第四章 好きなものの話をしよう
五月に入ると、参道の緑が濃くなった。
四月の薄い萌黄色が、気づけばしっかりとした葉の色になっていて、宇治橋の欄干越しに見える川沿いの木々も、光を受けてつやつやと光っていた。観光客の服装が少しずつ軽くなって、半袖の人も混じりはじめる。
叶羽は相変わらず、週に何度か来た。
拓人は叶羽と一緒に来ることもあれば、一人で来ることもあった。一人のときは茶そばかほうじ茶を頼んで、トートバッグからノートを出して、何かを書いていた。叶羽のスケッチブックとはまた違う、方眼紙のノートだった。史桜里はそれが何のノートか聞かなかったが、ぱらりと開いたページに図のようなものが見えたことがあった。
今日は二人一緒に来た。
窓際の席が空いていて、叶羽はいつものように迷わずそちらへ向かった。拓人は今日は壁側に座った。外より内側の方が落ち着くらしく、一人で来る時もカウンター寄りの席を選ぶことが多かった。
「抹茶ラテ、ホットで」
「茶そばと、ほうじ茶で」
史桜里は注文を受けて厨房へ向かった。
今日は佐伯が仕込みをしていて、厨房の中は抹茶の粉の香りがした。史桜里はラテの準備をしながら、店内の二人の声が薄く聞こえてくるのを聞いていた。
忙しい時間が過ぎて、午後の中ごろになると、店の中は落ち着いた。
観光客の出入りが緩くなる時間帯だ。史桜里は拭き掃除を済ませ、翌日の仕込みを少し手伝い、手が空いたのでカウンターの端で在庫のメモを整理していた。
叶羽と拓人の会話が、もう少しはっきりと聞こえてきた。
「面白いってどういうことだと思う?」と拓人が言っていた。
「面白いは、面白いでしょ」と叶羽が答えた。
「それじゃ定義にならない」
拓人はほうじ茶の湯気の向こうで少し笑った。
「定義しなくてもわかるでしょ、面白いかどうかくらい」
「わかる時はわかるんだけど、作る側にいると、それだけだと困る場面がある。自分が面白いと思って作ったものが、人に届かない時があるから」
「それは表現の問題じゃないの」
「表現の問題でもあるし、設計の問題でもある」
拓人はそこで少し言葉を整えるように間を置いた。
「伝えたいことと、伝わることって、少しずれるんだよね。その差を小さくするのが技術で、でも差がゼロになることはたぶんない。だから、何を残してよくて何を削るかの判断が必要になる」
「削る、かあ」
叶羽はペンを止めた。
「わたし、削るの苦手」
「わかる。好きなもの全部入れたくなる」
「入れちゃいけないの?」
「入れてもいいけど、その分、見る人の負担が増える。負担が楽しさに変わる場合もあるし、ただ疲れさせる場合もある。どっちになるかは、やってみないとわからないことが多い」
史桜里は手を動かしながら、その会話を聞いていた。
削る。設計。伝わることと伝えたいことのずれ。
黒板を書くときのことを、史桜里はふと思った。メニューの文字を並べるとき、何を大きくして何を小さくするか、どこに余白を置くか、そういうことを史桜里は考えながら書いていた。言葉にしたことはなかったけれど、やっていることの輪郭が、拓人の言葉で少しだけ見えた気がした。
「でも、削ることって、諦めることと違うよ」
拓人はそう言って、話を続ける。
「全部見せたいから、見えやすい順番にする、みたいな感じで考えると少し楽になった」
「見えやすい順番」
「そう。どこから見てもらって、次にどこへ目が行くか。絵でも、文字でも、ゲームでも、たぶん共通してる」
叶羽はしばらく黙っていた。
ペンを持ったまま、窓の外を見ている。それから、「拓人くんって、どこでそういうこと考えるようになったの」と尋ねた。
「自分の作ったゲームが全然面白くなかったから」
「面白くなかったって、自分で思ったの?」
「人に見せて言われた。やんわりと、でもはっきりと」
「それは……つらかったね」
「つらかった。でもそれで考えるようになったから、必要なことだったと思う。今も」
