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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第十三章 黒板の秋

 九月になった。

 夏の熱が少しずつ引いていく時期だった。朝の空気に、ほんのわずかな変わり目の気配が混じるようになった。石畳を照らす日差しが、八月のそれより少し角度が変わっている。蝉の声が薄くなって、夕方の川沿いに虫の音が交じり始めた。

 参道の観光客は変わらずいたが、家族連れが減って、また大人の旅行者が戻ってきた。京都から日帰りで来る人、宇治茶を目的に来る人、宇治川沿いをゆっくり歩きたい人。秋の宇治はそういう人たちの季節だった。

 史桜里は開店前の黒板を見ながら、夏のメニューをそろそろ変えることを考えていた。


 叶羽から連絡が来たのは、九月の最初の週だった。

『秋の黒板、そろそろ考えませんか。来週、一緒に見ながら話しましょうか』

 史桜里は少し間を置いてから返信した。

『ぜひ。来週、来てもらえたら』

 送信してから、やると言ってしまった、と思った。やると言ったのは先月で、叶羽の提案に史桜里が乗った。その時は少し曖昧なまま同意した気がしていたが、叶羽はちゃんと覚えていた。

 覚えていてくれた、ということが、少しありがたかった。


 約束の日、叶羽は少し早い時間に来た。

 スケッチブックの他に、小さなスケッチ帳を持っていた。普段のものより薄くて、持ち運びやすそうなサイズだった。

「持ってきました」と叶羽は言って、テーブルの上に広げた。

 スケッチ帳には、秋の宇治のモチーフが小さく描かれていた。紅葉、平等院の屋根の曲線、宇治川の水面、茶葉のイメージ、湯気の立つカップ。それぞれが小さなラフで、どれかを使えそうか確かめるための下書きという感じだった。

「これを黒板に使えるか、朝倉さんに見てもらいたくて」

「どれも素敵ですね」

史桜里はそう言って、スケッチ帳を手に取った。

 一枚一枚を見ていった。紅葉の葉は線が細くて、でも形がはっきりしていた。平等院の屋根の曲線は、写実的でなく、どこかシルエットのような印象だった。茶葉のイメージは、葉の重なりを丁寧に描いていて、触れたら匂いがしそうな気がした。

「どれがいいと思いますか」

「黒板に合うのは、たぶんこれとこれかな、と思って」

 史桜里は茶葉のイメージと、宇治川の水面のラフを指した。

「どうして」

「細かすぎない線で、離れて見ても伝わる形だから。黒板は少し離れて見る人が多いから、細かい描き込みより、シルエットがはっきりしてるものの方が向いてると思って」

 叶羽は少し目を丸くした。

「そういう考え方、なかったです。近くで見てたから」

「わたしも黒板を書きながら気づいたことで。お客さんが入り口から見る距離と、テーブルから見る距離で、見え方が変わるから」

「そっか。じゃあこの二つ、もう少し整えてきます」


 翌週、叶羽が整えたラフを持ってきた。

 茶葉のイメージが、輪郭をはっきりさせて、線を少し太くしてあった。宇治川の水面は、波の細かい描き込みを減らして、光の当たる部分の白い余白を大きくしてあった。

 史桜里は黒板の前に立って、二つのラフを見比べた。

「こっちを上に置いて、文字をここに並べると」

 史桜里は指でおおまかに位置を示した。

「文字は縦書きがいいですか、横書きがいいですか」

「縦書きの方が、和の感じに合うと思って。でも、秋のメニューの名前は横書きの方が読みやすいかもしれないから、組み合わせてもいいかも」

「縦と横を混ぜるんですね」

「一種類に統一した方が整って見えることが多いけど、意図があれば混ぜても面白くなる。この場合、雰囲気の言葉を縦書きにして、情報を横書きにする、という分け方にすれば理由がはっきりする」

 叶羽はスケッチ帳に素早くメモを取っていた。

「朝倉さんって、教えてもらったんですか、そういうこと」

「本で読んだり、見て覚えたりで。ちゃんと学んだことはないです」

「でも体系立ってる」

「そうですか。自分では気づいてなかった」


 試しに書いてみることにした。

 史桜里はチョークを持って、黒板の前に立った。叶羽が横にいた。

 最初に文字の配置を決めた。秋のメニューの名前を並べて、余白を確認して、絵の位置を考えた。叶羽のラフを黒板に転写するわけではなく、ラフを参考に、黒板の上で直接構成を考えていく。

