第九章 雨の日の店内
七月七日。七夕の日、あいにくの雨が降った。
朝から空が低くて、開店準備をしている時にはもうしとしとと降り始めていた。梅雨の終わりかけの雨で、しつこくはないが、止む気配もない。参道の石畳が濡れて、いつもより暗い色になった。土産物屋が軒先に雨よけのテントを出した。観光客は傘を差しながら歩いていた。
こういう日は、客足が落ちる。
それは仕方のないことで、史桜里はそれを知っていた。雨の日には雨の日の店がある。騒がしくなくて、人の出入りが少なくて、店の中の音が濃くなる。雨が窓を叩く音、抹茶を立てる音、誰かが作法に従うように静かに飲む音。晴れの日には混ざって聞こえないものが、こういう日には一つひとつ聞こえた。
史桜里はそういう日が、嫌いではなかった。
午前中は、観光客が数組来ただけだった。
佐伯は仕込みをしながら、ほとんど何も言わなかった。史桜里も必要な仕事を済ませて、あとはカウンターで在庫のメモを整理したり、次の季節のメニューのことを少し考えたりした。
沢渡さんは雨でも来た。
傘を畳みながら入ってきて、「今日は降りましたね」と言った。
「ほうじ茶と、水ようかんをもう一つ」
「かしこまりました」
「雨の日はね、不思議と甘いものが食べたくなるのよ」
沢渡さんはそう言いながら、カウンター席についた。
「お客さん、少ないでしょ」
「そうですね、今日は」
「でも、こういう日の方がゆっくりできるから、わたしは好きよ。混んでる日は、なんか落ち着かなくて」
「沢渡さんらしいですね」
「そう?」
沢渡さんは少し笑った。
「史桜里さんはどうなの、雨の日」
「好きです、じつは」
「あら、わたしと同じね」
沢渡さんはほうじ茶を受け取って、窓の外を見た。
「雨の宇治川って、きれいよ。川の色が変わって、水かさが増して。観光で来る人には不評かもしれないけど、住んでると、雨の宇治も好きになるわよ」
「少しずつ、そうなってきてます」
「そうやって好きな景色が増えていくのよ」
沢渡さんは水ようかんを一口食べて、満足そうにした。史桜里はカウンターへ戻った。
昼を過ぎたころ、山吹が来た。
傘を畳んで、ランドセルではなくリュックを提げていた。今日は学校が早く終わったのか、制服のままで来るにしては少し早い時間だった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。今日は早いですね」
「午後から自由時間で」
「そうなんですか、ゆっくりどうぞ」
山吹はいつもの中ほどの席に座った。今日は傘を持って来ていることもあって、入り口の傘立てを確かめてから席についた。そういう細かい動作が、前より自然になっていた。
ほうじ茶ラテ、アイスで、と頼んで、リュックからスマートフォンを出した。
史桜里はラテを作りながら、今日の山吹の様子を考えた。いつもより少し落ち着いていた。学校が早く終わって、外が雨で、寄り道するのにちょうどいい日だったのかもしれない。
午後は静かだった。
沢渡さんが帰ってから、しばらくは山吹だけが客だった。佐伯は厨房で何かの作業をしていて、店の表は史桜里と山吹だけになった。
雨の音がずっとしていた。
山吹はキーボードを打っていた。今日は止まる時間が少なく、割と続けて打っていた。調子がいい日なのかもしれない、と史桜里は思った。
史桜里はカウンターで、来月の季節メニューのことを考えながら、黒板に何を書こうか頭の中で組み立てていた。八月になれば、宇治金時の需要がさらに増える。それだけじゃなく、何か夏らしい一文を添えたかった。去年の夏は、まだ今ほど黒板のことを考えていなかった。今年は少し、丁寧にやりたいと思っている。
そのうちに、山吹がスマートフォンを置いた。
置いてから、少し天井の方を見た。考えているような、休んでいるような、区別のつかない顔だった。
史桜里は水を持って近づいた。
