第五章 須藤香織――タンカー『五輪丸』一等航海士 その一
一
黒い海と満天の星空を、水平線が横一文字に切り分けていた。
最小限に絞られた照明が、ブリッジ内を青昏い静寂に沈めている
その中央で、大柄な女性が、じっ――と、進行方向を見据えていた。
百七十センチを超える堂々とした体躯。
半袖の白い制服が、青昏さに溶け込んでいくようだ。
肩で鈍く光る三本の線……
須藤香織、一等航海士――
ハーフパンツから伸びた両脚が、ブリッジの床を踏みしめていた。
周囲で、ディスプレイ、レーダー、計器などの明かりがほのかに瞬く。
機関の快調な音と、室内を快適に保つ空調の唸り、これに時折、
ザッ……ザザッ……
無線のノイズが混じる。
香織の横では、小さく華奢な女性がレーダーを覗き込んでいる。
レーダーの光が、端正で整った彼女の、真剣な表情を浮かび上がらせる。
原木咲奈、三等航海士。
咲奈も、香織と同じ白い制服に、白いハーフパンツを着こんでいた。
この時間の当直は、香織と咲奈――女性航海士二人が務めていたのだった。
「周辺海域に異常なし」
咲奈の声が、青みがかった暗がりに響いた。
「とりあえず、ここまでは順調ね」
香織が静かに応えた。
「それにしても良かったよね。イラン戦争、収束してさ」
足元に、エンジンが心地よい振動を送ってくる。
数日前までの機関の沈黙が、今は幻のようだ。
数か月前――
アメリカから攻撃を受けたイランは、ホルムズ海峡を封鎖した。
多くの船舶が、ペルシャ湾内に閉じ込められた。
香織たちの乗る石油タンカー『五輪丸』も、例外ではなかった。
戦争は泥沼化し、封鎖は長期間に及んだ。
船上での生活は、一種の監禁生活だった。
乗員の精神は、徐々に、静かに蝕まれていった。
他国の船舶が攻撃を受け、炎上したという情報も、香織たちを圧迫した。
日本の貨物船も若干、被害を受けたという。
が――その苦しみも、一週間ほど前に終了した。
イランとアメリカは停戦に合意――
イラン政府は次々と、滞留していた船舶に、海峡の通行許可を通達してきた。
『五輪丸』は、この日、海峡を無事、通過――
今はオマーン湾を、東へ、東へと――
懐かしい日本へ、夜の海をひた走っていたのだった。
二
「あんたたち――結婚式、間に合いそうなんでしょ?」
香織が、ふっ――と微笑みながら問いかけた。
「そうですね、まあ、どうにか……あとひと月、停戦が遅れていたら、式を延期するはめになってましたね」
「いいなあ。咲奈はこれで無事、下船だね。おめでとう!」
青い照り返しの中、咲奈の顔がほころぶ。
「ありがとう、と言いたいところですけど、正直須藤先輩と離れるのは寂しいですよ」
「何言ってんの! ほんとはうるさい私から離れられてせいせいしてるんじゃないの?」
「そんなことないですよ! ホントに……」
「へえ~……そうかな?」
「そうですよ――まあ、その、宮岡船長から離れられるのは……嬉しいですけど」
香織に向かって、咲奈がチョロッ――と舌を出した。
「あー、宮岡ね……あいつ、どうせまた、船長室で飲んだくれてんでしょ?」
「家庭が上手くいってないからって、私たちに八つ当たりしないで――」
ガコン――
背後で防水扉が開いた。
咲奈が、ビクリ――と、細い肩を竦ませた。
振り向くと、入り口に、ひょろっと痩せた男が立っていた。
「ちょっと! ブリッジは当直者以外入室禁止だよ、松本!」
香織の声と共に、咲奈の、ホッ……と息を吐く音が混じる。
「ホルムズはもう抜けたんだ。そんな固いこと言わないでよ、須藤ちゃん」
言って、松本満弥は後ろ手に防水扉を閉めた。
ペタン、ペタン――
静かなブリッジに、場違いなサンダル音が近付いて来る。
ポロシャツにハーフパンツ……普段着丸出しの松本に、香織はため息が出る。
「ほれ」
松本が投げた何かを、香織が右手で受け止めた。
暗い中、眉をしかめ――
「蜜柑?」
「ほい、咲奈も食うか?」
松本は咲奈のそばのデスクに腰かけ、蜜柑を剝き始める。
「もう! ちょっと、何しに来たのよ?」
咲奈が、相好を崩して松本に訊いた。
「差し入れだって。岩田さんからのおすそわけさ」
「ほんとに? くすねて来たんじゃないの?」
「くすねてまーせーん!」
松本が、蜜柑のひとかけを咲奈の唇に押し付けた。
最初、咲奈はしかめっ面で顔を背けたが――
ぱくり!
