第七章 制服のままの寄り道
先週来た制服の女の子は、また来た。
同じ木曜日、同じ時間に、同じ制服で、同じリュックを提げて入ってきた。引き戸の内側でほんの少し足を止めてから、前と同じ壁際の席へ向かう。前より迷いが少ないように見えた。
「いらっしゃいませ」
史桜里が声をかけると、女の子は小さく会釈をした。
前に来たときほど、店の中を気にしている感じはない。それでもまだ、自分から場に馴染んでいく風ではなかった。目立たない席を選んで、鞄をひざに置いて、ゆっくりとメニューを開く。その動作が少しだけ固い。
史桜里は水を持って近づいた。
「ご注文はお決まりですか?」
「ほうじ茶ラテ、アイスで」
「かしこまりました」
前と同じ注文だった。
史桜里はそれを、なんとなく覚えていた。
ラテを運んでいくと、女の子はスマートフォンを伏せた。画面を見ていたはずなのに、何かに熱中していたようには見えない。待っているというより、落ち着くための動作として手元を見ていたような、そんな感じだった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
短い返事のあと、女の子は少し間を置いてから言った。
「この前の、ほうじ茶ラテ、おいしかったので」
史桜里は少しだけ笑った。
「ありがとうございます。また来てもらえてうれしいです」
「……入りやすかったので」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
女の子はそれ以上は言わず、ストローに口をつけた。けれど前回よりは、ここにいていいかどうかを確かめる感じが薄かった。店の空気に少しだけ慣れたのかもしれない。
夕方の店内は静かだった。
観光客の波はひと段落して、参道を歩く人の数も落ち着いている。叶羽たちが来る時間には少し早く、沢渡さんも今日はまだ来ていなかった。カウンターを拭きながら、史桜里は壁際の席を視界の端に入れていた。
女の子はほうじ茶ラテを飲みながら、ときどきスマートフォンに目を落としていた。けれど前回より、画面を見る時間は短い。代わりに、窓の外でもなく、店の中のどこかをぼんやり見ていることがあった。置かれたメニュー、カウンターの小さな案内札、壁際の照明。何を見ているのかまではわからない。ただ、何かを眺める目をしていた。
会計の時、
「ありがとうございます」
スマートフォンをバッグにしまいながら、女の子が頭を下げる。
史桜里はレシートを渡してから、できるだけ自然な調子で話しかけた。
「また来ていただけるなら、お名前を伺ってもいいですか?」
女の子は少しだけ目を上げた。ためらったのは一瞬だった。
「小宮です。小宮山吹」
「小宮さん。またお待ちしています」
「はい」
短いやりとりだった。
けれど、名前を知ると、それまで“制服の女の子”だった輪郭が少しだけはっきりする。
小宮山吹。
史桜里は引き戸が閉まるのを見送りながら、心の中でその名前を繰り返した。
次に山吹が来たのは、月曜日だった。
前より少しだけ早い時間に来て、同じ壁際の席に座った。ほうじ茶ラテを頼んで、スマートフォンを取り出す。けれど、前ほど居心地が悪そうには見えなかった。
店に入ってくる時のためらいが、ほんの少しだけ薄くなっている。
慣れたというほどではない。ただ、“ここにいてもいい場所”として認識し始めたように見えた。
そういう変化に気づくのは、史桜里の癖だった。
お客さんの様子を見すぎないようにしながら、それでも小さな違いは自然と目に入る。笑顔が増えたとか、注文が決まるのが早くなったとか、席の選び方が変わったとか。たいていはそれだけのことだ。けれど、それだけのことで、人がその場所に少しずつ馴染んでいくのがわかる。
山吹はまだ、多くを話すわけではなかった。
史桜里も無理に話しかけはしなかった。
ただ、何かを言いたそうな沈黙だけが、ときどきある。
その沈黙が、なぜか少しだけ気になった。
山吹はそれから、数日おきに顔を出すようになった。
毎回ほうじ茶ラテを頼んで、スマートフォンを見て、一時間半から二時間ほどいて帰る。それが山吹の「よりみち」での過ごし方だった。
史桜里は少しずつ、山吹のことがわかってきた。
