第六章 まだ言えないこと
翌週の火曜日、叶羽は約束通りスケッチブックを持って来た。
いつもと違ったのは、入ってきた瞬間から少し緊張した様子だったことだ。席についてからも、抹茶ラテを頼みながら、鞄の上に置いたスケッチブックを何度か確かめるように触った。
史桜里は注文を受けて厨房へ向かいながら、その様子を横目で見ていた。
見てもらいたい絵がある、とメッセージに書いてきた。楽しみにしている、と史桜里は返した。その約束が今日来た、ということだった。
ラテを作りながら、史桜里は少し緊張していた。自分でも不思議だった。感想を求められているのは史桜里で、絵を見せる側は叶羽なのに、なぜか見せてもらう方が構えている。たぶん、叶羽の絵が史桜里の中で少しずつ大きくなっていたからだと思った。
ラテを運んでいくと、叶羽はスケッチブックをテーブルの上に出していた。
閉じたままだった。
「持ってきました」
「見せてもらえますか」
叶羽は少し息を吸って、スケッチブックを開いた。
史桜里は思わず、少しだけ前に出た。
宇治の風景が、何枚も続いていた。
一枚目は宇治橋だった。朝の光の中で、欄干の影が石畳に伸びていた。影の形が几帳面に描かれているわけではなくて、光と影の境目がやわらかくぼかされていて、それがかえって朝の空気に似ていた。二枚目は川沿いの葦だった。風に揺れているのか、穂先が少し流れている。三枚目は、参道の石畳を歩く人の後ろ姿だった。顔は描いていない。荷物の形と、歩き方の雰囲気だけで、旅の途中の人だとわかった。
それから、店の中の絵があった。
窓際の席から見た参道、テーブルの上に置かれた抹茶ラテのカップ、湯気が細い線で描かれていた。窓ガラスに光が当たっている様子、カップの影の形。どれも、ここから見えるものだった。
「この店で描いたんですね」
「はい。毎回ここに来てたから、自然に」
史桜里はもう一度、カップの絵を見た。湯気の線が、消えそうで消えない感じで描かれていた。こういうものを、叶羽は見ている。史桜里が毎日作っているラテを、こういうふうに見ている。
胸の中に、何かがゆっくりと入ってきた。
「きれいです」
言葉にするとそれだけになってしまったが、それ以上の言葉がすぐには出てこなかった。きれい、というのは正確ではないかもしれない。派手な絵ではない。色も使っていない。でも、見ていると、この店の空気の中にいる気分になった。
「本当ですか」
「はい。見てると、ここの朝の感じとか、光の入り方とか、思い出します」
「思い出す、って言ってもらえると嬉しい。写真じゃないから、そのままには描けないんですけど、残ってる感じがあればいいと思って」
「残ってます。ちゃんと」
史桜里がそう言うと、叶羽は少し、ほっとしたような顔をした。
次のページを叶羽がめくった。
また参道の絵があった。人が歩いている。観光客が多い時間帯なのか、人影が重なっている。でも不思議と、ごちゃごちゃした感じはなかった。
「人、難しいですよね。さっきも人の後ろ姿があって、旅の人だってわかる絵でした」
「顔を描かないのは、誰でもあてはまるようにしたくて。この絵を見た人が、自分もこういうふうに歩いたことがある、って思えたら、と思って」
「この絵を見た人」
「うん。いつか、誰かに見てもらえたら、と思って描いてるんです。今はまだ、学校の先生と、拓人くんくらいしか見せてないですけど」
いつか誰かに見てもらえたら、と叶羽は言った。史桜里には、その言葉が少しまぶしかった。
史桜里はページを眺めながら、自分の頭の中で言葉が動くのを感じた。何かを言いたいような、でもまだ言葉になっていないような。
「叶羽さんは、描き続けてるんですね」
「続けてます。描かないと落ち着かないから」
「描かないと落ち着かない」
「変ですか?」
「変じゃないです」
変じゃない、と言いながら、史桜里には少し遠い感覚だった。描かないと落ち着かない、という状態が、史桜里にはいつの頃からかなくなっていた。好きだったはずなのに、なくても平気になっていた。それがいつのまにかそうなったのか、意識してそうしたのか、もう区別がつかなかった。
昼過ぎに、沢渡さんが来た。
今日はほうじ茶と、水ようかん。六月が近づくと水ようかんが出る。史桜里が「今日は水ようかんですね」と言うと、「そういう気分なのよ」と沢渡さんは返した。
