てた。

 彼らも捕まってしまったんだ――

 ぎゅっ……と、香織は唇を噛む。

 クルーの先頭の男が、オレンジ色の光の中に入る。

 優し気な、丸眼鏡をかけた男――

 機関員の本多(ほんだ)だ。

 不安げな表情が、炎の明かりに揺れていた。

 香織の心に一瞬、安堵が拡がる。

 見知った顔を見るというだけで、こんなにも心が落ち着くものなのか――

 本多の後にも、見知ったクルーの顔が続き――


「げっ――」

「えっ? ……船長?」


 クルーたちに、ざわっ――と、動揺が走った。


「シャットアップ!」


 侵入者が鋭く叫び、クルーに銃を突きつけた。

 空気が一気に凍り付く――

「シッダウン!」

 有無を言わせぬ圧に、本多たちは慌てて床にしゃがみこんだ。

 本多たちを連行してきた男の一人が、リーダーに声をかけた。

 二人でしばらく話をした後、今度はリーダーが本多に何か話しかけた。

 それに、聞き慣れない言葉で応答する本多――

 そうだ! 香織は思い出していた。


 本多は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 

 リーダーは、ゆっくり立ち上がった本多に、左手の無線を見せ語りかける。

 炎の照り返しに緊張した表情を浮かべた本多が、しきりに小さく頷いている。

 本多はリーダーから無線を受け取り、マイクを口に当てた。

「こちら『五輪丸』。私は、ペルシャ語を話せる乗組員の、本多です。あの、イランの人達は、あなたたちにここから黙って立ち去るよう、要求しています」

 

 バタバタバタ――


 ほぼ同時に、ヘリのローター音がブリッジに近づいてきた。

 香織は前方の窓に視線を移す。

 そこには、暗闇をかき分け、再び向かってくるヘリの姿――


 やった! 戻ってきてくれたんだ!

 

 香織の心に、消えかけていた希望の光が灯った。

 同時に、ブリッジ内の侵入者たちが動揺した。

 二人が、左ウィングの開け放たれた出入り口から外に駆け出した。

 リーダーが大声で本多に喰いつかんばかりに詰め寄る――

「あの、『五輪丸』! こちら『五輪丸』! い、イランの人達は、ヘリを撤退させるようにと、言ってます! あの! もしもし?」

 必死の形相で無線に叫ぶ本多――

 ヘリはブリッジ上空に達すると、左右に蛇行を始めた。

 そこに銃声が重なる。

 ヘリの腹部や脚で、火花が散るのが遠目にも判った。

 金属が金属を叩く固い音が、香織の耳に届く――


 また、ヘリが侵入者から狙撃されてる!


 ヘリの探照灯が、暗いブリッジ内を右往左往した。

 通信席のデスクに覆いかぶさるようにして死んでいる船長と、少し離れた床に仰向けに倒れた松本、そして床の上の血だまりが、その度に現れては消え、現れては消えを繰り返す。

 ヘリはなおも蛇行を続け、下からは侵入者がさかんに銃を撃ち上げている。


 だめだ――


 香織は思った。

 この状態では、ヘリがタンカーに着艦することも、誰かを降ろすことも不可能だ。

 香織の心に絶望が拡がる――

 室内では、本多がなおも、

「ヘリを遠ざけて――」

 と無線に訴えている……

 その時――

 香織の心に、ふと疑問が生じた。

 ほぼ同時に、左ウイングの出入り口からヘリを迎撃していた二人が戻って来た。

 そう――香織の疑問は、


 ヘリはタンカー上空で蛇行を繰り返すだけで、特に攻撃する気配がないこと――


 だった。

 この不自然さに、もしかすると侵入者たちも気付いたのではないのか?

 ヘリの探照灯の光が躍るブリッジの中で――

 香織の胸に、得体の知れない胸騒ぎが広がり始めていた……


「立ってください、須藤さん」

 本多が、ヘリの音に負けじと大声で香織に声をかけた。

「え――?」

「立ってください――お願いします」

 再度、本多に促され、香織は、抱きしめていた咲奈をゆっくりと放す。

 糸の切れた人形のように、咲奈は力なく両手を床に付いた。

 それを見届けてから、香織はゆっくり立ち上がる。

 そして、不審げに本多を見やると、本多は、


「彼らが、エンジンを――()()()()()()()()()()()、と、言ってます」


「は? 何だって?」

 香織は、本多の言っている意味が判らなかった。

「ですから、本船のエンジンを始動させてください、須藤さん」

 ヘリからの探照灯に、白くなったり暗くなったりする本多の顔が言った。

「え? そんなこと、出来るわけ――」


 本多の背後にいたリーダーが、突然、銃口を香織に突き付けて喚き出した。

 思わず両手を上げる香織――


「いいから早く! 須藤さん!」


 香織は訳も判らず、追い立てられるように操船コンソールのデスクまで歩いた。

 松本にもらった蜜柑が、悪い冗談のようにそこにぽつんと置かれている。

「早く! 機関を始動させてください!」

 本多に急かされるが、香織は全く状況が理解できない。

「は? 何言ってんの? どういうこと? この状況で、機関を?」

 すると、業を煮やしたのか……

 リーダーが、今度は床に力なく四つん這いになっている咲奈に銃を突き付け――

 本多に、厳しい口調で何か喋った。

 香織の心臓が、ぎゅっと縮む――


 は? 何? どういうこと?

 

 香織が混乱していると、本多が、


「須藤さん! こ、この人は、

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 と、そ、そう、言ってます! で、で、出来なければ、

 ()()()()()()()、って……」


 ――はあ?


 香織の心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。


 めちゃくちゃだ!

 このリーダーは、狂っている! 


 香織の視界で、ヘリからの白い光とオレンジ色の炎の光、そして闇が、

 ぐるぐるぐるぐるとブリッジ内を回る――


 うずくまる咲奈、突き付けられるライフル、リーダーの喚き声、蜜柑、本多の必死な顔、レーダー、松本、無線、蜜柑、船長――


「須藤さん、早く!」

 必死の形相で本多が叫んだ、まさにその時――


 ――ガンガンガン!


 耳を弄する音が、右ウイングに出る防水扉から鳴り響いた。

 喚き続けていたリーダーが、音のした方を注視する。

 直後――


 左ウイングの入り口から、大きな影――

 いや、()()()がブリッジ内に踏み込んで来た――

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