第五章 夕暮れの宇治川
ある日の午後、史桜里は早めに上がった。
団体の予約が午前で終わり、昼過ぎからは客足が緩やかになって、佐伯が「今日はいい、上がれ」と言った。理由はそれだけで、特別なことは何もなかった。こういう日が月に何度かある。
着替えて勝手口を出ると、五月の午後の光が石畳の上に落ちていた。
どこへ行こうか、とは特に考えなかった。足が自然に、宇治川の方へ向かった。
川沿いの道へ出る。
観光客は平等院の方に多くて、この辺りは少し静かだった。川の音がある。水が石に当たる音と、流れていく音が混ざって、遠くで鳥が鳴いている。葦が風に揺れていた。五月の宇治川は、緑と水の色が重なって、見ているだけで目が落ち着いた。
史桜里は川沿いのベンチに腰をおろした。
鞄をひざの上に置いて、川の方を見た。
水面に光が砕けていた。叶羽が描いていた絵のことを、ふと思った。あの絵は、こういうものを見て描かれたのかもしれない。白く残した部分が、今の川面の光に似ていた。
叶羽は毎朝早く来て、スケッチブックを開く。
そういう人が、世の中にはいる。
史桜里にも、そういう時期があった。
朝の電車に乗るのが、少しだけ好きだった時期がある。
まだ就職のことを、現実としてうまく考えきれていなかったころだ。大学へ向かう電車の中で、史桜里は膝の上のトートバッグにノートパソコンを入れていた。授業の空き時間に開くつもりで、前の夜に作りかけのデータを保存して、充電が足りているかだけ確認して眠る。そういうことを、当たり前みたいにしていた。
その頃の史桜里は、何かを作るために時間を使うことを、まだ特別なことだと思っていなかった。
課題ではない冊子の台割を、授業中にこっそりノートの端へ書きつける。サークルの先輩から預かった文章を、どういう順番で置けば読みやすいか考える。写真が多いページは文字を減らした方がいいとか、見出しは少しだけ細い方が余白がきれいに見えるとか、そういうことばかり考えていた。
最初は、ただ頼まれたからだった。秋の学園祭で配る小さな冊子を作る係が空いていて、たまたま手を挙げただけだった。レイアウトソフトの使い方もよくわからず、先輩が作った去年のデータを開いて、見よう見まねで触った。見出しの大きさを変えて、行間を少し詰めて、写真の位置を一センチ動かしてみる。そのたびに画面の中の紙が少しずつ整っていくのが、不思議なくらい楽しかった。
「そんなに変わる?」
隣で原稿を見ていた友人に言われたことがある。見出しを二ポイント下げて、余白を少し広くしただけの時だった。ぱっと見ではほとんど違わない。けれど史桜里には、その違いで息のしやすさが変わる気がした。
「変わるよ」
その時は、迷わずそう言えた。
文章を書く人、写真を撮る人、イラストを描く人。みんなが持ち寄ったものを、一枚一枚の紙の上に置いていく。どこに何を置けば、ちゃんと届くだろうと考える。その作業が好きだった。自分が何かすごい表現をしているというより、誰かの作ったものが一番自然に見える位置を探している感覚だった。
印刷が上がった日のことも覚えている。
刷りたての冊子は、少しだけ紙の匂いがした。インクの匂いと、裁断された紙の乾いた匂いが混ざっていた。表紙をめくると、自分が夜中まで直していた余白や線が、そのままそこにあった。画面の中で見ていたものが、ちゃんと手に持てる形になっている。そのことがただ嬉しくて、史桜里はしばらく一人で何度もページをめくった。
ああいう瞬間だけで、続けていける気がしていた。
もう少し、ちゃんとやりたいと思うようになったのは、そのあとだった。
大げさな夢ではなかったと思う。世界が変わるような何かを作りたいとか、名前が売れたいとか、そういうことではなかった。ただ、紙の上で人に届く形を考えることを、これからも続けたいと思った。フライヤーでも、小冊子でも、店の案内でも、何でもよかった。文字と絵と余白が一緒にあるものを、もっときれいに作れるようになりたかった。
だから就職活動が始まった時、自然とそういう仕事を探した。
説明会で、ポートフォリオが必要ですと言われた。作品集。自分が何を作ってきたかを見せるためのもの。史桜里は頷きながら話を聞いて、その日の帰りに新しいフォルダを作った。ポートフォリオ用、という味気ない名前のフォルダだった。
最初は少し楽しかった。過去の冊子データを引っ張り出して、よかったページを選ぶ。見せ方を考えて、並べ直して、簡単な説明文をつける。画面の中に、自分が作ってきたものが集まっていく。その感じは、たしかに嫌いではなかった。
でも、途中から少しずつ変わった。