「今も面白くない?」
「今も自信はない。ただ、理由がわかるようになってきた気がするから、少しましになってる」
史桜里はメモを書き終えて、カウンターを整えた。
話を聞きながら仕事をしているのは、自分のためでもあった。別に盗み聞きをしているつもりはなく、小さな店の中では会話は自然に届いてしまう。それに、この二人の話は聞いていて不思議と疲れなかった。大げさでも、自慢でも、愚痴でもない。ただ、好きなものについて、真剣に話している。
史桜里は水差しを持って、二人のテーブルへ向かった。
「お水、いかがですか」
「ありがとうございます」
叶羽はお礼を言い、拓人は「いただきます」と言って、グラスを少し引き寄せた。
史桜里がグラスに水を注ぎながら、拓人のノートが少しだけ見えた。図と文字が混在していた。フローチャートのような、でもゲームの画面設計のようでもある何かだった。
「ゲームを作ってるんですか」
拓人はノートを見てから、史桜里を見た。
「見えましたか。そうです、個人制作で小さいゲームを」
「すごいですね」
「全然すごくなくて、まだ形にすらなってないんですけど」
「でも、こういうの書きながら考えてるんですね」
「設計が好きで。絵を描いたり音を作ったりは得意じゃないので、構成のところを考えることが多くて」
「ゲームって、そういうところから作るんですね」
「人によって違うと思いますけど、僕は物語の骨格とか、プレイヤーがどう動くかとか、そういうのを先に考えないと不安になる」
「拓人くんは几帳面だから」
叶羽の突っ込みに、
「几帳面じゃなくて、不安なだけです」
拓人はそう返して、少し笑った。史桜里もつられて少し笑った。
水を置いて戻ろうとしたとき、叶羽がスケッチブックを史桜里の方へ向けた。
「今日描いたの、見てもらえますか」
宇治川の水面だった。
波紋のような模様ではなく、光が川の上で砕けて、細かい線になって広がっていくような絵だった。岸の葦が少しだけ描き込まれていて、それ以外は余白が多い。引き算で作られた絵だ、と史桜里は思った。
「きれいですね」
「今日の朝、橋の上から描いたんです。朝の川、光の入り方がよくて」
「光のここのところ」
史桜里は絵の一部を指した。
「白く残してあるところ、川面の光みたいで」
「そこ、難しくて。どこまで描いて、どこから残すか、毎回悩むんです」
「でも、ちょうどいいと思います」
叶羽は少し嬉しそうにした。それから拓人の方を向いた。
「拓人くんも見て」
「見てた。朝倉さんが言った通りで、余白の取り方がいいと思う。余白を意識するようになったんじゃない、最近」
「意識というか、なんとなく」
「なんとなく、が出てきてるからいいんだよ」
叶羽はスケッチブックを引き戻して、また眺めた。満足しているわけでも、不満なわけでもない顔だった。作ったものを見る人の顔というのは、こういう感じなのかもしれない、と史桜里は思った。
史桜里はカウンターへ戻った。
そのあとしばらく、二人の話は続いた。
京都アニメーションの作品のこと。ニンテンドーミュージアムのこと。ゲームのキャラクターのデザインと、物語の設計がどう関係するか。好きなアニメ映画や、アニメソングの話など。
史桜里は仕事をしながら、ぼんやりとそれを聞いていた。知らない固有名詞も多かったが、会話の質感はわかった。好きなものを真剣に話す人たちの声は、どこか音が違う。
宇治は、京都アニメーションや任天堂に縁のある土地でもあるせいか、そうした作品を好きな人たちが店を訪れることもある。
好きな作品について語り合う声を、史桜里はこれまでにも何度か聞いてきた。そういう時間は嫌いではなかった。
けれど、叶羽と拓人の話は少し違った。好きな作品の話だけではなく、自分たちが何を作りたいのか、どうすれば届くのか、迷いや言葉の選び方まで混じっていた。だからこそ、史桜里にはその会話が、いつもより深く耳に残った。
しばらくして、拓人がふとした調子で言った。