松本の指ごと、蜜柑をくわえこんだ。
「うおい!」
松本が、さっと指を引き抜いた。
咲奈は、蜜柑を頬張り笑みをこぼす。
剝きかけの蜜柑を置いた松本は、床に降り立ち、咲奈の腰に腕を回した。
「なあ、咲奈――蜜柑もいいけど、日本に戻ったらさあ――まずは二人で寿司を食いに行こうぜ? 醤油とわさび、たっぷりつけてな」
密着した二人の身体がゆっくりと揺れる。
「いいね! 中トロとか、カンパチとかね!」
「はいはい! そういうのは日本に着いてからにして!」
香織は、じゃれつく二人の間に身体を割り込ませ、
「ほら、仕事中!」
「ちょ、まったくお堅いんだから、須藤ちゃんはぁ……ちょっとは大目に見てくれよぉ」
「邪魔よ! 出てった出てった!」
香織は、強く松本の背中を押し、防水扉まで追い立て――
ピーン――
膨れっ面の咲奈の横のレーダーが、鋭い反応音を放ち、青昏い空間を切り裂いた――
三
「レーダーに反応――七時の方向、何か近づいてくる!」
緊迫した咲奈の声に、香織が駆け付けた。
ペタペタ……
松本のサンダル音だけが、どうにも場違いだ。
レーダーが、左後方から高速で迫る小さな光点を報せていた。
「ミサイル? いや……船か!」
松本が、香織の肩越しで息を呑んだ。
『……ディスイズイラニアンネイビー、ストップユアエンジン……』
それまで沈黙していた無線が、突然、無機質な英語を吐き出した。
「イラン海軍?」
香織は眉をしかめた。
松本がペタペタと通信席に走り寄り、英語で、
「こちら日本のタンカー、『五輪丸』、イラン政府の許可を得て航行中……」
しかし、無線からは、感情の起伏のない英語で、
『イラン政府の許可など出ていない、すぐに停船せよ、さもなくば攻撃する』
「何なの?」
香織は、左後ろの窓に駆け寄り目を凝らす。
真っ黒な海に、波を蹴立てる小さな一隻の艦艇――
「いる……後方から、不明艦船、一隻! 迫ってくる!」
「船長、起こしますね!」
咲奈が船内通話機に走った。
「いやあ、船長、不機嫌になるぞぉ……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 起こして!」
松本のぼやきと香織の言葉が交錯する。
無線からは相変わらず『停船しなければ攻撃する』との英語が流れ続けている。
「船長ですか? 実は、問題が発生しまして……」
咲奈が船長に報告し、松本がイラン船に粘り強く英語で対話を試みる。
その間に、イラン船は、タンカーの左舷側の海を切り裂き駆け抜けた。
大きく蛇行してタンカーの前面に躍り出る――
イラン船の船首あたりが断続的に光った。
『五輪丸』の船首で火花が散り、
ガンガンガンガン!
固い衝撃音がブリッジを貫いた。
――は?
撃たれた?
香織の思考が一瞬、空白になる――
胸の奥が、ぎゅっ――と縮んだ。
これは――とてつもない剥き出しの暴力だ――
慄然とした香織は、窓の傍らの手すりを強く握りしめていた。
四
『こちらはイラン海軍である……直ちに停船せよ』
凍り付いたブリッジに、無線から淡々と英語の要求が流れ続ける。
快調な機関の音とは裏腹な、無機質で残忍な刃のようだった。
「咲奈! 止めて!」
決然と、香織が言った。
受話器を握り固まっていた咲奈が、弾かれたように操船コンソールに駆け寄った。
咲奈の操作に、力強い低音を響かせていた機関が、ゆっくりとその鼓動を緩め――
……止まった。
ざっ――ざざざっ……
しばし惰性で波を掻き分け進んでから――
『五輪丸』は、完全に夜の海に静止した。
数日前までの、ペルシャ湾で停船していたあの頃が頭をよぎる。
再び襲い来る閉塞感――
『五輪丸』は、海に浮かぶ巨大な“鉄の箱”と化した。
船首の向こうでは、イラン船があざけるように左右に蛇行している。
まるで、獲物を狙う鮫――
ゴトン――
三人は、びくり……と、背後を振り返った。
『五輪丸』船長、宮岡正志の太い身体が、入り口を塞ぐように立っていた。
ジャージの上に、『商船越後屋』のジャケットを無造作にひっかけている。
「おい、どうした! なんで俺の船を停めたんだ? ああ?」
眼鏡の奥の藪にらみの目で香織たちをねめ回す。
「一体何事だよ!」
ダン!