沢渡さんはカウンター席についてから、窓際に叶羽がいることに気づいた。
「あの子、よく来るわね」
「そうなんです、常連になってくれて」
「絵を描いてるの?」
「はい。宇治の風景を」
「まあ、それは素敵ね。描かれる方も嬉しいわ、宇治が好きで来てくれてるわけでしょ」
「そういうことになりますね」
「好きなものって、描いたり書いたり、形にしたくなるのよね。なんでかしら」
沢渡さんは嬉しそうにそう言って、ほうじ茶を一口飲んだ。
「わたしなんかは、好きなものを誰かに話したくなるけど、人によって出し方が違うのよね。史桜里さんは、どういうタイプかしら?」
史桜里は少し考えた。
「わたしは……あまり、うまく出せないかもしれないです」
「そう? 黒板の字とか、あの小さな案内の絵とか、ちゃんと出てるじゃない」
「あれは仕事で」
「仕事でも、出てるものは出てるわよ」
沢渡さんはそう言って、水ようかんに手をつけた。
史桜里は会釈して、カウンターへ戻った。仕事でも、出てるものは出てる。そう言われると、反論できなかった。ただ、史桜里にとっては、仕事の延長と、自分のために何かを作ることの間に、はっきりとした線があった。その線の意味を、今は少しだけ疑っている。
午後の遅い時間、叶羽がスケッチブックをしまって、カウンターへ近づいてきた。
「さっきは見てもらってありがとうございました」
「こちらこそ、見せてもらえてよかったです」
「朝倉さんの感想、嬉しかった。思い出す、って言葉が特に」
「本当のことで」
「わたし、技術的にはまだ全然で。学校でも、うまい子いっぱいいるし、自信なくなることも多くて。だから、見てもらえるかどうか、今日すごく緊張してました」
緊張していたのは自分だけではなかったのだと、史桜里は思った。
「見せてよかったですか?」
「よかったです。朝倉さんに見せてよかった」
叶羽はそう言って、少し笑った。それからふと、思い出したように言った。
「朝倉さんも、昔何か作ってたって、少し言ってたじゃないですか」
「ええ」
「どんなものを作ってたんですか。前に聞いて、うやむやになってしまったから」
史桜里は少し間を置いた。
カウンターの向こうから、叶羽がまっすぐ史桜里を見ていた。ただ、知りたいと思っている目だった。
「紙もの、というか、フライヤーとか、小さな冊子とか。レイアウトを考えるのが好きで、文字と絵が一緒にある紙を作るのが、好きでした」
「好きでした、って過去形なんですね」
史桜里は頷いた。
「今は?」
「今は、あまり」
「なんで」
なんで、という問いは、単純なようで、簡単には答えられなかった。史桜里はカウンターの端に手を置いて、少しだけ考えた。
「うまく続けられなかったので」
「続けられなかった、というのは」
「好きだけでは足りないと思って。それで、やめてしまいました」
言葉にしてみると、思ったより平坦な声が出た。ずっと胸の中にあったことなのに、それはやけにあっさり口からこぼれた。
叶羽はしばらく黙っていた。
「それ、わかります。わかるというか、怖い、という感じで。わたしも、好きなだけじゃ足りないのかもって、時々思う」
「叶羽さんは、続けてますよね」
「続けてるけど、自信があるからじゃないです。続けないと、もっと怖くなる気がして。止まると、戻れなくなる気がして」
止まると、戻れなくなる気がして。
その言葉が、史桜里の中でゆっくりと広がった。
史桜里は止まった。だから、今ここにいる。
それを叶羽に言うことはできなかった。でも、叶羽の言葉は史桜里の止まっている部分に、静かに触れた。
「……そうかもしれないですね」
「朝倉さんも、また何か作ってみたいとは思わないですか」
思う、と言いそうになった。
その言葉が、のどのあたりまで来た。
でも出てこなかった。
「今さらかもしれないですし」
「今さらって、朝倉さんまだ二十四じゃないですか」
「叶羽さんより四歳上で」
「四歳くらい、全然今さらじゃないです」
叶羽はそう言って、少し眉を寄せた。怒っているわけではなくて、本気で言っている顔だった。
史桜里はそれ以上言えなかった。叶羽の言葉を否定する言葉が、出てこなかった。
「また話を聞かせてください。全部じゃなくていいから」
「はい」
史桜里は頷いた。
夕方近く、引き戸が開いた。
史桜里が振り向くと、制服姿の女の子が入ってきた。
