第八章 ことばにならない焦り
七月になった。
参道の日差しが変わった。四月の薄い光でも、五月の柔らかい光でもない、真っ直ぐに降ってくる夏の光だった。石畳が白く照り返して、観光客が日傘を差しながら歩いていた。店の引き戸を開けると、外の熱気がそのまま入ってくるような日もあった。
茶房「よりみち」の夏は、宇治金時と抹茶ソーダが動く季節だった。
黒板を書き替えた。夏のメニューを中心に、少し絵も変えた。宇治金時のかき氷をざっくりと描いて、その横に短い文を添えた。冷たいものは、暑い日ほど似合います。書いてから、少しだけ気に入った。佐伯に見せると、「ええんじゃないか」と言われた。それで十分だった。
叶羽は七月に入ってからも来た。
スケッチブックを持って、窓際の席に座った。ただ、今月に入ってから、描く手が止まっている時間が長くなっていた。窓の外を見ている時間が、以前より多かった。
史桜里はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
水を継ぎに行くと、叶羽が「学校で選考があって」と言った。
「コンペみたいなもの、学校の中での。イラストを出したんですけど」
「そうなんですか」
「結果がまだで。来週出るんです」
「楽しみですね」
叶羽は少し曖昧に笑った。
「楽しみというか、こわくて」
「こわい」
「ちゃんとできてるかどうか、自分ではわからないから。好きなものを出せたとは思うんですけど、それが伝わるかどうかは別で」
伝わるかどうかは別、という言葉が、拓人が以前言っていたことと重なった。伝えたいものと、伝わるものは少しずれる。二人は方向が違っても、同じところに突き当たっているのかもしれなかった。
「出せたことは、よかったと思います」
「そうですかね」
「出さないと、何もわからないから」
叶羽は少し間を置いて、「そうですね」と言った。
自分を納得させるような言い方だった。
拓人はその週に一人で来た。
方眼紙のノートを広げて、何かを書いていた。いつもより書いては消す動作が多かった。史桜里が水を持っていくと、拓人は顔を上げた。目の下に少し疲れがあった。
「ありがとうございます」
「お疲れですか」
「少し煮詰まっていて」
「ゲームのことですか」
「そうです。作ってるところが、思ったように動かなくて」
技術的な話は史桜里にはわからないが、うまくいっていないことはわかった。
「あの、差し出がましいですが、少し休んでみるのはどうでしょう。気分転換に、何か頼みますか。今日は宇治金時も出てますよ」
拓人は少し笑った。
「宇治金時にします。それで頭冷やして、また考えます」
「かしこまりました」
宇治金時を作りながら、史桜里はふと思った。拓人はいつも落ち着いていて、感情をすぐには出さない。でも今日の顔は、少し隠しきれていないものがあった。
テーブルに運んでいくと、拓人はノートを閉じてかき氷を受け取った。
「ちゃんと食べながら考えます」
「ゆっくりどうぞ」
「朝倉さんは、煮詰まった時どうしますか」
突然の問いだった。史桜里は少し考えた。
「川を見に行ったりします。宇治川、歩くと少し落ち着くので」
「川ですか」
「参道の向こうだから、近くて。夕方、川沿いを少し歩くだけで、なんかまた考えられる気がして」
「今度、やってみます」
拓人はそう言って、かき氷を一口食べた。
山吹はその週も来た。
今日はスマートフォンを出してから、しばらく画面を見つめていた。打つ動作が少なく、読んでいるようにも見えなかった。
史桜里が水を持っていくと、山吹は「投稿の反応が、ほとんどなくて」と言った。
唐突だった。でも、史桜里は驚かなかった。山吹はこういう言い方をする時がある。ためておいて、ふと出す。
「読んでもらえない感じですか」
「読まれてはいると思うんですけど、反応がなくて。ゼロじゃないけど、ほぼゼロで」
「それは、寂しいですね」
「寂しいというか……」
山吹は少し考えた。
「自分の書いたものが、空気みたいな感じで。あって、でもなくてもどっちでもいいみたいで」
空気みたい、という言葉に、史桜里は何かを感じた。それは、ないことと同じ、という意味に近かった。あるけれど、見えていない。そういう状態の痛さを、山吹は内に秘めていた。
「でも、書き続けてるんですよね」
「書いてます。やめたくはないんです。ただ、なんのために書いてるのかわからなくなる時があって」
「なんのために」
「誰かに読んでもらいたくて書いてるのか、自分のために書いてるのか、どっちかはっきりしてれば楽なんですけど」
「どっちでもいいのかもしれないですよ」
「どっちでも?」
「始まりは自分のためで、でも誰かに届いたら嬉しい。その両方があってもいいんじゃないかと思って」
山吹は少し黙っていた。否定はしなかった。でも、すんなりと受け取った様子でもなかった。
「朝倉さんは、そういうふうに思えるんですか?」
「そう思えたら楽だろうな、とは思います」
正直に言うと、山吹は少し笑った。
「思えたら楽、か」
「はい」
その日の夕方、三人が偶然重なった。
叶羽と拓人が来た時に、山吹がまだいた。今日はいつもより長くいた。帰りそびれていたのか、文章が途中だったのか、史桜里にはわからなかった。
叶羽と拓人は窓際の席についた。山吹は中ほどの席にいた。距離は三テーブルほどあったが、店が狭いから、会話は届いた。
史桜里はカウンターから、三人を視界に入れながら仕事をした。
叶羽が選考のことを話した。
「来週、結果が出るんですよね。こわくて考えたくないんですけど、考えてしまって」
「考えすぎると出来が変わるわけじゃないから、あまり意味ないんだけど」
拓人が突っ込む。
「わかってるけど、止まらなくて」
