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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第一章 参道の朝、抹茶の湯気

 店の引き戸を開けると、朝の空気はまだ少しひんやりとしていた。

 四月の宇治は、日差しがやわらかいわりに、朝だけは春の名残をきちんと残している。

朝倉史桜里は店先に出していた小さな立て看板を拭き、黒板の前でいったん手を止めた。


 本日のおすすめ。

 宇治抹茶ラテ。ほうじ茶プリン。春限定、いちごと抹茶のミニパフェ。


 白いチョークでそう書き足してから、史桜里は少しだけ文字の並びを見つめた。昨日よりは、まとまって見える。たぶん、それでいい。

「朝倉、豆ひくぞ」

 店の奥から店長の声がした。

「はい」

 史桜里は返事をして店内へ戻る。磨いたばかりのグラス、整えた椅子、窓際の二人席、まだ誰も座っていないカウンター。開店前の店は、きれいに息を止めているみたいだと、時々思う。

宇治橋から平等院へ向かう参道沿いにある茶房「よりみち」。

 あと三十分もすれば、ここにはいろんな人がやって来る。


           ☆


 店長の佐伯昂一が豆を引く音が聞こえてくる。低く、落ち着いた音だった。史桜里はエプロンを結びながら厨房の入り口に立つ。

背の高い体を少しだけ前に傾け、佐伯はいつもの手つきで豆を挽いていた。短く整えた髪に、彫りの深すぎない無骨な横顔。その動きはいつも淡々と店の呼吸を整えていた。何を先に片づけるか、どこで手を止めるかに迷いがなく、史桜里はそういうところに、口には出さない安心を覚えていた。

「今日も天気いいですね」

「そうだな」

 それだけだった。

 愛想がないというのとも少し違う。ただ必要以上を語らないのだと、史桜里は働き始めてから少しずつわかった。四十八歳の店主は、使い込まれた道具のようにこの店に馴染んでいて、史桜里はそれをずっと、どこかこの人らしいと思っていた。

「昨日の残り、確認しといてくれ」

「はい。あと、週末の団体、十時半でよかったですよね」

「ああ」

 返事をしながら佐伯は豆を引く手を止めない。史桜里は冷蔵庫を確認し、ストックを数え、足りないものをメモに書く。もう一年半近くやっている仕事だ。体が先に動く。

 開店前の支度が終わったころ、参道の向こうから観光客らしい声が聞こえてきた。週末の朝は早い。平日でも、四月の宇治は人が来る。

「引き戸、開けていいですか」

「いいぞ」

 史桜里は暖簾を出し、引き戸を引き開ける。

 朝の光が、ひとつのかたまりのように店の中へ入ってきた。


 最初の客は八時十五分に来た。

 五十代くらいの夫婦で、京田辺から来たと言った。「平等院の開園前に少しゆっくりしたくて」と奥さんの方が言い、旦那さんは黒板を眺めていた。

「抹茶ラテ、二つお願いできますか」

「かしこまりました。お荷物、こちらへどうぞ」

 窓際の席へ案内する。

カウンター横のガラスに、自分の姿が少しだけ映った。肩にかかるくらいの黒髪は、朝まとめたときのままで大きく乱れていない。派手さのない顔立ちは、こういう店では目立たなくて都合がよかった。白いシャツに濃い色のエプロンをつけていると、自分でも少しだけ、この店の人間らしく見える。


二人は外の通りを眺めながら、穏やかに話していた。史桜里は厨房へ戻り、抹茶を立てながら会話のかけらを聞く。どこどこのお土産が美味しかった、去年と桜の見ごろが少し違う、昼は伏見へ行きましょう。旅の中にある、ただの会話。それが史桜里は好きだった。

 客が一組増え、また一組増えた。修学旅行の引率らしいスーツの先生が、生徒が来る前に下見をしているのか、一人でほうじ茶を飲んでいった。海外から来たらしい二人組は、写真を撮りながらメニューを指差し、笑顔でオーダーした。英語で簡単なやりとりをして、注文を受ける。平等院のある宇治は、海外客も多い。史桜里はだいたいのことはこなせるようになっていた。

 午前中の忙しい時間が過ぎると、少しだけ店の中が落ち着いた。カウンターの端に座っていた地元らしいお客さんが、空いたカップを引き寄せながら「今日も静かやね、朝のうちは」と言った。

