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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第十二章 好きなままでいる方法

 八月の半ば、店が少し落ち着いた日があった。

 お盆の時期で、観光客の流れが変わっていた。普段は修学旅行生や日帰りの観光客が多いが、この時期は家族連れが増えた。子どもを連れた親が参道を歩いて、平等院を見て、宇治金時を食べていく。そういう夏らしい光景の中で、「よりみち」は少しだけゆっくりとした空気になった。

 叶羽は今月に入ってから、スケッチブックに向かう時間が戻ってきていた。

 コンペに落ちた後、しばらくは手が止まっていた。でも先週あたりから、また描くようになっていた。ただ、以前と少し違うのは、ノートをほとんど出さなくなったことだった。選考のためのアイデア出しではなく、ただ描きたいから描いている、という感じに見えた。

 史桜里はそれを、遠くからこっそりと見ていた。


 拓人は今日、一人で来た。

 方眼紙のノートを出して、しばらく何かを書いていたが、途中でペンを置いて、天井の方を見た。

 史桜里が水を持っていくと、拓人は「少し詰まってて」と言った。

「この前も詰まってましたね」

「そうなんです。ゲームを完成させることと良くすることを分けてみた、って言いましたよね」

「はい」

「分けて考えようとしたんですけど、分けて進めていくと、完成した部分がやっぱり気になって。結局また止まってしまって」

「そうでしたか」

「朝倉さんのアドバイスが悪かったわけじゃなくて、僕の性格の問題なんですけど」

「自分に厳しいんですね」

「厳しいというより、基準が高すぎるのかもしれない。自分の中での完成のイメージが、実際に作れるものより先にあって、そこに届かないと出せない感じがして」

 史桜里は少し考えた。

「完成のイメージって、どこから来るんですか」

「好きなゲームとか、尊敬してる人の作品とか。そういうものが頭の中にあるから」

「それと比べてしまうんですね」

「比べてしまう。頭ではわかってる、まだ作り始めて何年も経ってないのに、ベテランと同じ基準で測るのはおかしいって。でも感情は別で動く」

 頭ではわかっていても感情は別で動く。叶羽も、同じようなことを言っていた。

「その基準、少し下げることはできますか」

「下げる、というのが難しくて。下げると、妥協してる感じがして」

「妥協じゃなくて、今の段階に合った基準にする、という意味で」

「今の段階に合った基準」

「今の自分が作れるものの中で、一番いいものを出す。それが今の段階の完成だと思えば、ベテランの基準とは別の話になるかもしれない」

 拓人はしばらく考えた。

「それ、頭ではわかるんですけど」

「感情は別で動く」

「そうなんです」

拓人は少し苦笑いした。

「毎回同じことを言われてる気がします、自分で自分に」


 叶羽がその会話を横で聞いていた。

 少し経ってから、叶羽が言った。