話して聞いたわけではない。見ていてわかった。スマートフォンの画面を見る時の目の動きが、読んでいる時と、見ている時と、書いている時で違う。キーボードを打つ速さも、内容によって変わる。何かに集中しているときは、ラテのカップに手が伸びなくなる。
一度、画面を見ながら小さく笑ったことがあった。何かが面白かったのか、それとも自分の書いたものが上手くいったのか、史桜里には判断できなかった。でも、その笑い方が、叶羽がスケッチブックに向かっている時の顔に少し似ていると思った。
会計を史桜里が受け取っていると、山吹がカウンターの端の黒板を見ながら言った。
「この黒板、毎回変わってますよね」
「週に何度か書き替えてます」
「誰が書いてるんですか?」
「わたしが」
山吹は少し目を動かして、また黒板を見た。
「字、うまいですね」
「ありがとうございます」
「きれいっていうよりか、読みやすい。なんか、すっと入ってくる感じ」
山吹はそれだけ言って、「ごちそうさまでした」と出ていった。
すっと入ってくる感じ、という言葉が、史桜里の中に残った。きれいとか、うまいとか、センスがいいとか、そういう言葉ではなかった。読んだ時の感覚を、そのまま言葉にしていた。
五月の終わりに、叶羽と拓人が来た日に、山吹も来た。
偶然だった。山吹がいつもの時間に来ると、叶羽と拓人がすでに窓際の席で話していた。山吹は入ってきて、その二人に気づいた。
史桜里は見ていた。
山吹が一瞬、立ち止まった。叶羽と拓人の会話が、入り口からでも少し聞こえていたと思う。スケッチブックと方眼紙のノート、二人が持っているものが目に入ったかもしれない。
山吹は少し迷ってから、前回と同じ中ほどの席に座った。叶羽たちから少し離れた位置だった。
「いらっしゃいませ」と史桜里は声をかけた。
「ほうじ茶ラテ、アイスで」
「かしこまりました」
山吹はリュックを下ろしながら、もう一度だけ、叶羽たちの方を見た。それからスマートフォンを出した。
史桜里はラテを作りながら、その様子を思い出していた。
あの一瞬の視線。気になっているけれど、近づかない。何かがある、と感じるけれど、自分からは動かない。その距離の取り方が、少しだけ史桜里に似ていると思った。
その日、叶羽が席を立って会計に来た時に、山吹に気づいた。
「あ、こんにちは」
叶羽が挨拶すると、山吹は少し驚いた顔をして、「こんにちは」と返した。
「よく来るんですか、ここ」
「最近、少し」
「わたしも常連で。水嶋叶羽といいます」
「小宮山吹です」
二人は短く挨拶した。叶羽はその後すぐ、「またね」と言って出ていった。
山吹は叶羽が出ていくのを見て、それからまたスマートフォンに目を落とした。
史桜里はカウンターからその様子を見ていた。
叶羽は自然に話しかけた。山吹は自然に返した。でも、その後山吹がスマートフォンに視線を戻す速さが、少し早かった。会話を続けるより、画面の中に戻る方が楽だ、という感じがあった。
山吹が次に訪れた時に、史桜里はラテを運びながら少しだけ話しかけてみた。
「学校、遠いですか?」
「ここから徒歩で十五分くらいです」
「じゃあ近いですね」
「近いんですけど、なんか寄り道したくなる時があって」
「どういう時ですか?」
山吹は少し考えた。
「人と話した後とか。あと、何か考えてる時とか」
「考えてる時に、ここへ」
「うん。静かだから。家だと、なんか集中できなくて」
史桜里は頷いた。それ以上聞かなかった。山吹が話したいことと、話したくないことの境目を、まだ史桜里は掴んでいなかった。でも、今日のこれくらいの距離が、今の山吹にはちょうどいい気がした。
「ゆっくりどうぞ」
「はい」
山吹がスマートフォンで何をしているかがわかったのは、六月に入ったころだった。
史桜里が水を継ぎに行った時に、山吹がキーボードを打つのを止めて、画面を少し傾けた。隠すような動作だったが、それをしたことで史桜里は気づいた。隠したくなる何かを、山吹は画面の中でやっている。
そのまま何も言わなかった。
でも数日後、山吹が会計をしながら、突然打ち明けた。
「小説、書いてます。投稿サイトに上げてるやつ」
史桜里は少し驚いた。
「そうなんですか」
「なんか、バレてる気がしたから」
「バレてた、というか、気になってはいました」
「そうですよね」
山吹は少し苦笑いした。
「あんな隠し方じゃ」
「動画とかイラストも、と聞きましたが」