好きで作っていた時は、直したい場所があっても、それはもっと良くしたいという気持ちだった。ポートフォリオになった途端、それが足りないところを探す目に変わった。見出しの処理が甘い。写真の使い方が単調。レイアウトに冒険がない。説明文が弱い。そういうことばかり、先に見えるようになった。
友人の作品を見るのも、少し苦しくなった。
同じ授業を受けていた子のポートフォリオは、洗練されて見えた。線の引き方が迷いなくて、色の置き方がうまくて、見せたいことが最初からわかる気がした。比べたくないのに比べてしまう。自分の画面に戻ると、急に全体が平たく見えた。
何が悪いのか、言葉にできるほどはわからない。けれど、何かが足りない感じだけははっきりしていた。
一社目に出した時は、まだ大丈夫だった。結果が来なくても、そういうこともあると思えた。二社目で落ちて、三社目で書類が通らなかったころから、少しずつ呼吸が浅くなった。直そうと思ってファイルを開くたび、前の自分なら気にしなかったはずの粗さばかり目につく。
もっとちゃんとしたものを作りたかった。
その気持ちは本物だったのに、ちゃんとしたものが何かは、だんだんわからなくなっていった。
夜、ノートパソコンを開いて、同じページを何度も見比べる。見出しを少し下げる。写真を数ミリ動かす。余白を増やす。元に戻す。別のフォントを試す。また戻す。そういうことをしているうちに、最初に何を良いと思っていたのか、自分でもわからなくなった。
気がつくと、完成させるより直す時間の方が長くなっていた。
面接で聞かれたことも、うまく答えられなかった。
「どういうものを作りたいですか?」
たぶん、普通の質問だったのだと思う。なのに、その時の史桜里には答えが薄っぺらく聞こえた。人に届くものを、という言い方も、誰かの魅力が自然に伝わる形を、と言い換えたことも、口にした瞬間に借り物みたいに思えた。緊張していたのもある。けれど、それだけではなかった。好きだったはずのことを、自分の言葉で言えなくなっている感じがあった。
何が駄目だったのか、最後までよくわからなかった。
誰かに強く否定されたわけではない。ひどいことを言われたわけでもない。ただ、結果が返ってきて、直して、また出して、また返ってきて、そのたびに少しずつ、自分の感覚を信じにくくなった。好きでやっていたはずの作業を、画面の前で苦しい顔をしてやるようになっていた。
それで、ある時から開かなくなった。
今日は疲れているから、明日やろう。そう思った日があった。次の日も少し気が重くて、別のことをした。その次には短期のバイトが入って、気づけば一週間くらい触っていなかった。久しぶりにファイルを開いた時、画面に並んだページを見て、史桜里は最初に思った。
あ、もうわからない。
どこを直したかったのか。何が良かったのか。何を見せたかったのか。その全部が少し遠かった。
それでもデータは消せなかった。消すほどきっぱり終われてもいなかったからだ。ただ、フォルダの名前だけが、ノートパソコンの中に残った。
ベンチの前を、自転車が一台ゆっくり通っていった。
史桜里はそこで息をついて、今の川を見た。水は変わらず流れていて、さっきから同じように見えるのに、光の位置だけが少しずつ動いている。回想に沈みすぎていたことに気づいて、肩の力を抜いた。
あの頃のことを思い出すと、今でも少しだけ喉の奥が詰まる。
大きな傷ではない。誰かに説明しづらい種類の、うまく名前のつかないつまずきだ。だから余計に、自分の中だけで固まってしまったのかもしれない。
しばらく川を見てから立ち上がり、史桜里は参道の方へ戻った。
観光客の波は少し落ち着いていて、土産物屋の前には抹茶菓子の試食皿が並んでいた。店先のラックに観光案内の小さな紙が立てられている。平等院、宇治上神社、源氏物語ミュージアム。やわらかい色の地図に、散策の目安時間や、おすすめの回り方がまとめられていた。
史桜里は足を止めて、その一枚を何気ない顔で手に取った。
紙は少し厚めで、表の文字は読みやすかった。見出しの色分けもわかりやすい。地図の線は細すぎず、でもごちゃついていない。観光客が歩きながらぱっと見ても迷わないように、たぶんかなり考えて作られている。
そう思ったところで、自分が紙の端や余白の取り方を見ていることに気づいた。
もう関係ないと思っていたのに、こういうものは今でも見てしまう。
隣の店の手描きポップにも目が行った。抹茶生どら焼き、新茶入荷しました、と丸い字で書かれていて、小さな茶葉の絵が添えてある。上手いとか下手とかではなく、その店らしい温度がちゃんと出ている字だった。
史桜里は案内の紙を元の場所へ戻した。
戻してから、また少しだけ見た。
好きだったものが、なくなったわけではないのだと思う。ただ、手を伸ばすほどの勇気がないだけで、見れば気になるし、良いと思えば立ち止まる。それを認めるのが少しだけ苦しい。
