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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第十一章 諦めた日の話

 八月になった。

 宇治の夏は、蒸し暑かった。

 参道の石畳が昼間の熱を蓄えて、夕方になっても足元から熱が上がってくる。川沿いの木々が緑を濃くして、その下だけが少し涼しかった。観光客には日傘や扇子を持って歩いている人もいた。店の引き戸を開けると外の熱気が入ってきて、閉めると抹茶の冷たい香りが戻ってくる。

 茶房「よりみち」の夏は、かき氷の季節だった。

 いちばん人気は、宇治金時だった。抹茶ソーダも出た。冷たいほうじ茶も頼まれた。忙しい時間帯は、厨房と店内を行き来する回数が増えた。佐伯は混んでいる時ほど声が低く落ち着いていた。史桜里も慣れた動きで仕事をこなした。

 忙しい日々の中で言葉にしたことが、ずっと史桜里の中にあった。

 小さな紙ものを作りたい。 

 言ってしまってから、それが消えなかった。仕事の合間に考えて、川沿いを歩きながら考えて、朝の黒板を書きながら考えた。考えるたびに、今さらかもしれない、という気持ちと、でも、という気持ちが交互に来た。


 その週の木曜日、叶羽と拓人と山吹が、偶然同じ日に来た。

 最初に来たのは山吹で、いつもの中ほどの席についた。次に叶羽が来て、窓際に座った。拓人は少し遅れて、叶羽と合流する形で向かいに腰を落ち着けた。

 三人が同じ日にいる、というのは、珍しいことではなくなっていた。それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしている。会話することもあれば、各自で作業していることもある。今日は、叶羽と拓人が少し話していて、山吹はスマートフォンに向かっていた。

 史桜里は仕事をしながら、その様子を視界の端に入れていた。

 しばらくして、叶羽が史桜里に声をかけた。

「朝倉さん、少し時間ありますか」

 客が少ない時間帯だった。佐伯は仕込みで奥にいた。

「少しなら」

「前に話してくれたこと、もう少し聞いてもいいですか。やめてしまったって話」

 史桜里は少し間を置いた。

「ここで?」

「嫌だったら全然」

「いえ」

 史桜里はカウンターを出て、叶羽と拓人のテーブルの近くに立った。山吹も、スマートフォンから顔を上げて、こちらを見ていた。


 どこから話せばいいかわからなかった。

 ただ、話すなら正直に話さないと意味がない気がした。仕事の延長で好きだった、なんとなく続けられなかった、そういう言い方でごまかすのは、今日はしたくなかった。

「大学のころ、デザインの授業を少し受けて、それで紙ものを作ることが好きになりました」

 史桜里は落ち着いて話し始めた。

「サークルの冊子を作る係になって、フライヤーのレイアウトを考えたり、文字と絵を組み合わせたりすることが、楽しかった。誰かの文章に絵を合わせて、どこに置くかを考えて、何度も直して、最終的に一枚の紙になる。その瞬間が好きだった。完成したものを手に取って、これでいい、と思えた時の感覚が」

 叶羽はじっと聞いていた。拓人もノートを閉じていた。山吹は、まだこちらを見ていた。

「だから、もっとちゃんとやりたかった。就職活動の時、デザイン関係の会社を何社か受けました。ポートフォリオを作って、説明会へ行って、面接を受けて」

「結果は」

拓人が冷静に尋ねた。

「全部うまくいかなかった。縁がなかった、といえばそれまでのことだけど、あの頃の自分には、うまく受け止められなくて」

「落ちた理由はわかりましたか」

「教えてもらえないから、わからなかった。だから、何が足りないのかわからないまま、次を受けた。また落ちた。周りは内定が決まっていく中で、比べたくなかったけど、比べてしまって」

 史桜里は少し止まった。

 その頃のことを言葉にするのは、初めてのことだった。就職活動がうまくいかなかったことは、誰かに話したことがなかった。実家の親には、方向を変えたとだけ言った。友人には、縁がなかったと言った。自分に対しても、あまり向き合ってこなかった。

「比べるたびに、自分の作るものが小さく見えた。好きなだけで、技術が伴っていないと思って。そう思うと、何かを作るたびに手が止まった。手が止まるから、完成しない。完成しないから、ポートフォリオが増えない。増えないから、また自信がなくなる。その繰り返しの中で、いつのまにか、スケッチブックを開かなくなってた」

「いつのまにか、か」

叶羽がぽつりと言った。

「ある日を境にやめた、という感じじゃなくて。気づいたら、遠くなっていた」

 沈黙があった。

 雨の音はなかった。八月の蝉の声が、遠くから聞こえていた。

「誰かが悪かったわけじゃない、と思ってます。落とした会社が悪かったわけでも、自分が才能なかったわけでも、たぶんない。ただ、続けるための何かが、あの時の自分には足りなかった。それだけのことで」