「そうですね。でも、あと一時間したらまた賑やかになると思います」

「観光地やから、しゃあないわな。でも、こういう時間の方が好きやわ」

「わたしも、じつは」

 言ってしまってから、少し驚く。接客の言葉ではなく、自分の言葉が出た気がした。

 客は満足そうに微笑んで、会計を済ませ、引き戸の向こうへ消えた。


 午後になると参道は人でいっぱいになった。

 修学旅行生の一団が通りすぎていく。ガイドの声と生徒たちのざわめきが混じって、窓の外をにぎやかに流れていく。外国人観光客がスマートフォンを向けながら何か話し合っている。土産物屋の呼び込みが遠くで聞こえる。

 史桜里はトレーを持ちながら、そういう景色をいつものように見ていた。

 慣れた景色だ。この参道の人の流れは季節ごとのリズムで史桜里の中に刻まれた。春と夏の観光シーズンは込み合う。秋は紅葉客で、一年のうちで最も賑わう。冬は少し静かになって、その分だけ地元の人が増える。

そういう町の呼吸を、史桜里はもう身体で知っている。それは、この場所で落ち着いて働けるということでもあった。

 それなのにどうして、こんなに少しだけ、落ち着かない気持ちになるのだろう。

「朝倉、三番頼む」

「はい」

 厨房へ向かいながら、史桜里はその気持ちを畳んだ。今は仕事中だ。


 三時過ぎに、沢渡慶子さんが来た。

 近所に住む常連で、週に二、三回は来る。七十二歳で、白髪をきれいに結い上げている。背筋は年齢のわりによく伸びていて、淡い色のカーディガンと小ぶりの革の鞄がよく似合っていた。顔立ちはやわらかいのに、目元には長くこの町を見てきた人らしい静かな明るさがある。店に入ってくるだけで、その場の空気が少し整うような人だった。上品だけれど、話し始めると止まらないこともある。

「今日もええ天気やったわ。参道、歩いてきたけど、ずいぶん人が出てるわね」

「そうなんです、今日は多くて」

「春やからねえ。平等院の藤が咲き始めてるもの、きっと」

 沢渡さんはほうじ茶と、きな粉のういろうを頼み、窓際の席についた。史桜里がお茶を運ぶと、「ありがとう、史桜里さん」と下の名前で呼んでくれた。

そう呼ぶのは、沢渡さんだけだ。

「この店、もう二十年になるかしら。よりみちさんが参道に出来た頃のこと、まだ覚えてるわよ」

「そんなに前から?」

「そうよ。最初は佐伯さんのお父さんが始めた店やったの。今の店長が引き継いで、ちょっとずつ変わったけど、雰囲気は残ってるわね。いいお店よ、ここは」

 史桜里は一緒に少しだけ話した。沢渡さんの話を聞いていると、観光地の宇治の裏側に、もっと長い時間が流れているのを感じる。店が変わっていく間にも、参道には人が来て、去っていった。季節がめぐった。宇治橋は何度か修繕された。

「こういう場所って、変わるようで変わらないのよ」

沢渡さんはそう言って、ういろうをひとつ口に入れた。

「宇治茶の匂いは、ずっと同じやと思うわ」

 史桜里は「そうですね」と答えた。

 それはたぶん本当のことだった。


 夕方近くなって、店が少し落ち着いたころ、史桜里は黒板の前に立った。

 明日のおすすめを書き直す前に、今日書いた文字を消しゴムで拭き取る。白いチョークの粉が布につく。黒板の黒が戻ってくる。

 こういう時間が好きだった。

 次に何を書くか、少しだけ考えながら、手を動かす。お客さんが目に止めてくれるように。一目でわかるように。でも押しつけがましくないように。バランスと言葉のことを、ほんのすこし考える。それだけのことなのに、史桜里はそれをするとき、少しだけ集中できた。

 季節のメニューは変わる。黒板の文字は消えてまた書かれる。誰が書いているか、お客さんの多くは気にしない。それでいいと思っている。でも、たまに「この字、かわいいですね」と言ってくれる人がいて、史桜里はそのたびに「ありがとうございます」と言いながら、どこかくすぐったくなる。

 学生のころ、もっとちゃんとした何かを作りたかった。

 そのことを思い出すのは、こういう瞬間だ。

 就職活動の時に作ったポートフォリオのデータは、今もノートパソコンの中に残っている。最後に開いたのがいつだったかは、もう覚えていない。開くたび、足りなかったところだけが先に見える気がして、いつのまにか見なくなった。

 黒板に向かいながら、史桜里はその考えをまた畳む。今さらのことだ。自分に言い聞かせるように、チョークを持ち直した。

 明日のおすすめ。 

 文字を書き始めたとき、引き戸が開く音がした。

 いらっしゃいませ、と振り向く。

 女の子が一人、入ってきた。二十歳前後だろうか。薄いトートバッグを肩から提げていて、抱えているのは大きなスケッチブックだった。入り口のところで少しだけきょろきょろして、窓際の席が空いているのを確認すると、そちらへ向かった。

