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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第十章 選ばれる人、選ばれない人

 七夕の雨の日から一週間ほどして、また選考があると、叶羽は伝えてくれた。

 今度は叶羽の学校外のコンペで、イラストを公募しているものだった。叶羽は先週から、スケッチブックの他に別のノートを持ってくるようになった。アイデアを書き留めているらしく、開いたページに断片的な言葉や小さなラフが混在していた。抹茶ラテを飲みながら、そちらのノートをにらんで、また閉じて、スケッチブックを開く。そういう繰り返しをしていた。

 史桜里はその様子を、こっそりと見ていた。

 何かを聞くつもりはなかった。叶羽が話したい時には話してくれるし、集中している時には集中させた方がいいとわかっていた。

 ただ、叶羽の様子は前回の選考で落ちる前とは違った。

 描く時間は長いのに、どこか詰まっている感じがあった。手が動いていても、途中で止まる。止まってから、またやり直す。消しゴムを使う回数が増えていた。


 七月二十日、拓人は珍しく昼間に来た。

 大学の授業が休みの日らしく、いつもより少し余裕のある顔をしていた。でも方眼紙のノートは持っていて、茶そばを食べながら何かを書いていた。

 食べ終わってから、ノートを閉じた。

 史桜里が水を持っていくと、拓人は「少し、聞いてもらえますか」と言った。

「もちろんです」

「作ってるゲームが、完成しない気がしてきて」

「そうなんですか」

「完成させようとすると、ここが足りないとか、これじゃ面白くないとか、直したいところが先に出てきて。完成前にだめ出しをしてしまって、先へ進めない」

「どのくらい作ったんですか?」

「全体の六割くらいは動くんですけど、動いてるからこそ足りないところが見えて」

「六割動いてるなら、すごいと思いますが」

「六割動いてても、残りが完成しなければ出せないから」

 拓人は少し苦しそうだった。理屈っぽいと自分でも言っていたが、こういう時にその性質が裏返しになる。問題を細かく見すぎて、動けなくなる。

「完成させることと、良くすることを、いったん分けてみるのはどうですか」

史桜里は提案した。

「分ける?」

「まず動く形にして、それから直す。一緒にやろうとすると、どちらも中途半端になるかもしれないから」

 拓人は少し考えた。

「それ、言われたことある気がします。分けて考えろって。でも、動いてる途中で問題が見えると、そこを直さないと気が済まなくて」

「気が済まないのはわかりますけど」

「わかってる、頭では。でも止まってしまう」

 頭でわかっても体が動かない、という感覚は、史桜里にも覚えがあった。就職活動の時期、出せるかどうかわからないから手を動かせない、という状態がずっと続いていた。

「出せない状態が続くのと、未完成のものを出すのと、どちらがきついですか」と史桜里は聞いた。

 拓人は少し黙った。

「……出せない方が、たぶんきついです」

「じゃあ」

「わかった、やってみます」

 拓人はそう言って、また方眼紙のノートを開いた。史桜里はカウンターへ戻った。


 山吹はその週の後半も来た。

 前回、文章を見せてくれてから、少し距離が変わった気がした。何かを話す時の、ためらいの時間が短くなった。

 今日はラテを飲みながら、少し暗い顔をしていた。

「どうしましたか?」

史桜里は尋ねた。

「投稿してる話に、コメントがついて」

「それはよかったんじゃないですか」

「コメントはいいんですけど、内容が……」

山吹は少し口ごもった。

「文章が読みにくいって」

「そうでしたか」

「最初に読んでくれた人だったから、その人がそう思ったなら、ずっとそうだったのかもって思って」

 史桜里は少し考えてから、「コメントくれた人に、お礼は言いましたか」と尋ねた。

「言いました」

「じゃあ、その指摘は、読んでくれた上での話ですよね」

「まあ、そうですけど」

「読みにくいと感じながらも、最後まで読んでくれて、コメントまでくれた」

「……そうですね」

「読みにくいから途中でやめました、じゃなかったから」

 山吹はそれを聞いて、少し間を置いた。

「そういう見方もあるんですね」

「あってるかどうかはわかりませんけど、そう思いました」

「でも、読みにくいのは直した方がいいですよね」

「直せそうですか?」

「どこが読みにくいかは、言ってもらったから。直せると思います、たぶん」

「じゃあ、直してみたらいいと思います」

 山吹は「そうですね」と言って、またラテを飲んだ。完全に気持ちが晴れたわけではないようだったが、少し整理できた顔だった。


 七月最後の水曜日、叶羽と拓人が一緒に来た。

 今日の叶羽は、ノートもスケッチブックも出さなかった。抹茶ラテを両手で持って、テーブルの上に何も置かずに座っていた。

 史桜里はそれを見て、何かあったと思った。

 拓人も叶羽の様子をわかっているらしく、最初はゲームのことや大学のことを話していたが、少しして「コンペ、どうなった」と尋ねた。

 叶羽は少し間を置いた。

「また落ちた」

「そうか」

「先週結果出てたんだけど、言えなくて」

「言えなくてもいい。今言ってくれたから」

 拓人はそれだけ言った。慰めるでも、励ますでも、分析するでもなかった。ただ受け取った。

