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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第二章 窓辺のスケッチブック

 翌日、スケッチブックの女の子はまた来た。

 その次の日も来た。

 毎回、同じ窓際の席に座った。スケッチブックを開いて、抹茶ラテを頼んで、参道の方を見て、手元を見て、また参道の方を見る。その繰り返しをしながら、二時間ほど過ごして帰っていく。

 何を描いているのかは、史桜里の立つ位置からは見えなかった。

 スケッチブックの角度が悪いのと、その子がほんの少しだけ外側に体を向けているせいで、カウンター越しからは手元がちょうど隠れてしまう。史桜里は気になりながらも、自分から見に行くことはしなかった。お客さんの手元や荷物を覗き込むのは、仕事としておかしいと思っていたし、それ以上に、何か集中している人の邪魔をしたくなかった。

 だからその子のことは、ただ見ていた。

 接客のついでに、自然な範囲で。


 四日目の午後、その子は珍しくスケッチブックを閉じたまま、窓の外を眺めていた。

 史桜里はカウンターを拭きながら、その様子に気づいた。いつもと違う。手が動いていない。抹茶ラテのカップは半分ほど残っていて、冷めているかもしれなかった。

 水を継ぎ足すふりをして、史桜里はテーブルへ近づいた。

「お水、いかがですか」

「あ、ありがとうございます」

 その子は振り返った。ぼんやりしていたのが、史桜里の声でもどってきたような顔をした。

「ラテ、冷めていませんか。よければ温め直しますが」

「大丈夫です。わたし、冷めてても飲めるので」

「そうですか」

 そのまま離れようとすると、その子が「あの」と言った。

 史桜里は足を止めた。

「この店の、メニューの字、誰が書いてるんですか?」

 少し意外な問いだった。史桜里はテーブルの上に置かれたメニュー表を見た。手書きの、縦書きのメニューだ。

「わたしが書いています」

「やっぱり」

 その子は少し目を丸くして、それからにっこりした。

「店長さんじゃないんだと思ってました。なんか、字の感じが違うから」

「よくわかりましたね」

「そういうの、気になっちゃうんです。字の雰囲気とか、レイアウトの感じとか」

 その子はメニュー表を持ち上げて、近くで見るようにした。

「丁寧ですよね。読みやすいのに、ちゃんとやわらかい。黒板の字も、朝倉さんですか?」

「はい」

「いいなあ」

 そう言って、メニューをテーブルに戻した。

いいなあ、という言葉がとても素直だったので、史桜里は少しだけ戸惑った。褒めてもらうことへの戸惑いではなくて、そんなに簡単に、気持ちが表に出てくることへの、不思議な感じだった。

「ありがとうございます」

「あ、わたし、水嶋叶羽とはねといいます。美術系の専門学校に通ってて。だから字とか絵とかの話、気になってしまって。なれなれしくてすみません」

「いえ、全然」

 史桜里は少し笑った。確かに、学校で美術を学んでいる人なら、こういうことが気になるのかもしれない。

「朝倉史桜里です。よろしくお願いします」

「朝倉さんは、デザインとか学んでたんですか」

 質問が来るとは思っていなかった。史桜里は少し間を置いた。

「いえ、独学で、なんとなく」

「そうなんですか」

「ただ書くのが好きで。お仕事の延長で、みたいな感じです」

「でも、センスありますよ。なんとなく、じゃないと思います」

 叶羽はそう言って、また窓の外を見た。史桜里は会釈して、カウンターへ戻った。

 センスありますよ、と言われた言葉が、少しだけ胸の中に残った。


 翌日も叶羽は来た。

 今度はスケッチブックをすぐに開かず、抹茶ラテを飲みながら参道を眺めていた。史桜里が水を持っていくと、「今日は人多いですね」と言った。

「修学旅行生の方が多くて。今週は団体予約も何件かあって」

「あの制服の集団、さっき窓から見てました。みんなスマホ片手に歩いてるんですよね。でもたまに、建物の写真すごく熱心に撮ってる子がいて」

「そうなんですか」

「わたし、人が何かに集中してる瞬間って好きで。そういうのを描きたいなって思うんですけど、なかなか」

 叶羽はそこで少し口ごもった。

「なかなか?」

「人物が難しくて。もっと練習しないといけないんです。だからとりあえず今は、宇治の風景ばかり描いてます」

「宇治が好きなんですか?」

「好きです。すごく」

 叶羽はためらわずにそう言った。

「古いものと新しいものが混ざってる感じが好きで。平等院みたいなものが普通に参道の向こうにあって、でも道の途中にはコンビニもあって、観光客向けの茶屋もあれば、うどん屋もある。なんか、重なり合ってる感じがして」

「重なり合ってる」

「歴史の層みたいなものが、日常の中に普通にあるというか。宇治って、そういう空気が濃いと思って。それを絵にしたくて、だから毎日来てるんです」

 毎日来てる、と叶羽は少し照れたように言い直した。

「迷惑じゃなければですが」

「全然。ありがたいです」

 本当のことを言った。常連のお客さんは、どんな店にとってもありがたい。それに叶羽は静かに過ごしてくれるし、長居しても席を占領しすぎるほどではないし、帰り際にはきちんとごちそうさまを言う。

「古いものと新しいものが混ざってる感じ」と叶羽が言った言葉は、史桜里の中で少しだけ続きを持った。

 それは宇治の話だけれど、何かほかのことにも似ているような気がした。うまく言葉にできないまま、史桜里はカウンターへ戻った。


 午後の遅い時間になって、叶羽がスケッチブックを開いた。

 史桜里は遠くから見ていた。叶羽の手が動いているのはわかった。何かを描いている。顔が少し下を向いて、それから窓の外へ向いて、また下を向く。

 その繰り返しをしながら、叶羽は時々抹茶ラテを飲んだ。カップを持つ手が、スケッチブックを持つ手と同じように自然だった。飲むことと描くことが、叶羽の中では同じ動作の一部みたいに見えた。