「お水、どうぞ」
「ありがとうございます」
「調子よさそうですね、今日」
山吹は少し驚いた顔をした。
「わかりますか」
「打ってる時間が長かったので」
「ああ」
山吹は少し苦笑いした。
「今日はなんか書けて。雨の日の方が、集中できるかもしれないです」
「静かだから」
「うん。あと、なんか、雨って外と切り離される感じがして。今ここにいるしかない、みたいな」
今ここにいるしかない。史桜里はその言葉を、少しだけ持った。追い詰められているわけではなく、ただ今この場所に落ち着いている、というような意味だと思った。
「何を書いてるんですか、今日」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。でも山吹は嫌な顔をしなかった。
「短い話です。投稿してるやつの、続き」
「続きがあるんですね」
「連載みたいな感じで、少しずつ出してます。でも最近、反応なくて、続けてもいいのかなって思ってたんですけど」
「今日は書けてる」
「今日は書けてます。なんか今日だけ、反応とか関係なくて、書きたいから書いてる感じがして」
書きたいから書いてる感じ。
史桜里はカウンターへ戻りながら、その言葉を繰り返した。
三時過ぎに、叶羽が来た。
傘を閉じて入ってきた時の顔が、少し違った。明るくも暗くもない、複雑な顔だった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
叶羽は窓際の席についた。スケッチブックを出したが、開かなかった。
抹茶ラテ、ホットで、と頼んで、窓の外の雨を見ていた。
史桜里はラテを作りながら、叶羽の様子を考えた。選考の結果が出た週だと、前に言っていた。
運んでいくと、叶羽は「ありがとうございます」と言ったが、カップにすぐ手をつけなかった。
「結果、出ましたか」
史桜里が尋ねると、叶羽は少し間を置いた。
「出ました」
「どうでしたか」
「落ちました」
短く言った。感情を抑えているというより、まだ言葉にしている途中のような声だった。
「そうでしたか」
「うん。でも、まあ」
叶羽はそこで少し笑った。笑い方が、いつもより不安定だった。
「仕方ないというか、自分の出せるものは出せたから。それでだめだったなら、まだ足りないってことで」
「強いですね」
「強くないです。今、かなりきついです」
きついです、と言いながら、叶羽は笑っていた。矛盾しているようで、でもそういうものかもしれないと史桜里は思った。
「きつい、と言えるうちは、大丈夫だと思います」
「そうかなあ」
「言えなくなると、怖い気がして」
叶羽はそれを聞いて、少し考えた。
「言える場所があるのは、ありがたいですね。拓人くんには話せるし、こっちに来ればこういうふうに話せるし」
「ここはそういう場所にしたいです」
言ってから、史桜里は少しだけ驚いた。そういう場所にしたい、というのは、自分の言葉だった。仕事の言葉ではなく、史桜里が思っていることを、そのまま言ってしまった。
叶羽はその言葉を受け取って、「ありがとうございます」と言った。
叶羽が窓の外を見ながら、ラテを少しずつ飲んでいた。
山吹はまだ中ほどの席にいた。今はキーボードを打つ手が止まっていて、史桜里のわかる範囲では、ぼんやりと前を見ていた。
叶羽がスケッチブックを開いた。何かを描き始めた。雨の窓を描いているのかもしれなかった。
店の中に、三人の時間がそれぞれあった。
史桜里はカウンターで、黒板に書く文を考えた。
来月の夏。冷たいものが、一番それらしく似合う季節。宇治金時。抹茶ソーダ。かき氷を待ちながら、少し涼しい店の中で過ごす時間。そういうことを、どういう言葉にするか。
考えながら、チョークを持って、小さな紙に試し書きをした。仕事だから書くのではなくて、書きたいから書いている、という感じで手を動かした。さっき山吹が言った言葉が、自分のことのように思えた。