 席につくと、スケッチブックをテーブルの上に置いた。それから史桜里の方を見て、少しにっこりした。

「抹茶ラテ、ください」

「かしこまりました。ホットとアイス、どちらにしますか」

「ホットで」

 史桜里は注文を受けて、厨房へ向かった。

 抹茶を計りながら、さっきの女の子のことを少し考えた。スケッチブックを大事そうに抱えていた。旅の途中に少し休んでいく人とも、観光目当てとも、少し違う気がした。

 けれどそれだけだ。どういう人かは分からない。史桜里はお客さんのことをよく見るけれど、見すぎないようにしている。それが仕事だと思っているから。

 ラテを仕上げてトレーに載せ、窓際の席へ運ぶ。

 女の子はスケッチブックを開いていた。何かを見ながら、ページをめくっている。史桜里がカップを置くと、ありがとうございます、と言って顔を上げた。

肩につくくらいの髪は無造作にまとめられていて、指先には鉛筆の粉でもついていそうな気配があった。大きな目は人懐っこいのに、その奥には何かを見逃すまいとする真剣さがある。可愛らしい顔立ちなのに、ただ愛想がいいだけでは終わらない印象だった。

 目が合った瞬間、また少しにっこりした。笑い方も人懐っこかった。

「いい窓ですね、ここ」

「そうですね、参道がよく見えて」

「石畳が光ってる。いいなあ」

 その言い方が、史桜里には少しだけ引っかかった。

 ただ景色を褒めているのではなく、そこにあるものを取りこぼさないように見ている声だった。前は自分も、ああいうふうに何かを見ていた気がして、史桜里はほんの少しだけ目を伏せた。会釈だけして、その場を離れた。

 厨房へ戻りながら振り返ると、女の子はもうスケッチブックに向かっていた。参道を眺めながら、それから手元を見て、また窓の外を見る。カップはまだ手をつけていなかった。

 史桜里はそのまま次の仕事へ戻った。


 閉店前の片付けをしながら、史桜里は窓際の席に目をやった。

 女の子は夕方の光が傾いてきたころに、会計を済ませて出ていった。スケッチブックを丁寧にバッグに入れて、ごちそうさまでした、とはっきりした声で言って、引き戸を閉めた。

 その後、席に残ったのは、飲み終わったカップと、テーブルの上の何もない空間だけだった。

 特別なことは何もない。いつもどおりの一日だった。

 史桜里はカップを下げながら、窓の外を見た。参道の人の流れは夕方になってまた変わっていた。観光客はほとんど帰っていき、代わりに地元の人が自転車を走らせ、犬を連れた人が通りすぎる。宇治の一日には、こういうかたちで終わりがある。

「朝倉、今日上がっていいぞ」

 佐伯の声がして、史桜里は返事をした。

 エプロンを外して、戸棚に掛ける。バッグを持って、勝手口から出た。

 参道はもう静かだった。暗くなる前の、やわらかい光が石畳の上に残っている。

 史桜里は少しだけそこに立って、宇治の夕方を吸い込んだ。

 ここは好きだ。

 この店も、この参道も、流れていく人たちも。

 けれど好きだと思うたびに、なぜか少しだけ、落ち着かない気持ちになる。

 どこか遠くへ行きたいわけではない。もっと大きなことをしたいわけでも、たぶんない。ただ、何かが止まったままで、それが止まったままである理由を、もうずいぶん長く考えないようにしていた気がする。

 あのスケッチブックを持っていた女の子のことを、一瞬だけ思い出した。

 参道を見ながら、あんなふうに手を動かしていた。真剣な目で、でも楽しそうに。

 史桜里は目を伏せて、また歩き始めた。

 明日も開店前に黒板を書く。お客さんを迎える。注文を聞いて、水を出して、道を教える。

 そういうことは、もうずいぶん自然にできるようになっていた。


 翌朝、スケッチブックの女の子はまた来た。

 同じ窓際の席へ向かいながら、「また来てしまいました」と少し笑って言った。史桜里は「お待ちしていました」と返した。接客の言葉だったけれど、なんとなく、本当のことのような気もした。

 抹茶ラテ、今日もホットで。

 女の子がテーブルにスケッチブックを広げる前に、史桜里はカウンターへ戻りながら、ふと思った。

 何を描いているのだろう。

 聞くつもりはなかった。でも、少しだけ、気になっていた。

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