「それも少し。でも最近は文章が多いです。小説って言えるのかわからないですけど」
「投稿して、読んでもらってるんですか」
「たまに。でも全然、ほぼ誰にも読まれてないですけど」
最後の方だけ、声が少し小さくなった。
「書くのは好きですか?」
「好きです」
山吹はすぐに答えた。迷わなかった。
だが、
「書いてる時は、好きです。でも、それだけで……」
そのあとが続かなかった。
好き、の先にある言葉を、史桜里は無理に聞かなくてもわかる気がした。好きなだけでは届かないことがある。好きだと言ったものほど、うまくいかなかった時に自分の方まで揺らぐことがある。たぶん山吹は、その先を言葉にするのがまだ少し怖いのだ。
史桜里は続きを聞かなかった。
「見せてもらいたい気がします、いつか」
史桜里がそう言うと、山吹は少し間を置いた。
「考えます」
それから何度か来るうちに、史桜里は小宮さんではなく、山吹ちゃんと呼ぶようになっていた。
六月も終わりの方になると、山吹は席を選ぶのに迷わなくなった。注文が少し早くなった。史桜里が声をかけると、以前より自然に返すようになった。
まだ叶羽や拓人とはほとんど話さなかった。たまに顔が合えば挨拶はするが、会話には入らない。向こうの話が聞こえても、スマートフォンの画面から顔を上げないことが多かった。
史桜里はその様子を、少し離れたところから見ていた。
叶羽たちが好きなものについて熱心に話す声が、山吹の席にも届いているはずだった。届いていて、でも山吹は入っていかない。入りたいわけではないのか、入り方がわからないのか、入ることが怖いのか、史桜里には判断できなかった。
ある日、叶羽が「最近、課題でうまくいかなくて」と話しているのが聞こえた時、山吹の手が少しだけ止まった。
止まって、でもすぐに動き始めた。
史桜里はカウンターからそれを見ていた。
聞こえている。聞こえているけれど、聞いていないふりをしている。そういうことだと思った。
その日の夕方、山吹が帰り際に少し史桜里に話しかけた。
「あの人たち、いつも創作の話してますよね」
「よく話してますね」
「わたしも、一応、作ってるわけですけど……」
山吹は少しためらうように言った。
「あんなふうには話せないです」
「どんなふう、ですか」
「自信があるというか。好きなものを好きって、はっきり言える感じ」
史桜里は少し考えてから、言った。
「叶羽さんは、自信があるように見えて、よく落ち込んでますよ」
「そうなんですか」
「落ち込む時は、ちゃんと落ち込む。ただ、好きだということは、落ち込んでいても変わらないみたいで」
山吹は少し黙っていた。
「好きだということは変わらない」
「そう見えます、わたしには」
「わたしも、そうだとは思うんですけど」
山吹はそこで少し口ごもった。
「好きって言うのが怖い時があって」
「なんでですか」
「好きって言ったら、もっとちゃんとしなきゃいけない気がして。でも、ちゃんとできるかわからないから」
その言葉を、史桜里はしばらく持っていた。
自分にも似たようなことがあった気がした。好きだということを認めると、そこから逃げられなくなる。だから好きだと言わないで、なんとなく好きだったとか、前は少しとか、そういう言い方をしてきた。
「ちゃんとできるかどうかと、好きかどうかは、別のことかもしれないですよ」
言ってから、史桜里は少し驚いた。
それは叶羽に言ってもらいたかったことかもしれなかった。
山吹は少し考えてから、「そうですかね」と言った。否定でも肯定でもない返し方だった。でも、何かを受け取った顔をしていた。
「またゆっくり話しましょう」
「はい」
山吹は出ていった。
引き戸が閉まって、店の中がまた静かになった。
史桜里はカウンターへ戻りながら、さっき自分が言った言葉を繰り返した。
ちゃんとできるかどうかと、好きかどうかは、別のことかもしれない。
誰かに言いながら、自分に言っていたかもしれない。そういうことが、最近少しずつ増えていた。
史桜里は黒板を見た。
明日は少し書き直そうと思った。もう七月が近いから、来週には夏のメニューに替えてもよさそうだった。宇治金時のかき氷がそろそろ始まる。書くことは決まっている。あとは、どう並べるか。
そういうことを考えながら、史桜里は今日の片付けを始めた。