「それだけのこと、とは言えない気がしますけど」

拓人が言った。

「そうかもしれないですね」

「朝倉さんは、あの頃、誰かに話せましたか」

 史桜里は少し考えた。

「話せなかった。うまくいかないことを、人に言えなくて。自分の作ったものへの自信がなくなっていくのを、誰にも見せないようにしてた」

「それは、きつかったと思います」

拓人は分析でも慰めでもない、ただそう思う、という言い方だった。


 叶羽はしばらく黙っていた。

 それから、冷静に言った。

「わたし、朝倉さんと似てる部分があると思って。うまい人を見ると苦しくなるのも、評価に振り回されるのも。でも朝倉さんは止まって、わたしはまだ動いてる。その差がどこにあるのか、今日聞いてみたかった」

「わかりましたか」

「わかった気がします。朝倉さんは一人だったから、と思って」

 史桜里は少し驚いた。

「一人だったから」

「誰かに話せなかったって言ったから。一人でかかえてると、止まる速度が速い気がして。わたしは拓人くんがいるし、こっちに来れば朝倉さんがいるし。それが違うのかもしれない」

 一人だったから。

 その言葉を、史桜里はしばらく持った。

 一人だったかどうか、という問いは、今まで考えたことがなかった。話せなかったのは自分の性格で、話さなかったのは自分の選択だった。でも、話せる場所があれば、違っていたかもしれない。そうなのかどうかは、今となっては確かめられない。

「そうかもしれないですね」


 山吹がその頃、席を立って近づいてきた。

 聞いていたのはわかっていた。

「あの、聞いてしまってすみません」

「いえ、聞こえる場所でしてた話だから」

「朝倉さんが話してくれたから、わたしも少し」

 山吹は少し迷ってから、続けた。

「わたし、投稿してる話、誰にも言ってないんです。学校の人にも、家族にも。ここで朝倉さんに見せたのが、最初で」

「そうでしたか」

「だから、朝倉さんが言ってたこと、わかる気がして。一人でかかえてるのが普通で、でもそれがきつい時があって」

「山吹ちゃんも、話せる人を作った方がいいかもしれないですね」

「朝倉さんに言ってるじゃないですか」

山吹は少し笑った。

「そうですね」

「それで十分です、今は」


 その日の夕方、三人が帰った後、佐伯が厨房から出てきた。

 椅子を上げるのを手伝いながら、史桜里の方を見た。

「今日、話してたな」

「はい。少し」

「いいことだ」

 それだけ言って、また仕事へ戻ろうとした。史桜里は少し迷ってから、声をかけた。

「店長」

「なんだ」

「わたし、昔、デザインの仕事がしたくて、うまくいかなくて、やめてしまったことがあって」

 佐伯は動きを止めた。

「それで、今の仕事の中では、黒板とかメニューカードとか、少し作ることがあって。それが、好きだと気づいてきて」

「そうか」

「また、もう少しちゃんとやってみたいと思ってます。店の仕事の延長で、小さなことから」

 言い終わってから、史桜里は少し緊張した。

 佐伯は史桜里の方を向いて、少し間を置いた。

「やれ」

 それだけだった。

「やれ、というのは」

「やりたいならやれ。邪魔しない」

 史桜里は少し笑った。

「ありがとうございます」

「ありがとうは、やってから言え」

 佐伯は厨房へ戻った。


 史桜里はその夜、川沿いを少し歩いた。

 八月の夜の宇治川は、昼間の熱が残っていたが、水の音だけは変わらなかった。遠くに橋の灯りが見えた。

 今日、諦めた日の話をした。

 誰かに話したのは初めてだった。叶羽に聞かれたから話した、ということもあるが、話せたのは、今日が今日だったからかもしれない。八月の蒸し暑い夜ではなく、あの話をする日だった、という感じがした。

 話してみて、何かが変わったかどうかは、まだわからない。

 ただ、ずっと胸の中にあったものを、言葉にして、三人に向けて出した。出したことで、少し軽くなったような気もするし、出したからこそ次のことを考えなければならない気もした。

 佐伯の短い言葉は、それで十分だった。

 川の音を聞きながら、史桜里は少し立ち止まった。

 諦めた日があった。それは本当のことだ。でも、それで全部が終わったわけではなかった。終わったと思っていたが、終わっていなかったのかもしれない。山吹に言われたことを、また思い出した。

 やめてないんじゃないですか。

 やめていなかったのかもしれない。形が変わっただけで、どこかでずっと、続いていたのかもしれない。

 川が流れていた。

 史桜里は歩き始めた。参道の方へ向かいながら、明日の黒板のことを考えた。

 八月の夏。宇治金時。冷たいものが一番似合う季節。そういうことを、明日の朝、また書く。

 それが今の自分にできることで、そこから始めればいい。

 史桜里は夜の参道を歩きながら、そう思った。


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