紺のスカートに、白いブラウス。夏服に替わりはじめた時期らしい制服姿だった。肩にリュックを提げていて、手には何も持っていない。入ってきて、店の中を一度見回した。その目が、どこに座ればいいかを探しているようでもあり、ここに入ってよかったのかを確かめているようでもあった。
史桜里は声をかけた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか」
「あ、はい」
女の子は少し驚いた顔をした。自分から来たのに、声をかけられると驚くのは、まだ喫茶店に慣れていないからかもしれない。
「どこでもお好きな席へどうぞ」
女の子は少し迷ってから、カウンターから離れた壁際の席に座った。
肩の下で切りそろえた黒髪は制服によく馴染んでいて、華やかというより大人しい印象の子だった。小柄で、目立つつもりはなさそうに座っているのに、伏せた目元の涼しさのせいか、ふと視線が留まる。まだあどけなさの残る顔立ちに、無理に大人びようとしていない感じがあった。
隅の方で、あまり目立たない席だった。リュックをひざの上に置いて、メニューを手に取った。
史桜里は少し間を置いてから、水を持って近づいた。
「ご注文は決まりましたか」
「ほうじ茶ラテ、ください。アイスで」
「かしこまりました」
水を置いて厨房へ向かいながら、史桜里は女の子の様子をさりげなく確認した。リュックの中からスマートフォンを出して、画面を見ていた。それだけだった。何か特別なことをしているわけではなかったけれど、少しだけ、居心地悪そうにしているような気がした。
座り方が少し固い。スマートフォンを見ているようで、見ていないようにも見える。
ほうじ茶ラテを作りながら、史桜里はそのことを考えた。考えすぎかもしれない。ただ、お客さんの様子の小さな違和感に気づく癖は、一年半の仕事の中でついていた。
ラテを運んでいくと、女の子はスマートフォンを鞄に入れていた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
短い返事だった。史桜里が離れようとすると、女の子がぽつりと言った。
「このお店、入りやすいですね」
史桜里は少し立ち止まった。
「ありがとうございます」
「なんとなく入ってみました」
「また来てください」
「はい」
女の子は短く答えた。それからほうじ茶ラテを一口飲んで、「美味しい」と言った。独り言のような、でも史桜里に向かって言ったような声だった。
「ありがとうございます」
史桜里は会釈して、カウンターへ戻った。
壁際の席の女の子は、またスマートフォンを出した。今度は画面を少し熱心に見ているようだった。何かを読んでいるのか、動画を見ているのか、史桜里の位置からはわからなかった。
叶羽はそろそろ帰る時間だった。会計を済ませながら、「また来ます」と言って出ていった。
店の中が少し静かになった。
沢渡さんはとっくに帰っていた。観光客も、今日は早めに引いていた。壁際の席の女の子だけが、一人で座っていた。
史桜里はカウンターを拭きながら、その女の子を視界の端に入れていた。
特に何かがあるわけではない。ただ、この子には、少し何かがあるような気がした。
気のせいかもしれない。でも、史桜里はそういう気配に気づく方だった。
佐伯が厨房から出てきて、カウンターを確認すると、
「あの子も、常連になりそうか」
と小声で尋ねた。
「なると思います」
「地元の子か」
「たぶん、そうだと思います」
佐伯は特にそれ以上言わなかった。厨房へ戻りながら、「もうすぐ閉めるから、声かけとけ」と言った。
「はい」
史桜里は壁際の席へ向かった。
女の子はスマートフォンを鞄にしまったところだった。史桜里が近づくと、顔を上げた。
「閉店のお時間が近くなってまいりまして」
「あ、すみません。出ます」
慌てた様子で立ち上がろうとするのを、史桜里は「もう少し大丈夫ですよ」と言って止めた。
「十分ほどあとで、また声をかけます」
「ありがとうございます」
女の子は少し、緊張が解けたような顔をした。
史桜里は戻りかけて、ふと振り返った。
「よかったらまた来てください。学校帰りに、気が向いたら」
女の子は少し間を置いてから、「はい」と答えた。
今度の返事は、さっきより少しだけ柔らかかった。