 史桜里には、そういう時間がなかった。

 正確に言うと、あった、と思う。昔は。

 いつのころからそれがなくなったのか、はっきりとは覚えていない。ある日を境にやめた、というより、じわじわと遠くなっていったような気がする。気づいたときには、手を動かさなくなっていた。

 叶羽はスケッチブックから顔を上げて、また参道の方を見た。

 何を描いているのだろう。

 史桜里はまた、そう思った。


 次の来店で、叶羽は少し興奮した様子だった。

 席についてすぐ、「今日、いいものが描けた気がして」と言った。

「そうなんですか」

「宇治橋の欄干のところ、光の入り方がきれいで。朝早かったんですけど、スケッチしてきました」

「それからここへ?」

「はい。ここで、続きを清書しようと思って」

 叶羽はスケッチブックを開いた。

 史桜里はトレーを持ちながら、テーブルのそばを通りかかった。角度が合えば見えるかもしれない、と思ったわけではなかった。ただ、そのタイミングがたまたまそうなっただけだ。

 一瞬だけ、見えた。

 石畳と橋の欄干が描かれていた。線が細くて、丁寧で、光の加減が白い部分の残し方で表現されていた。写真のような正確さではなくて、でも確かに宇治橋だとわかる、そういう絵だった。

 史桜里は何も言わずに通りすぎた。

 厨房へ入って、水を用意しながら、さっき一瞬だけ見えた絵のことを思い出した。うまい、と思った。技術的にどうこう言えるほど史桜里には知識がないけれど、見た瞬間に何かを感じた。石畳の冷たさと、朝の光のやわらかさが、一枚の絵の中に同時にあった。

 そういうものを作れる人が、目の前にいた。

 史桜里はそのことを、少しまぶしく思った。

 まぶしい、という気持ちの中に、何が混じっているかは、あまりちゃんと考えないようにした。


 その日の閉店間際、叶羽が会計を終えてから、史桜里に向かって言った。

「あの、黒板の絵も朝倉さんですか?」

 入り口の横にある小さな黒板のことだろう。今は春らしく、花と湯気の立つカップを組み合わせて描いてある。メニューの文字の横に、ちょっとした飾りとして。

「はい」

「絵、うまいですね」

「そんなことないですよ、簡単なものしか描けないので」

「でも、全部バランスがいい。文字と絵が一緒にあるとき、どっちかが浮かないって、結構難しいんですよ」

 叶羽は真剣な顔でそう言った。史桜里は「ありがとうございます」と答えたが、叶羽はまだ続けた。

「朝倉さんって、昔なんか作ってました?」

 何気ない問いだった。

 軽い興味から来た質問だということは、声のトーンでわかった。悪意はない。叶羽はただ、純粋に思ったことを言っている。

 それでも史桜里は、少しだけ返答に迷った。

「なんとなく、好きだったことはありましたけど」

「なんとなく、って感じじゃないですよ、センスが」

「叶羽さんの方が、ずっと本格的ですよ。さっき、橋の絵、少しだけ見えてしまって」

 言ってから、覗いてしまったようで申し訳なかったと思った。

「あ、見てました?」

史桜里が謝ろうとすると、叶羽は「見てほしかったです」と先に言った。

「感想、聞きたかったから」

「綺麗でした。朝の光の感じが、ちゃんと伝わりました」

「本当ですか」

「はい」

 叶羽は少し、ほっとしたような顔をした。

「次、また描いてきたら見てもらえますか」

「ぜひ」

 叶羽が引き戸を出ていく。史桜里はその後ろ姿を見ながら、今交わした会話を反芻した。

 昔なんか作ってました?

 好きだったことはあった、と答えた。嘘ではない。でも正確でもなかった。ポートフォリオを作って、何社も受けて、何が足りないのかわからないまま落ち続けたことも。もっとちゃんとしたものが作りたかった、という気持ちがあったことも、それを諦めたことも、どちらも言わなかった。 

 言わなくていいことだ、と思った。

 仕事中だし、叶羽はお客さんだし、それに、自分でもあまり言葉にしたことがなかった。

 佐伯が厨房から顔を出して、「閉めるぞ」と言った。

「はい」

 史桜里は暖簾を外しながら、また黒板を見た。

 花と湯気の立つカップ。

 自分で描いたものなのに、今日は少しだけ遠いものに見えた。


 次の日、叶羽はまた来た。

 スケッチブックを抱えて入ってきて、「また来ました」と言った。史桜里は「お待ちしていました」と言った。昨日と同じ言葉だったが、今日は少し自分の気持ちに近かった気がした。

 ほんの少しだけ。

 叶羽は窓際の席に腰を落ち着け、抹茶ラテを頼んで、スケッチブックを開いた。

 参道の光がやわらかく差し込んでいた。石畳の上を、今日も人が行き来する。叶羽の手が動き始める。史桜里はカウンターから、その様子を時々見ていた。

 何を描いているのかは、今日もほとんど見えなかった。

 でも、手を動かしている人の横顔には、それだけで伝わってくるものがある。その時間の中に、その人が大切にしているものが宿っている。史桜里はそれを感じながら、自分の仕事へ戻った。

 水を出して、注文を聞いて、ラテを作って、運ぶ。

 ここは好きだ。この店も、この参道も、やって来るいろんな人たちも。

 好きだと思うたびに、なぜか少しだけ、落ち着かない気持ちになる。

 叶羽が窓の外を見ながら、また手を動かし始めた。

 史桜里は目を伏せて、次の仕事へ向かった。


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