川の方から風が吹いた。茶葉と水の匂いが、ほんの少し混じっていた。
史桜里は肩にかかる髪を押さえて、参道をゆっくり歩き出し、もう一度川沿いへ向かった。
川沿いを歩く人が通り過ぎた。
カメラを首から提げた男性と、その隣に女性がいた。二人で何かを話しながら、川の方へ目を向けて、また話していた。旅の途中のような雰囲気だった。
史桜里はその二人の後ろ姿を見ていた。
誰も悪くなかった、と思っている。
落とした会社が悪かったわけでも、才能がなかった自分が悪かったわけでも、たぶんない。ただ、その時の自分には、続けるための何かが足りなかった。それだけのことだ。
完全に終わった話のように扱っているのに、完全には終わっていない感じが、どこかにある。
川の音が続いている。
史桜里はしばらく、ただそれを聞いていた。
考えすぎない方がいい、とは思っている。今の仕事は好きだし、店が好きだし、宇治が好きだ。それは本当のことだ。毎朝黒板を書くことも、お客さんと少し話すことも、佐伯の短い言葉を受け取ることも、全部好きだ。
ただ、好きだと思うたびに、何か別のものが隣にある。
落ち着かない、というのとも少し違う。足りない、というのとも違う。何かが止まったままで、でもそれが止まっていることに、今まであまり向き合ってこなかった。
叶羽が毎朝川沿いを歩いて、スケッチブックを開く。拓人が方眼紙のノートに図を書きながら、ゲームの設計を考える。
そういう人たちが、目の前に来た。
それだけのことなのかもしれない。ただ、それだけのことが、少しずつ史桜里の中の何かを動かしている気がした。
スマートフォンが振動した。
画面を見ると、叶羽からメッセージが来ていた。
連絡先を交換したのは先週のことだった。叶羽が「また感想聞かせてください」と言いながら、自然な流れで交換した。拓人とは、叶羽経由でつながっている。
メッセージを開いた。
『朝倉さん、今日お休みですか? 今度、見てもらいたい絵があるんです。よかったら、次来た時に』
史桜里は川の方を見て、またスマートフォンを見た。
見てもらいたい絵がある。
叶羽は、誰かに見せることを怖がっていない。拓人は、こわいと言いながらも作り続けている。二人とも、史桜里には持っていないものを持っていた。
史桜里は返信を打った。
『もちろんです。楽しみにしています』
送信して、スマートフォンをしまった。
本当のことを書いた。楽しみにしている、は本当だった。同時に、少しだけ、何か別のものも混じっていた。うまく言えないそれが何かは、まだわからない。
夕方になると、川の光が変わった。
傾いた日が川面を橙色に染めて、水の色がまるで違うもののようになった。石に当たって砕ける部分だけが白く光って、それ以外はゆっくりと色を深めていく。
叶羽が描きたいと思うのは、こういうものなのかもしれない、と史桜里は思った。
古いものと新しいものが混ざっている感じ、と叶羽は言った。時間が層になって積み重なっている感じ、とも言った。宇治川はずっとここを流れていて、橋はかけ替えられて、岸の葦は毎年繰り返し茂って、それでも川の音は変わらない。そういうことを、叶羽は絵にしようとしている。
史桜里には、そういうものを作りたいという気持ちが、今もあるのだろうか。
形はわからないけれど、何かを作りたいという感覚は、完全には消えていなかった。ただ止まっていただけで、なくなったわけではないのかもしれない。そう思うのは希望的観測なのかもしれないし、本当のことなのかもしれない。
どちらかは、まだわからなかった。
橋を渡りながら、欄干から川を見た。夕方の光の中で、水面がゆっくりと動いていた。
しばらくそこに立っていた。
特に何かを考えていたわけではなかった。ただ、川を見ていた。こういう時間が、宇治に来てから増えた気がする。何かをするわけでもなく、ただ景色を見ている時間。それが好きだということを、史桜里は最近になって気づいた。
見ている、ということが、何かの始まりに似ているのかもしれない。
そう思ったけれど、それ以上は考えなかった。
橋を渡り切って、参道の方へ向かった。夕方の宇治は、観光客が引いて、地元の人の時間になっていた。自転車が通り過ぎた。犬を連れた老人が歩いていた。土産物屋が店先の暖簾を外していた。
史桜里はその中を歩きながら、明日の朝の黒板のことを考えた。
五月になったから、少し変えてもいいかもしれない。藤の花がそろそろ咲くと聞いていた。平等院の藤棚が見頃になると、また客足が増える。そういう季節のことを、黒板の文字に入れてみようか。
考えながら歩いていると、気持ちが少し落ち着いた。
明日、また店を開ける。それでいい。今はそれだけのことでいい。
史桜里は歩き続けた。参道の石畳が、夕暮れの光の中で、やわらかく光っていた。