「朝倉さんも、そっち側にいたことありますよね」
史桜里は手を止めた。
拓人は史桜里の方を見ていた。責めているわけでも、探っているわけでもない、ただ気づいたから口にしたような、そういう顔だった。
「黒板の話を聞いてて。伝え方の話を、ちゃんとわかって聞いてたから」
「そっち側というのは」
「何かを作ることが好きだった、という意味で」
史桜里は少し間を置いた。
「……前は、少し」
「やっぱり」
叶羽が史桜里を見た。拓人も史桜里を見ていた。二人の目が、同じ方向から来ていた。史桜里はそれが少し、こわかった。
こわい、というのは、嫌だということではない。ただ、何かが開きそうな気がして、今はまだその準備ができていないような、そういう感じだった。
「今は、店の仕事の延長で、なんとなく書いたり描いたりするくらいで」
「なんとなくで、あれだけのものが出てきてるんですよ。前は、どんなことをしてたんですか?」
拓人が尋ねた。
「たいしたことじゃないです」
「聞いてみたいです」
叶羽も言う。
そこで、引き戸が開いた。
新しいお客さんが入ってきた。二人組の観光客で、メニューを見ながら何にしようかと話していた。
「少し待ってください」と史桜里は言って、お客さんの方へ向かった。
注文を受けて、厨房へ入って、ラテを作りながら、史桜里は少し息を整えた。
前は、どんなことをしてたんですか?
答えられないわけではなかった。絵を描いていたこと、レイアウトを考えることが好きだったこと、冊子やフライヤーのようなものを作ることに夢中だったこと。それは事実だ。
ただ、その話には続きがある。
続きの方を話すのが、まだうまくできない気がした。
ラテを運んでいくと、叶羽と拓人はまた別の話をしていた。
史桜里が席を離れたことで、話題が変わったようだった。今は叶羽が課題の締め切りのことを言っていて、拓人がそれを聞いていた。
史桜里はラテを置いて、少しほっとした。
それから、少し残念に思った自分に気づいた。
残念、というのは変な気持ちだった。話したくないと思っていたのに、話す機会がなくなったことを惜しんでいる。自分でもよくわからなかった。
「朝倉さん」
叶羽が呼んだ。
「はい」
「また聞かせてください、前の話。今日じゃなくてもいいので」
史桜里は少し考えて、「はい」と答えた。
今日じゃなくてもいい、と言ってくれたことが、どこかやさしかった。
閉店後、佐伯が茶葉の在庫を確認しながら、「今日は長かったな」と言った。
「そうですね、五時過ぎまでいらっしゃいました」
「常連になった感じか」
「そうみたいです」
佐伯は在庫のメモを手にしたまま、少し間を置いた。
「賑やかになったな、最近」
「賑やか、ですか?」
「うるさいとかじゃない。話してる声がある方が、店がちゃんとしてる感じがする」
史桜里はその言葉を聞いて、今日の会話を思い出した。面白いとはどういうことか、伝わることと伝えたいことのずれ、削ることと諦めることは違う。そういう言葉が、今日この店の中にあった。
「そうですね」
「朝倉も話してたな」
「少しだけ」
「ええことじゃないか」
それだけ言って、佐伯は厨房へ戻った。
史桜里はエプロンを外しながら、今日の自分を思い返した。拓人に「そっち側にいたことありますよね」と言われた時の、あの一瞬の戸惑いを。
そっち側。
前は、少し。そう答えた自分の声が、まだ耳の中にあった。
嘘ではなかった。でも、本当のことを全部言ったわけでもなかった。
まだ言えないことがあるのは、わかっている。ただ、今日初めて、言えないことがあると自分で認めた気がした。それがどういう意味を持つのかは、まだわからなかった。
史桜里は戸締まりを確認して、勝手口から出た。
五月の夜は、四月よりすこしだけ温かかった。参道の石畳が、街灯に照らされて光っていた。
好きなものの話をしていた人たちの声が、静かな夜の参道には、もうどこにもなかった。