四時ごろ、山吹がスマートフォンを置いた。
置き方が、いつもと少し違った。そっと置いた、という感じだった。書き終わったのかもしれない。
しばらくして、山吹が立ち上がって、会計に来た。
何かを迷っているような顔をしていた。
「どうしましたか?」
史桜里は尋ねた。
「今日書いたの」
山吹は答えた。
それだけで少し止まった。
「見てもらえますか。おかしいとか、ここが違うとかじゃなくて、ただ読んでもらいたくて」
史桜里は少し驚いた。見てほしい、と山吹が言ってきたのは初めてだった。
「もちろんです」
山吹はスマートフォンを差し出した。画面に、縦書きの文章が表示されていた。
短い話だった。
雨の日に、一人で古い喫茶店にいる女の子の話だった。何かを書こうとしているのに、書けない日が続いていた女の子が、雨の日だけはなぜか書けて、でもその理由がわからない、というような内容だった。派手な出来事は何もなかった。ただ、女の子の頭の中と、店の中の静けさと、雨の音が書かれていた。
史桜里は最後まで読んだ。
読み終わってから、少し間を置いた。
「穏やかな話ですね」
「地味ですよね」
「地味じゃないです。穏やかな、は褒めてます」
「そうですか」
「雨の音と、店の中の感じが、伝わってきました。読んでたら、今日みたいな日のことが思い浮かんで」
叶羽に言ってもらった言葉を、史桜里は山吹に返していた。思い出す、残ってる感じ。そういうことが、山吹の文章にもあった。
「朝倉さんって」
「はい」
「作る人なんですね」
山吹に言われ、史桜里は少し、手が止まった。
「どうして」
「感想の言い方が。なんか、作ってる人の言い方する気がして」
史桜里は返事をしようとして、できなかった。
どういう言い方が作ってる人の言い方なのかは、山吹自身もうまく説明できないかもしれない。でも、感じ取っていた。
「昔は、少し」
そう言いかけて、史桜里は言葉に詰まった。
いつもそこで止まっていた。前は少し、なんとなく好きだった、たいしたことじゃない。そういう言い方で、ずっと畳んできた。
でも今日は、雨の音がして、山吹の文章を読んだ後で、叶羽が落選しても絵を描いている日で。
「フライヤーとか、小さな冊子とか、作るのが好きでした。文字と絵を一緒に並べることが。でも、続けられなくて、やめてしまいました」
言い切った。
やめてしまいました、まで言ったのは、初めてだった。叶羽には「うまく続けられなかった」と言った。それより少しだけ、正直だった。
山吹は史桜里の顔を見ていた。
「そうだったんですね」
「はい」
「やめてしまったんですね」
「はい」
「今は?」
「今は、店の仕事の中で、少し。黒板とか、メニューカードとか」
「それって、やめてないんじゃないですか?」
山吹はそう言った。史桜里を慰めているわけでも、励ましているわけでもない声で、ただそう思ったから言った、という感じだった。
史桜里は少し黙った。
やめた、と思っていた。ずっとそう思っていた。でも山吹の言い方では、形が変わっただけで、続いているのかもしれない。そうなのか、そうでないのかは、史桜里にはまだわからなかった。
「そうかもしれないですね」
それだけ言った。
山吹は「ごちそうさまでした」と言って、代金を支払った。傘を持って、引き戸へ向かいながら、振り返って言った。
「今日、来てよかったです」
「わたしも、来てくれてよかったです」
引き戸が閉まった。
雨はまだ続いていた。
叶羽はまだ窓際にいて、絵を描いていた。落選した日に、それでも絵を描いていた。
史桜里はカウンターへ戻って、試し書きの紙を見た。
来月の黒板に書く文のことを、また考え始めた。
書きたいから書いている、という感覚が、さっきより少しだけ近くなっていた。
雨の音が続いていた。
店の中が静かで、その静けさがちょうどよかった。