「うん、それは僕もわかる」
「拓人くんも、こわい?」
「そりゃぁこわい。作ったもの見せるたびに、毎回こわい。出来がいい時も、悪い時も、大体こわい。慣れない」
「慣れないんだね」
「慣れないですよ。慣れたら、きっと作らなくていいものまで出し始めると思う」
叶羽はそれを聞いて、少し考えた。
「慣れないのは、いいことなのかな?」
「いいかどうかはわからない。ただ、こわいと感じてる間は、まだ本気でやってるんだと思う」
少し間があった。
「わたし、うまい人を見ると苦しくなるんです。学校に、すごくうまい子がいて。その子の作品見ると、好きだって思う。きれいだって思う。でも同時に、なんか息が詰まる感じがして」
「才能を見た時の感覚、かな」
「才能っていう言葉、あまり好きじゃないけど、そういうことかもしれない。あの子みたいには描けない、って思って、そこから先が苦しくなる」
「あの子みたいに描く必要はないんだけど、それが頭でわかっても感情は別で動くよね」
「そう。頭と感情が違うことを言う」
史桜里はカウンターを拭きながら、二人の会話を聞いていた。
うまい人を見ると苦しくなる。頭でわかっていても、感情は別で動く。
それは史桜里にもあった。就職活動の時期、周りの人の作るものを見るたびに、自分の小ささを感じた。比べなくていいと思っていても、比べていた。その苦しさから逃げるように、見ることをやめた。見なくなってから、作ることもやめた。
叶羽は見ながら、苦しくなりながら、それでも続けていた。
そこが違う、と史桜里は思った。どこで違ったのか、はわからない。でも、どこかで分かれた。
山吹の席の方を見ると、スマートフォンの画面から目を上げていた。
叶羽と拓人の会話が聞こえていたのだと思った。聞こえていて、入ってこない。でも、耳は向いている。
史桜里は水差しを持って、山吹のテーブルへ向かった。水を継ぐ必要はなかったが、近くへ行く理由としてちょうどよかった。
「お水、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
山吹は小声で言った。史桜里もカウンターへ戻る前に、小声で返した。
「聞こえてますか、向こうの会話」
「少し」
「どうですか」
山吹は少し間を置いた。
「わかる、って思いながら聞いてます」
「同じ感じがありますか?」
「好きなだけじゃ足りないとか、うまい人を見た時の感じとか」山吹は目を伏せた。「たぶん、みんなそうなんですよね」
「そうみたいですね」
「でも、わかっても楽にはならないですよね」
史桜里は正直に答えた。
「楽にはならないかもしれないです。でも、一人じゃないとは思えるかもしれない」
山吹はそれを聞いて、また画面に目を落とした。
返事はなかった。でも、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
閉店間際、叶羽と拓人が帰った後、山吹が会計に来た。
スマートフォンをかざしながら、ぽつりと言った。
「好きなだけじゃ続けられないって、本当だと思いますか?」
史桜里は少し驚いた。向こうの会話を、それだけ真剣に聞いていたのだとわかった。
「どう思いますか、山吹ちゃんは」
「わからなくて聞いてるんですけど」
「そうですね……好きだけでは続けられない、という人と、好きだから続けられる、という人がいると思って。どちらも本当だと思います」
「どっちでもある、ってこと?」
「人によって、時期によって、違うのかもしれないです」
「じゃあ、今の自分はどっちかわからない時は?」
「わからないまま、続けてみるしかないんじゃないですかね」
答えになっていないかもしれなかった。でも、史桜里にはそれ以外の言い方が思いつかなかった。
山吹は「そうですか」と言って、代金を支払った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。気をつけて」
山吹がこの店をあとにすると、佐伯が厨房から出てきて、閉店の準備を始めた。史桜里も椅子を上げ始めた。
今日の三人のことを、順番に思い出した。
叶羽の、来週結果が出る、という顔。拓人の、毎回こわい、という言葉。山吹の、なんのために書いてるのかわからなくなる時がある、という声。
三人ともそれぞれ違うけれど、どこかで同じところへ向かっていた。好きなものと、それを続けることの、間にある何か。その何かに、三人はそれぞれのやり方で触れていた。
史桜里は椅子を上げながら、自分のことを考えた。
三人の言葉が、全部自分の過去のどこかに触れていた。うまい人を見ると苦しくなる。好きなだけでは足りないと思った。誰かに届いているかわからない。
触れるたびに、史桜里の中で何かが動いた。
動いているのに、どこへ向かっているのかはわからない。ただ、止まっていた何かが、少しずつ動き始めているような感覚が、最近ずっと続いていた。
佐伯が電気を落とし始めた。
「今日は長かったな」
「そうですね」
「お疲れ」
「お疲れ様でした」
短いやりとりで、今日が終わった。
史桜里は勝手口から出た。七月の夜は、昼間の熱が石畳にまだ残っていた。参道は暗くて、静かだった。
叶羽の選考の結果は、来週出る。
うまくいくといい、と史桜里は思った。
うまくいかなかった時のことも、少し考えた。その時、自分は何を言えるだろうか。
励ます言葉を持っているかどうか、まだわからなかった。自分がやめた側にいるから。その側にいる人間が、続けている人に何を言えるのか、史桜里にはまだ答えが出ていなかった。
夜の参道を歩きながら、史桜里はそのことを持ち続けた。
答えは出なかったが、考えながら歩いていられた。それだけで、今日は少しましな気がした。