「拓人くんって、好きなものを好きって言う時、少し照れるよね」

「そうかな」

「任天堂の話とか、好きなゲームの話とか、する時の声が少し変わる。抑えてる感じ」

「そう見える?」

「見える。なんで?」

 拓人は少し間を置いた。

「本気のものほど、軽く言ってごまかしたくなるから」

「ごまかすの?」

「本気だと思われると、評価された時に逃げ場がなくなるから」

 叶羽は少し黙った。

「わたしはむしろ、好きって言いすぎて、あとで苦しくなることがある」

「好きって言った手前、ちゃんとしなきゃ、ってこと?」

「うん。好きって言ったのに結果が出ないと、その言葉が嘘になった気がして」

「好きって言ったことは、結果と関係ないよ」

「頭ではわかってるけど」

「感情は別で動く」

拓人がそう言うと、叶羽は少し笑った。

「さっきの朝倉さんと同じこと言ってる」

「みんな同じところにいる気がします、根っこは」

史桜里がそう言うと、二人が史桜里を見た。

「頭でわかっていても感情が追いつかない、というのは、わたしも同じだったので。今さらかもしれない、と思いながら、でも、が止まらない感じも含めて」


 午後の遅い時間に、佐伯が珍しく店に出てきた。

 厨房から出てくるのは珍しいことではないが、今日は店内をひと通り見て、カウンターの端に立った。

 叶羽と拓人がいて、山吹はまだ来ていなかった。佐伯は二人に目をやってから、史桜里に向かって言った。

「朝倉」

「はい」

「茶の補充、頼む」

 普通の指示だった。史桜里は在庫を確認しに奥へ向かった。

 戻ってくると、佐伯はまだカウンターの端にいた。珍しいと思っていると、佐伯がぽつりと言った。

「あの二人、最近ずっと来てるな」

「はい、常連になってもらえて」

「何か作ってる子たちか」

「叶羽さんがイラストで、拓人さんがゲームで」

「そうか」

 佐伯は少し間を置いた。それから、窓際の叶羽の方を見て、言った。

「落ち込んでる時期があったな、先月」

「コンペに落ちて」

「続けてるな、それでも」

「続けてます」

 佐伯はそれを聞いて、カウンターを離れた。厨房へ戻りながら、歩きながら言った。

「続ける形は一つやない」

 史桜里は立ち止まった。

 振り返ったが、佐伯はもう厨房の中にいた。

 続ける形は一つじゃない。

 それだけの言葉だった。誰かに向けて言ったのか、独り言のように言ったのか、わからなかった。ただ、史桜里の耳に届いた。


 その言葉が、しばらく史桜里の中に残った。

 続ける形は一つじゃない。

 仕事にすることだけが続けることではない。コンペで選ばれることだけが続けることではない。毎日描くことだけが続けることではない。誰かに見せることだけが続けることではない。

 小さくても、形が変わっても、誰かに届く形ででも、好きなものと関わり続けることができる。それが続けることの、別のかたちかもしれない。

 史桜里は今、店の黒板を書いている。メニューカードを整えている。それは続けることの一つの形だったのかもしれない。山吹に言われた言葉を、また思い出した。やめてないんじゃないですか。