 チョークを走らせ始めると、手が自然に動いた。

 久しぶりの感覚、というわけではなかった。毎日書いていたから手は慣れていた。でも、今日は少し違う感じがあった。誰かに見てもらうために、誰かと一緒に作っているという感覚。

 叶羽が横でラフを見ながら、「そこにもう少し余白を」とか「絵の位置、もう少し右の方が」と言った。史桜里はそれを聞いて、少し直した。指摘が来るたびに、なるほど、と思う部分と、でもここはこうした方が、と思う部分があった。

「絵はここにした方がいいと思うんですが」と史桜里が言うと、叶羽は「なんで」と尋ねた。

「文字を読む目線が左から右へ動く時に、最後にここで絵が目に入る流れができるから」

「視線の流れを考えてるんですね」

「なんとなくですが」

「なんとなくじゃないですよ、ちゃんとした理由がある」

 叶羽は一呼吸置いて、

「わかりました、そっちにします」と言った。


 一時間ほどかけて、秋の黒板が出来上がった。

 茶葉のシルエットが左上に入って、その横に縦書きで「宇治の秋」と書いた。その下に、秋のメニューが横書きで並んだ。ほうじ茶のホットラテ、栗と抹茶のパフェ、秋限定の茶そばセット。右下に宇治川の水面のラフが小さく入って、全体のバランスを取っていた。

 二人で並んで、黒板を眺めた。

「いい感じですね」

「そうですね」

 史桜里は少し離れて見た。入り口から見た距離を想定して、目を細めた。文字が読める。絵が伝わる。余白が呼吸している。

 これでいい、と思った。

 久しぶりに、その感覚が戻ってきた。

「写真撮っていいですか」

叶羽が尋ねた。

「もちろん」

 叶羽はスマートフォンで黒板を撮った。それから「拓人くんと山吹ちゃんに送ります」と言った。

「見せるんですか」

「見せたくて。一緒に作ったから、報告したくて」

 一緒に作った。叶羽はそう言った。

 史桜里は少し、その言葉を持った。


 その週の後半、拓人が来た。

 いつものように茶そばとほうじ茶を頼んで、席についてから史桜里に言った。

「黒板、見ました。叶羽から写真が来て」

「そうですか」

「ちゃんと伝わる、と思いました。離れて見ても、秋だってわかる。でも押しつけがましくない」

 拓人らしい評価だった。感覚ではなく、何が機能しているかを見ている。

「ありがとうございます」

「叶羽と一緒に作ったんですね」

「そうです。叶羽さんが絵を持ってきてくれて、わたしが文字とレイアウトを」

「いい組み合わせだと思います。叶羽は細部まで描けるけど、全体のバランスを整えるのは苦手で。朝倉さんはその逆だから」

「そうかもしれないです」

「またやるんですか、一緒に」

「叶羽さんが言ってくれたら」

「言ってくれると思います。楽しそうでしたよ、送ってきたメッセージの感じが」


 山吹はその週に来た時、黒板を入り口のところで少し眺めてから席についた。

 ラテを受け取ってから「黒板、変わりましたね」と言った。

「そうです、秋にしました」

「叶羽さんの絵、入ってるんですね」

「よくわかりましたね」

「なんか、雰囲気が違って。朝倉さんの文字は変わらないけど、絵が変わってる感じがして」

 山吹の観察眼は、こういうところで発揮された。言葉を扱う人だからか、細部の違いに気づく。

「正解です。叶羽さんが絵を描いてくれて、わたしが文字とレイアウトを担当しました」

「いいと思います。なんか、朝倉さん一人の時より、温かい感じがして」

「温かい感じ」

「一人で作ったものって、どこか整いすぎる時があって。誰かと一緒に作ったものは、隙間みたいなものがあって、それが温かく見える気がして」

 山吹はそう言って、またラテを飲んだ。

 一人の時より温かい感じ。隙間みたいなものがある。

 史桜里はその言葉を、しばらく持った。


 秋の黒板を作ってから、史桜里の中で何かが動き始めた。

 ゆっくりとした変化だった。劇的に何かが変わったわけではない。ただ、朝の開店準備をしながら、黒板を見る時間が少し長くなった。仕事の合間に、メニューカードの文字を直したくなった。お客さんに渡す小さな案内の紙に、何か一言添えたくなった。

