第十四章 それぞれの途中
十月になった。
宇治の秋は、静かに深まっていく。
平等院の庭の木々が色づき始めて、参道を歩く人が立ち止まって写真を撮るようになった。観光客の服装に、薄手のジャケットやストールが増えた。宇治川の水面が、夏より落ち着いた色になって、川沿いを歩く人の足取りがゆっくりになった。
「よりみち」の店内に、秋の空気が入ってきた。
引き戸を開けると、外の冷たい空気と、店内の抹茶の香りが混ざる瞬間がある。史桜里はその瞬間が好きだった。季節が変わる時だけ起きる、短い時間のことだった。
叶羽は今月に入ってから、課題に集中していた。
学校の後期の課題が始まったらしく、スケッチブックとは別に、大きめの画用紙を持ってくることが増えた。店の中で広げることはなかったが、鞄から少しはみ出しているのが見えた。
史桜里が「課題ですか?」と尋ねると、「今回は大きい作品を作らないといけなくて」と答えた。
「どんな作品ですか?」
「テーマが自由で、それが難しくて。なんでもいいって言われると、かえって迷って」
「なんでもいい、は難しいですね」
「縛りがある方が、逆に考えやすいことがある。自由すぎると、どこから考えたらいいかわからなくなる」
「なんかテーマは浮かんでいますか?」
「宇治のことを描こうとは思ってて。この町が好きだから、好きなものを描けばいい気はしてるんですけど、好きなだけだとテーマとして弱い気がして」
「好きなだけだと弱い、というのはなぜですか」
叶羽は少し考えた。
「誰かに見せた時に、わたしがただ好きな場所を描きました、で終わっちゃう気がして。見た人の中に何か残るものが欲しくて」
「残るもの、か」
「うん。叶羽が宇治好きなんだね、で終わらないもの」
史桜里はカウンターへ戻りながら、その言葉を繰り返した。
見た人の中に何か残るもの。叶羽はそこまで考えながら、課題に向き合っていた。
拓人は今月に入ってから、少し表情が変わっていた。
詰まっていた感じが、少し和らいでいた。ノートへの書き込みが増えていて、今月は消しゴムを使う回数が減っていた。
史桜里が水を持っていくと、拓人は「少し動けてます」と言った。
「完成させることと良くすることを分けた、というのがやっと機能してきて」
「よかった」
「完成させることだけを考える時間と、良くすることを考える時間を、意識して区別するようにしたら、少し楽になりました。一日の中で、この時間は完成を優先する、って決めると、その時間内は直したくなっても我慢できて」
「時間で区切るんですね」
「気持ちで区切るのは難しかったから、時間で決めた方が僕には合ってた」
「それは自分に合ったやり方を見つけましたね」
「まだ全部うまくいってるわけじゃないですけど、前よりは進んでます。少しですけど」
少しですけど、と拓人は言った。でも、その「少し」を言う表情が、以前より落ち着いていた。
山吹は今月になって、投稿の頻度が上がっていた。
以前は不定期で、反応が少ないと間が空いていたが、今月は週に一度くらいの感じで更新しているらしかった。
史桜里が「投稿、続けてますか?」と尋ねると、「続けてます」と山吹は答えた。
「反応はどうですか?」
「相変わらず多くはないですけど、先月より少し増えた気がして。読みにくいって言ってくれた人がフォローしてくれてて、直した後から続きを読んでくれてて」
「それはよかった」
「直して読んでもらえたのは、嬉しかったです。フィードバックをもらって、直して、また読んでもらえるって、ちゃんとつながってる感じがして」
「続けてよかったですね」
「うん。反応がなかった時期、もうやめようかって何度も思ったけど、続けておいてよかったです」
山吹はそう言って、ほうじ茶ラテを飲んだ。
続けておいてよかった。その言葉が、史桜里には少し遠くから届いた。山吹がそこへ辿り着くまでの、反応がなかった時期のことを、史桜里は少し知っていた。それを経てから今日の言葉があることが、史桜里には重かった。
三人がそれぞれ前進していく中で、史桜里は自分のことを考えていた。
メニューカードを作り直してから、手が動くようになっていた。
続きで、何かをしたかった。
叶羽から最初に提案してもらった時に、小さな紙ものを作りたいと言った。宇治の案内のような、観光客が手に取れるような、この町の小さなことが書いてあるような紙。あの時は言葉にしただけで、具体的に考えていなかった。
でも最近は、少し具体的に考えるようになっていた。
どんな形にするか。何を入れるか。誰に向けて作るか。
そういうことを考えながら、仕事の合間に小さなメモを取っていた。
ただ、考えるたびに、これでいいのかわからなくなる瞬間があった。
今さら、という言葉が来る時もあった。ただ、叶羽に指摘されてから、その言葉が来るたびに、気づくようになっていた。また今さら、と言っている、と。気づくことで、少しだけ手放せる時があった。
ある日の午後、史桜里はカウンターでメモを見ながら考えていた。
客が少ない時間帯だった。佐伯は仕込みをしていた。
メモには、宇治の名前のことや、参道の距離のこと、お茶の種類のこと、川の名前のこと、平等院の藤のことが、断片的に書かれていた。観光客に話しかけられた時に、よく聞かれることを書き留めていたものだった。
