第三章 よりみちする人たち
四月の終わりの方になると、遠足や修学旅行のシーズンが本格的に始まった。
午前中から参道は生徒たちの声で満ちた。紺や白の制服が群れになって動いていく。引率の先生が先頭に立って、「ここで集合、十一時半ね」と言う声が、開いた引き戸から聞こえてくる。
茶房「よりみち」の中も、いつもより少しにぎやかだった。
平等院の見学を終えた生徒が数人でふらりと入ってきて、「抹茶ソフトってありますか」と聞く。ないと答えると少し残念そうにしながら、それでも「じゃあこれ」とほうじ茶プリンを指差す。選んだものを持ってSNSに上げるのか、カップをきれいに並べて写真を撮っている。史桜里はそれを眺めながら、水を継ぎ足した。
「今年の子たちも元気やねえ」
入り口近くのカウンター席から、沢渡慶子が言った。
今日も来ていた。ほうじ茶と、季節の柏餅。それが今日の沢渡さんの選択だった。年配のお客さんの中には、毎回おなじものを頼む人と、毎回違うものを選ぶ人がいる。沢渡さんは、その日の気分で変わるらしい。「柏餅は五月が近づいてこないと食べたくならないのよ」と前に言っていた。今日は食べたい気分だったということだろう。
「毎年来ますからね、修学旅行」
「そうよ。わたしが小さい頃も、よその学校の子たちが参道を歩いてたわ。宇治はずっとそういう町なのよ」
沢渡さんは柏餅をひとつ口に入れた。上品な食べ方だった。
「でも、来る子たちの様子は変わるわよね。昔はみんな集団でかたまって歩いてたけど、今はバラバラに動いてて。写真の撮り方も変わって。スマホになってから、みんなよく撮るようになったわ」
「そうですね。写真を撮るために来る方も増えて」
「それはそれでいいと思うけどね。この町、きれいやし。撮りたくなる気持ちはわかるわ」
沢渡さんはそう言って、ほうじ茶を一口飲んだ。
史桜里はカウンターを拭きながら、沢渡さんの話を聞いていた。こういう会話が、史桜里は好きだった。教えてもらっている、という感じでも、説教を受けている、という感じでもなく、ただ隣で誰かが宇治のことを話している。それが自然に耳に入ってきて、史桜里の知らなかった層が少しずつ積み重なる。
「沢渡さんは、ずっとこのあたりにお住まいなんですか?」
「そうよ。生まれてからずっと宇治。どこにも行かずにいたら、いつの間にかこんな年になってたわ」
沢渡さんは少し笑った。自嘲ではなくて、事実としての笑いだった。
「どこにも行かなかった、って言うと後悔みたいに聞こえるかしら。でもそういうわけじゃなくて。ここで全部あったから、ここでよかったのよ。宇治橋が見えて、季節が変わって、平等院の鐘が聞こえて。わたしにとっては、それで十分なの」
「素敵ですね」
「そう? 史桜里さんはどこから来たの」
「滋賀です。大学が京都で、卒業してからこちらに」
「じゃあ宇治は長くないのね」
「一年半くらいです」
「もう馴染んでる?」
史桜里は少し考えた。
「たぶん、馴染んでます。好きな場所ができましたし」
「それでいいわよ。町って、長く住んでるかどうかより、ちゃんと見てるかどうかで変わるから。史桜里さんはちゃんと見てる人だから、大丈夫よ」
沢渡さんの大丈夫、という言葉がどこへかかっているのかよくわからなかったけれど、史桜里は「ありがとうございます」と返した。
昼を過ぎて、団体の波が引いたころ、店の中は少し落ち着いた。
史桜里は賄いを食べながら、厨房の隅で佐伯と短く言葉を交わした。午後の仕込みのことと、週末の予約の確認だけ。それだけでよかった。佐伯はいつも、必要なことだけを言う。それに慣れてから、沈黙が怖くなくなった気がする。
「今日は昼が多かったな」
「そうですね。団体が二組、かぶってしまって」
「次からずらしとく」
「はい」
佐伯は立ったまま、賄いの残りを食べた。食べながら何かを考えているようにも見えるし、ただ食べているだけにも見える。史桜里にはまだ、その区別がつかないことがある。
「店長は、宇治の出身なんですか?」
唐突な質問だったかもしれない。佐伯は少し間を置いた。
「そうだ。生まれも育ちも宇治」
「じゃあ沢渡さんとは昔から」
「沢渡さんは親の代からの常連だ。うちの親父のころから来てくれてる」
それだけ言って、佐伯はまた食べた。
この店が二十年の歴史を持っていること、その前に佐伯の父親が店を始めたことを、史桜里は沢渡さんから聞いていた。佐伯自身からそういう話が出ることは少なかった。