 叶羽はカップを持ったまま、窓の外を見た。

「二回目だから、慣れると思ったけど、慣れないですね。前回と同じくらい、きつい」

「そうだよね」

「うまい人はいっぱいいるし、わかってる。でも、落ちると、そのうまい人たちとの差が、突然すごく大きく見えて。さっきまで測れてた距離が、測れなくなる感じがして」

 史桜里はカウンターから、その会話を聞いていた。

 距離が測れなくなる感じ。

 選考結果が出ることで、突然基準が変わってしまう。自分が思っていた位置と、実際の位置が一致しなくなる。そのずれが怖い。

「でも、やめたくはないです。やめたくないことだけは、落ちても変わらない」

 やめたくないことだけは変わらない。

 史桜里はその言葉を、しばらく持った。


 少しして、拓人が「朝倉さん」と声をかけてきた。

 史桜里は近づいた。

「水、いただけますか」

「もちろんです」

 水を持っていくと、叶羽が史桜里を見た。

「朝倉さんは、どうしてやめたんですか?」

 突然の問いだった。

 でも、突然でもなかった。叶羽はずっと、この問いを持っていたのかもしれない。今日の落選があって、今日の状態だから、聞いてきたのだと思った。

 史桜里はグラスをテーブルに置いた。

 どうしてやめたんですか?

 答えは持っていた。持っていたが、言葉にしたことはなかった。以前、山吹に話した時よりも、この問いは核心に近かった。

「好きなだけでは足りないと思って」

「それは、わたしも今日思いました。でも朝倉さんはやめて、わたしはまだやめてない。その差ってどこにあるんでしょう?」

 叶羽の質問に、史桜里ははっきりと答えられなかった。

 差、と言われると、わからなかった。叶羽の方が強いから、ということでもないと思う。史桜里が弱かったから、ということでも、正確ではない気がする。ただ、その時の史桜里には、続けるための何かが足りなかった。それだけのことだが、その何かが何なのかは、今もわからない。

「わからないです。どこが違ったのか、今でもわからない」

「そうですか」

「叶羽さんが続けてる理由が、わたしにはわからないし、わたしがやめた理由が、叶羽さんにはわからないかもしれない」

「そうかもしれない」

 叶羽は少しだけ、笑った。今日の、不安定な笑い方ではなくて、少し違う笑い方だった。

「落ちたから聞きたかったのかも。誰かがやめた理由を聞いたら、やめない理由が見えると思って」

「見えましたか」

「少し。やめない理由って、大きな理由じゃなくていいのかな、と思って。ただやめたくないから、それだけでいいのかも」


 拓人はその間、何も言わなかった。

 ただ水を飲んでいた。でも聞いていた。史桜里にはわかった。

 史桜里が戻ろうとすると、拓人が呼んだ。

「朝倉さん、ちょっと聞いてもいいですか」

「はい」

「もし今さら、また何か作るとしたら、何をしたいですか」

 もし今さら。

 その言葉を、拓人はわざと使っているわけではなかった。ただ、自然に出てきた言葉だった。

 史桜里はしばらく考えた。

 何を作りたいか。

 黒板を書く時のことを考えた。メニューカードを整える時のことを。誰かが目を止めてくれる瞬間のことを。文字と絵が一緒にある紙を、自分の感覚で作ること。

「小さな紙ものを作りたいです」

史桜里は言ってから、驚いた。

 考えてから答えた言葉ではなかった。聞かれたら出てきた、という感じだった。ずっとそこにあったのかもしれない。

「いいと思います。朝倉さんに合ってる」

拓人はすぐにそう言った。

「どんな紙もの?」

叶羽が尋ねた。

「たとえば、宇治の案内とか。観光客の方が手に取れるような、この町の小さなことが書いてあるような」

「いいですね。朝倉さんが作ったら、ちゃんとしたものになると思います」

「まだ、今さらかもしれないですし」

「今さら、って言葉、朝倉さんよく使いますよね」

叶羽に突っ込まれ、史桜里は少し黙った。

「そうでしょうか」

「わたしは今さらだと思わないけど、朝倉さんがそう思ってるなら、そこが一番難しいところかもしれない」


           ☆


 閉店後、佐伯が電気を落としながら、「今日は長かったな」と言った。

「そうですね」

「朝倉は最近、黒板の書き方が変わってきたな」

「そうですか」

「前より、気持ちが入ってる感じがする」

 史桜里は少し驚いた。佐伯がそういうことを言うのは、珍しかった。

「そうかもしれないです」

史桜里がそう言うと、

「ええことじゃないか」

 それだけ言って、佐伯は厨房へ戻った。

 史桜里は暗くなった店の中で、今日、叶羽に聞かれた問いを、もう一度思い出した。

 どうしてやめたんですか。

 答えは出た。でも、答えきれなかった。

 今さら、という言葉を史桜里はよく使うと叶羽に言われた。そうだと思った。今さら、という言葉で、自分が動かない理由を作っていた。

 小さな紙ものを作りたい。

 言葉にしたのは初めてだった。

 言葉にしてしまったから、今さらでは済まなくなるかもしれない。

 それが怖くて、でも少しだけ、怖さとは別のものも混じっていた。

 史桜里は勝手口を出た。七月の夜の空気が、昼間の熱をまだ帯びていた。

 参道は暗く、静かだった。


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