こういうことを、一枚の紙にまとめたら、役に立つかもしれない。
史桜里はそう思いながら、メモを眺めていた。役に立つかもしれない、という言葉は、仕事として考えている時の言葉だった。でも今は、それだけではなかった。役に立つかもしれないし、自分が作りたいから作る、という気持ちも混じっていた。
どちらが先でもいい気がした。
どちらから始まっても、作ることには変わりない。
その日の夕方、叶羽が来た。
課題の話を少ししてから、叶羽が聞いた。
「朝倉さん、紙もの、考えてますか」
「少し考えてます」
「どんな感じですか」
「宇治の案内みたいなものを、と思ってて。でも、まだメモの段階で」
「見せてもらえますか、メモ」
史桜里は少し迷った。それから、カウンターの下から小さなノートを出した。
断片的なメモだった。整っていなかった。でも、叶羽はそれを丁寧に見た。
「宇治橋の欄干から見える景色のこと、書いてありますね」
「お客さんによく聞かれるから。どこから写真を撮るといいか、とか」
「それ、地図に描けそうですよ。どこに立つと何が見えるか」
「手描きの地図、ですか」
「うん。きっちりした地図じゃなくて、手書きの温かい感じのやつ。朝倉さんが書いたら、それだけで手に取りたくなると思う」
叶羽はそう言って、メモを返した。
「拓人くんにも見せてみてください。構成の話はあの人の方が上手いから」
数日後、拓人がいる時に、史桜里はメモを見せた。
拓人はノートを閉じて、メモを受け取った。
しばらく読んでから、言った。
「誰に向けて作りますか」
「観光客の方に、と思って」
「どんな観光客ですか。初めて来た人、何度も来てる人、宇治に住んでいる人が友達を連れてきた場合、旅行者、地元の人が案内する場合。それぞれ欲しい情報が違うと思って」
史桜里は考えた。
「初めて来た人が、一番使えるものにしたいです。でも、何度来ても手に取りたくなるような」
「初めての人向け、でも繰り返し手に取れるもの。それは、情報の量と、余白のバランスで変わる気がします。情報を詰め込むと初めての人向けになるけど、繰り返し見たくはならない。余白があって、見るたびに発見があるものの方が、繰り返し手に取れる」
「余白の中に発見がある、というのは」
「たとえば、一言の文章が入っていて、それが来るたびに違う意味に見えるとか。季節によって感じ方が変わるものとか」
史桜里はメモを取りながら聞いていた。
「拓人さんは、ゲームで考えることと、こういうことが繋がるんですね」
「繋がる気がします。プレイするたびに発見があるゲームと、手に取るたびに発見がある紙ものは、仕組みとして似てる気がして」
山吹はその週に来た時、叶羽と拓人が帰った後に史桜里に言った。
「朝倉さん、何か作り始めてますよね」
「どうしてわかるんですか」
「なんか、雰囲気が違って。前より落ち着きがある感じがして。いい意味で」
「そうですか」
「作ってる時の人って、どこか安定してる気がして。安定というか、根っこみたいなものができてくる感じ。わたし、投稿を続けてから、少しそういう感じになってきて。朝倉さんも、今そういう感じがして」
根っこみたいなもの。
山吹の言葉には、こういう言い方が時々出てきた。書いているからこそ出てくる言葉だと、史桜里は思った。
「山吹ちゃんも、根っこができてきてますよ」
「そうですか」
「続けてる人の顔になってきてます」
山吹は少し照れたような顔をした。
「そんなにわかりますか」
「わかります」
十月の終わりに、史桜里は小さな設計図を作った。
紙もの、の全体の形を紙に書き出した。
A5サイズの一枚紙を折って、開くと宇治の手描き地図が見えて、折るとお店の案内と一言の文章が見える形。そういうイメージだった。
地図のどこに何を書くか。文字の大きさをどう変えるか。どこに絵を入れるか。一言の文章は何にするか。
全部が決まっているわけではなかった。でも、形が見えてきていた。
形が見えてきた、ということが、史桜里には大事だった。
今さら、という言葉は、今日はあまり来なかった。
代わりに、これはどうしよう、という考えが先に来た。それはまだ作る気持ちがある人の考え方だ、と史桜里は思った。
閉店後、佐伯が電気を落とす前に、史桜里はカウンターに設計図のメモを置いた。
「店長、少し見てもらえますか」
佐伯は手を止めて、近づいてきた。
設計図を見た。読んでいるのか、見ているのか、よくわからない顔だった。
しばらくして、言った。
「これ、店に置く気か」
「置けたらと思って。観光客の方に、持って帰ってもらえるような」
「ええじゃないか」
「まだ設計の段階で、出来上がるかどうか」
「出来上がったら見せろ」
「はい」
佐伯は設計図をカウンターに戻して、また電気を落としに行った。
史桜里は設計図を手に取った。
それぞれの途中にいる、という言葉を、ふと思った。叶羽も、拓人も、山吹も、それぞれの途中にいた。完成した人はいなかった。成功した人もいなかった。でも、それぞれが前より少し進んでいた。
史桜里も今、途中にいた。
止まっていた途中ではなく、動いている途中に、ようやく入ってきた気がした。
設計図をノートに挟んで、鞄にしまった。
勝手口から出ると、十月の夜の空気が冷たかった。
参道の木々が、街灯の下で少し色づいて見えた。
史桜里は鞄を持ち直して、歩き始めた。