 久しぶりに手が動く感覚があった。

 止まっていた感覚ではなかった。毎日黒板は書いていたし、メニューカードも整えていた。でも、それは仕事としてやっていることで、手が動く喜びとは少し違った。今は、その境目が曖昧になってきていた。仕事だから作るのか、作りたいから作るのか、区別がつかなくなってきていた。

 それがいいことかどうかはわからない。ただ、手が自然に動く時間が、増えていた。


 ある日の閉店後、史桜里は佐伯に話しかけた。

「店長、メニューカードを少し作り直してもいいですか?」

「なんで」

「今のものより、もう少し読みやすくできる気がして。レイアウトを整えたくて」

 佐伯は少し間を置いた。

「どのくらいかかる」

「休みの日に少しずつ作れば、一週間くらいで」

「やれ」

 また、それだけだった。

「材料費、少しかかってしまいます」

「言え、後で。領収書持ってこい」

「ありがとうございます」

「礼は出来てから言え」

 史桜里は少し笑った。出来てから言え、というのが佐伯らしかった。


 休みの日に、史桜里はカフェのテーブルに道具を広げた。

 紙、ペン、定規、消しゴム。大げさな道具ではなかった。あるものを使って、まず手書きで試してみることにした。

 メニューの文字を並べた。どの字を大きくして、どこに余白を置くか。お品書きの流れが、自然に目線を誘導するように組み立てていった。

 作業をしながら、気づいたことがあった。

 考えながら手を動かしている時間が、楽しかった。

 楽しい、という感覚が、史桜里の中でずいぶん久しぶりだった。仕事は好きだし、店は好きだし、黒板を書くのも好きだった。でも、楽しい、という感覚はそれとは少し違った。

 何かを作っている、という実感がある時間の楽しさ。

 学生の頃に確かにあって、でもなくなったと思っていた感覚が、こんなところで戻ってきていた。

 史桜里は手を止めずに、作業を続けた。


 次の来店で、叶羽がメニューカードを手に取った。

「これ、変わりましたか」

「少し直しました」

「見やすい。前より、迷わない感じがして」

「そういうふうにしたかったので」

「また何か作りましたね」

叶羽は断定する言い方だった。

「そうですね」

「いいと思います。続けてください」

 続けてください、と叶羽は言った。励ましのような、でも当然のことを言っている口調でもあった。

 史桜里は「はい」と答えた。

 今日の返事は、以前より少しだけ、自分の意志が乗っていた。


 九月の終わりに、沢渡さんが来た。

 ほうじ茶と、秋の柏餅ではなく丹波栗の羊羹を選んで、カウンター席についた。

「黒板、変わったわね。なんか、いつもよりいい感じがするわ」

「ありがとうございます。叶羽さんと一緒に作りました」

「あの絵の上手な子と? それはよかったわ」

「一緒に作ると、一人の時と違う感じになりますね」

「そうよ。人と一緒に作ったものって、どこかあったかいのよ」

 山吹が言っていたことと同じだった、と史桜里は思った。

「史桜里さんも、最近なんか変わった気がするわ」

「そうですか」

「手が動いてる感じがして。前は、いつもきちんとしてたけど、今は少し違うというか。余裕が出たのか、のびのびしてきたのか」

 のびのびしてきた、という言葉が、史桜里には少し意外だった。

「自分ではわからないですけど」

「外から見てるとわかるのよ。あなたの字、好きよ。前から好きだったけど、今の方がもっと好きよ」

 沢渡さんはそう言って、羊羹を一口食べた。

 史桜里はありがとうございます、と言って、カウンターへ戻った。

 今の方がもっと好き。

 その言葉が、静かに史桜里の中に落ちた。


 十月が近づいてきた。

 宇治の紅葉が始まるのは、もう少し先だった。でも参道の木々が、少しずつ色を変え始めていた。石畳の上に最初の落ち葉が一枚落ちた日、史桜里はそれを見てから店の中へ戻った。

 黒板には、叶羽と一緒に作った秋の文字が並んでいた。

 史桜里は少し離れたところからそれを見た。

 これでいい、と思った。

 その感覚が、最近は少し長続きするようになっていた。


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