「店を継いだのは、何かきっかけがあったんですか?」
「そんなようなもんだ」
短く、でも否定はしなかった。
史桜里はそれ以上聞かなかった。佐伯が話したいことと、話したくないことの境目を、史桜里はだいたいわかるようになっていた。
午後三時を過ぎたころ、二人連れの客が入ってきた。
一人は叶羽だった。今日は来ないかと思っていたから、史桜里は少し驚いた。叶羽はいつものようにスケッチブックを抱えていたが、今日はもう一人いた。
連れの方は男性で、叶羽よりいくらか背が高く、落ち着いた雰囲気があった。紺のパーカーを着て、肩にトートバッグを提げている。年齢は二十歳そこそこだろうか。表情が穏やかで、店に入るなり、さりげなく室内を見回した。観察するように、でも気取らずに。
細身で、肩の力の抜けた立ち方をしているのに、どこか隙なく見える人だった。目元はやわらかいが、視線の置き方が落ち着いていて、店の中のものを順番に確かめているようにも見える。きつさのない、落ち着いた知性が顔全体ににじんでいた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。いつものところ、いいですか」
「どうぞ」
二人は窓際の席へ向かった。叶羽はいつもの流れで、自分の席に座った。連れの青年は向かいに腰を落ち着け、バッグをテーブルの横に立てかけた。
史桜里は注文を取りに行った。
「抹茶ラテ、ホットで」
叶羽はそう伝えてから連れの方を見て、話しかけた。
「何にする?」
「茶そば、ありますか」
青年がメニューを見ながら尋ねた。
「はい、ございます」
「じゃあそれで。あと、ほうじ茶を」
「かしこまりました」
史桜里が下がろうとすると、青年が黒板の方を見ながら「ここ、いい字ですね」と言った。
史桜里は少し立ち止まった。
「黒板の文字、手書きですよね。バランスがいいというか、読んでいて引っかからない。情報の出し方が上手いと思って」
「ありがとうございます」
「スタッフの方が書かれてるんですか」
「わたしが書いています」
「朝倉さんが書いてるんだよ」
叶羽が横から言った。
「わたし、前から気になってたんだけど、拓人くんもそう思う?」
「思った。これ、文字のウェイトとかも気にして書いてるんですか?」
ウェイト、という言葉に史桜里は少し戸惑った。
「細かいことまでは。なんとなく見た目のバランスを見ながら、くらいで」
「なんとなくで、これ書けるのはすごいですよ」
青年は改めて黒板を見た。それから史桜里の方へ顔を戻して、「柊木拓人といいます。叶羽の知り合いで」と言った。
「朝倉史桜里です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
史桜里は厨房へ向かった。背後で叶羽が何か言い、拓人が短く返しているのが聞こえた。
茶そばを運んでいくと、二人はすでに話し込んでいた。
「でも感性だけじゃ続かないって言いたいんじゃなくて」と拓人が言っていた。
「続くよ、感性だけでも」と叶羽が言った。
「それ言える人は最初から感性が整ってる人だよ。訓練しないで届く人は、いるけど、多くない」
「訓練しても届かない人だっているでしょ」
「もちろん。でもそれは感性だけの人も同じだよ」
二人の会話は、互いを否定しているというより、別々の方向から同じところを見ているようだった。言い合いというほどではなく、でもどちらも引かない。
史桜里はそばをテーブルに置いて、「ごゆっくりどうぞ」と言った。
「ありがとうございます」と拓人が言って、茶そばを受け取った。それからすぐ叶羽の方へ向き直った。
「僕が言ってるのはさ」
「うん」
「伝えたいものがあっても、伝え方が整ってないと届かない場合がある、ってこと。感性と技術って、別々に鍛えるものじゃないけど、意識するかしないかで変わると思っていて」
「伝え方」
「朝倉さんの黒板でいうと、メニューの情報が多すぎず少なすぎず、視線の流れを邪魔しない。ああいうのは、伝え方を意識してるから出来てることだよ」
史桜里はカウンターへ戻りながら、その会話を聞いていた。
伝え方。視線の流れ。
そういう言葉で、自分の黒板のことが話されるとは思っていなかった。史桜里は意識してそこまで考えたわけではなかったけれど、確かに、文字を書くときに何かを感じながら調整していた。それを誰かが言葉にしてくれると、初めて「そういうことをしていたのか」とわかる気がした。
二人はしばらく話し続けた。