 続ける形は一つじゃない、という言葉は、叶羽にも拓人にも山吹にも当てはまる気がした。でも今日は、史桜里自身のことにも届いた。


 夕方に、山吹が来た。

 今日は少し元気がなかった。ラテを頼んで、スマートフォンを出したが、すぐにテーブルに置いた。

「どうしましたか」

「書けない日で」

「そういう日もありますよね」

「書けない時に書こうとすると、どんどん嫌いになりそうで、今日はもう開かないことにしました」

「それは賢いかもしれないです。無理に書いて嫌いになるより」

「朝倉さんも、そういう日ありますか。黒板とか」

「あります。書こうとしても、言葉が出てこない日。そういう時は、とりあえず手を動かしてみます。内容より、動かすことだけを考えて」

「それで書けますか」

「書けない時もあります。でも、動かしているうちに、何か出てくることがある」

 山吹はそれを聞いて、少し考えた。

「動かすだけ、か」

「出来を気にしないで、ただ動かす時間を作ると、少し楽になる気がして」

「やってみます」

 山吹はラテを一口飲んで、また少しだけスマートフォンを見た。今日は書くためではなく、読む方で開いているようだった。


 叶羽がその日の帰り際、史桜里に言った。

「朝倉さん、一個お願いがあって」

「なんですか?」

「店の黒板、季節ごとに描き替えてますよね」

「はい」

「次の秋のやつ、もう少し凝ったデザインにしてみませんか。わたし、手伝います」

 史桜里は少し驚いた。

「手伝う、というのは」

「一緒に考えるというか。わたしは絵の方は描けるけど、朝倉さんみたいに文字と絵のバランスを整えるのが苦手で。だから、一緒にやったら面白くなるかなって思って」

「わたしは文字側で、叶羽さんが絵側で」

「そういう感じで。どうですか」

 史桜里は少し考えた。

 一緒にやる、というのは、史桜里にとって初めての形だった。今まで黒板は一人で書いてきた。誰かの絵と自分の文字を組み合わせることは、考えたことがなかった。

「やってみましょうか」

「よかった。秋になったら、連絡します」

 叶羽は嬉しそうに言って、スケッチブックを鞄に入れた。

「あと、朝倉さん」

「はい」

「この前、小さな紙ものを作りたいって言ってましたよね」

「はい」

「それ、やりましょうよ」

 史桜里は少し止まった。

「やりましょうよ、って」

「一人でやろうとすると、今さらかもって止まると思うから。わたしたちと一緒に考えれば、始めやすくなるかもしれない。拓人くんも、たぶん何か言えるし」

「そんな、みんなに手伝ってもらうのは」

「手伝いじゃなくて、一緒にやりたいから言ってます」

 叶羽はそう言って、引き戸を出た。

 拓人が後から「また来ます」と言って続いた。


 山吹が最後に帰り際、史桜里に聞いた。

「今日、叶羽さんが何か言ってましたよね、聞こえてたんですけど」

「一緒に何か作ろう、って」

「朝倉さん、やりますか」

「どうしようか考えています」

「やればいいと思います」

「山吹ちゃんはそう思いますか?」

「やめてないんじゃないですかって、前に言いましたよね、わたし」

「覚えてます」

「やめてないなら、次の形にするだけだと思って」

 山吹はそこで少しだけ言葉を切った。

「……止まってる、って言い方で、自分を終わったことにしてるだけにも見えます」

 史桜里は思わず、山吹を見た。

 責める口調ではなかった。

 ただ、そう見えたから言った、という声だった。

「わたしも、たぶんそういうところあるので」

 山吹は少し気まずそうに笑った。

「書けない時とか、反応がない時とか、もう無理かもって言い方をした方が、先のこと考えなくて済むから」

 史桜里はすぐには答えられなかった。

 止まっている、と思っていた。今さらだ、とも思っていた。

 でもそれは、本当に終わったからではなく、終わったと言ってしまった方が楽だっただけなのかもしれない。

 山吹は視線を少し落としてから、続けた。

「続ける形は一つじゃないって、さっき聞こえてきましたし」

 店長の言葉が、山吹にも届いていたのか、と史桜里は思った。

「聞こえてたんですね」

「はい。なんか、すごくいい言葉だと思って」

 山吹は「ごちそうさまでした」と言って出ていった。


 閉店の片付けをしながら、史桜里は今日のことを順番に思い出した。

 拓人の、基準が高すぎる、という話。叶羽の、好きって言った手前、という話。山吹の、書けない日。佐伯の、続ける形は一つじゃない、という言葉。叶羽の、一緒にやりましょう、という提案。

 それぞれが別の話をしていたが、どこかで繋がっていた。

 好きなままでいる方法は、一つじゃない。

 仕事にしなくても、選ばれなくても、毎日続けなくても、誰かに認められなくても、好きなままでいる方法はある。形を変えて、場所を変えて、一人じゃなく誰かと一緒に。

 史桜里は黒板を見た。

 夏のメニュー。宇治金時。抹茶ソーダ。冷たいものが一番似合う季節。

 秋になったら、叶羽と一緒に書き替えることになった。

 それが始まりになるかもしれない、と史桜里は思った。小さなことでも、誰かと一緒にやることで、一人では動けなかったところが動くかもしれない。

 佐伯が電気を落とし始めた。

「今日もお疲れ様でした」

「お疲れ」

 短いやりとりで、今日が終わった。

 史桜里は勝手口から出た。八月の夜は、まだ蝉の声が遠くでしていた。

 続ける形は一つじゃない。

 その言葉を持って、史桜里は参道を歩き始めた。


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