扉を投げ閉め、どかどかと大股で歩いて来る。
「船長! 実はイラン船が――」
「ああ? 松本、何でお前がここにいるんだ?」
状況報告する松本に、宮岡が疑問を投げつけた。
直後、前方でエンジン音を吠え散らかすイラン船に気付き、
「何だよあれはぁ……」
毒づいた。
香織は、酒と煙草の混じった臭いに顔をしかめ、
「ですから、突然あのイラン船が現れて、停船を要求してきたんです」
「そんなことで俺の船を停めたのか? この根性無しが! おい須藤、でかいのは身体だけか?」
「あの、船長……その――イラン船が射撃してきたので……」
咲奈の言葉に、さすがの宮岡も驚いた表情を見せ、
「ああ? 撃ってきただぁ?」
「はい、船首に数発、命中しました」
香織が咲奈の言葉を引き取る。
「何だと?」
宮岡の眼鏡の奥の細い目が、さらに細くなる。
「じゃあ、さっきのガリガリとかいう妙な音は、機関の不調なんかじゃなく――」
忌々し気に通信席の無線を睨んだ。
無線からは、
『これより当方は貴船に乗船し、立入検査を――』
というイラン船の、無機質な英語の通告が流れてきていて――
五
「立入検査だぁ? ふざけるな!」
暗いブリッジ内に、宮岡の不機嫌な足音が響き渡った。
松本から通信機をひったくると、英語で、
「こちらは日本タンカー『五輪丸』! 本船はイラン政府の公式な許可を得て通行しているものだ! これ以上の不当な要求は、国際問題だ! 日本政府に要請し、正式な抗議をイラン政府に申し入れることとなる! 繰り返す――」
息を荒げながらがなり立てた。
イラン船は宮岡の抗議などどこ吹く風で、
『立入検査を行う。貴船は抵抗することなく当方の乗船を許可されたし』
まるで、録音している音声をただ流しているよう――
宮岡は、ちっ、と舌打ちすると、
「話にならねえ! 何なんだよ、こりゃあ……」
酒臭い息をまき散らしながら不平をぶちまけた。
船長を見上げた松本が、
「何が狙いなんでしょうね、あいつら」
「俺が知るか! 松本、お前が聞いてみろ」
「ええ? また?」
「早くしやがれこの野郎!」
ガゴン――
突然、ブリッジ左側の、ウイングに通じる防水扉が開いた。
何事かと香織が目を向ける。
次々と飛び込んでくる複数の黒い影。
その動きには迷いがないように見え――
しかも何か長い物を手に構えていて――銃?
「フリーズ! ドンムーブ!」
人影が、銃口を香織たちに向けた。
香織は息を呑み、思わず両手を挙げ、通信席の船長に視線を送る。
船長は、何か小さく毒づくと、マイクをデスクに叩きつけた。
ドスドスと通信席の隣のデスクに移動し――
「ヘイ! キャンユーヒアミー? フリーズ!」
船長は聞く耳も持たず、デスク上に設置されたカバーを跳ね上げた。
そして救難信号を押下し……刹那――
ダダダッ――ダダッ!
銃口から閃光が弾け、爆裂音に香織の身体が硬直した。
無線機周辺で弾丸が跳ね当たり火花が散る。
暗闇の中、船長の大きな身体が、
びくっびくっ――
……不気味に弾けた。
別の男が、撃った男の銃を押さえ怒号しているのが目の端に映り――
香織の視界の中心で、船長の身体が、
ゆっくりと、デスクに覆いかぶさるようにして倒れ――
そのまま、床にぶら下がった。
香織の喉がきゅっ……とすぼまり――
「キャ――――――――ッ!!」
咲奈の鋭い悲鳴が暗闇を切り裂いた。
悲鳴をぐっとこらえた香織は、咲奈を両腕で強く抱きしめ、咄嗟に身体で覆った。
さらに数名の闖入者が、わらわらとブリッジに入って来る。
船長を撃った男が、仲間からしきりに怒鳴りつけられていて――
松本が、無線機をひとつ手に持ち、自分の身体に隠して床に座り込んだのが見えた。
外から、潮の臭いと共に、どろりとした熱気がブリッジを侵食し始め――
侵入者たちが、改めて座り込んだ香織たちに、
「ドンムーブ!」
銃口を向け威嚇する。
と、突然――
白光がブリッジを焼き――
ドドドォオォン――
耳を弄する音が轟き、ブリッジがぐらぐらと揺れた。
光が落ち着くと、窓外に、船首から星空に向かって吹き上がる炎の柱が見えて――
「何? 何なの?」
オレンジ色の光に焼かれながら、香織の腕の中で咲奈が叫んだ。
「しっ! 静かに!」
咲奈に声をかけつつ、香織は、
爆発? さっきの砲撃で? それとも――新たな攻撃?
侵入者たちも、混乱しているのだろうか――
爆発を見ながら、何か喚き合っている。
聞き慣れない言語の怒号が、ブリッジを飛び交った。
彼らは、皆一様に黒い迷彩服を着てライフルを持ち、黒い目出し帽子を被り、スコープを装着している。
男たちの一人が、無線を耳に当て交信を始めた。
別の男が、残った男たちに何か身振り手振りで語り掛けていて――
どうやら指示を出しているようだ――
「ドンムーブ!」
一人が、しゃがみこむ香織と咲奈に銃を突きつけた。
香織は、咲奈を抱きしめ、黒い銃口と無機質なスコープを睨みつけた。