史桜里は仕事をしながら、聞こえてくる会話の断片を拾った。イラストのこと、ゲームのこと、画面に何かを収めるときの判断のこと、作ったものを誰かに見せるときの緊張のこと。二人の話は行き来して、ときどきかみ合わなくて、でもどちらも本気で話していた。
「叶羽ってさ、選考の結果、気にしすぎじゃない?」
「気にするよ。通りたいし」
「それはわかる。ただ、落ちた時に全部だめだったみたいに思うのは違うと思う」
「わかってるけど」
叶羽は小さく唇を尖らせた。
「わかってるけど、が難しいんだよね。僕もそうだから」
少し間があった。
「拓人くんも気にするじゃない、結果」
「気にする。作ったものを人に見せると毎回こわい。でも、それ言わない方が楽だから、あんまり言わないだけで」
「言ってよ、そういうこと」
「叶羽に言っても仕方ないと思って」
「仕方ないって何。話しかけてよ」
叶羽は少し声を尖らせた。拓人は「すみません」と言って、また茶そばに箸をつけた。
史桜里はその会話を聞きながら、カップを拭いていた。
こわい、と拓人が言った言葉が、少しだけ残った。作ったものを人に見せると毎回こわい。あっさりと言ったけれど、あっさり言えるくらい本当のことなのかもしれなかった。
沢渡さんが帰り際に声をかけてくれた。
「あの二人、常連になりそうね」
「そうかもしれません」
「いい雰囲気ね。何か作ってる人たちって、話し方が違う気がするわ。言葉を大事にするというか」
「言葉を大事にする」
「うまく言えないけど。なんか、ちゃんと考えながら話してるって感じがするの。聞いてて心地よかったわ。わたし、ああいう人たちが店にいるの、好きよ」
沢渡さんは満足そうにそう言って、「またね、史桜里さん」と出ていった。
史桜里は暖簾が揺れるのを見ながら、沢渡さんの言葉を反芻した。言葉を大事にする。ちゃんと考えながら話している。
叶羽も拓人も、自分の言葉を持っていた。好きなものについて話す時も、迷っていることを話す時も、言葉が自分のところから来ていた。史桜里にはそれが、少しうらやましいような、少しまぶしいような、うまく名前のつかない感じとして残った。
夕方の片付けが一段落したころ、叶羽たちが立ち上がった。
拓人がトートバッグを肩にかけながら、ふと黒板の方を見た。それから史桜里に向かって、少し真剣な顔で言った。
「さっきのも聞こえてたかもしれないですが、本当に、伝え方が上手いと思います。黒板だけじゃなくて、メニュー表の感じも、テーブルの小さな案内札も。全部統一感があって、でも押しつけがましくない。朝倉さん、ああいうの、ちゃんと考えてますよね」
「なんとなく気になって、直したりしているくらいで」
「それが全部いい方向に出てるから、才能だと思います」
才能、という言葉を、拓人はさらりと言った。
史桜里は「ありがとうございます」以外の言葉が出てこなかった。
「また来ます。来週も来ていいですか」
「もちろんです、お待ちしています」
二人は引き戸を出た。史桜里は窓から、参道を歩いていく二人の後ろ姿を見た。叶羽がスケッチブックを抱えて歩いている。拓人が何か言って、叶羽が笑っている。
才能という言葉は、史桜里にはあまりなじみがなかった。少なくとも、自分に向けて使われた言葉としては。
才能があると言われると、どうして少し困るのだろう。
うれしくないわけではない。ただ、その言葉の重さが、今の自分に釣り合っていない気がした。才能があるなら、なぜあの頃やめてしまったのか、という問いが、すぐ後ろから来てしまうから。
史桜里は黒板に目を戻した。
本日のおすすめ。宇治抹茶ラテ。ほうじ茶プリン。春限定、いちごと抹茶のミニパフェ。
明日は書き直す日だ。
何を書こうかは、明日の朝に考えよう。たぶん、店先に出たらわかる。参道の空気を吸って、光の入り方を確かめて、それから決める。いつもそうしている。
佐伯が厨房から顔を出して、「今日は上がっていい」と言った。
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ」
短いやりとりで、一日が終わる。
史桜里はエプロンを外しながら、今日来た人たちのことを順番に思い出した。修学旅行の生徒たち。沢渡さん。叶羽と、拓人。
よりみちする人たちが今日も来て、それぞれの時間を過ごして、参道の向こうへ戻っていった。
史桜里はこの場所が好きだった。
その気持ちに、今日もやっぱり、少しだけ落ち着かない何かが混じっていた。




