第十六章 誰かに届くもの
十一月の後半に、叶羽の課題が一段落した。
連絡が来た日の夜、叶羽からメッセージが届いた。
『提出しました。疲れました。でも、出せました』
史桜里は返信した。
『お疲れ様でした。出せましたね』
しばらくして叶羽から『次は紙もの、一緒に考えましょう』と来た。
史桜里は少し笑った。疲れたと言った次の行に、もう次のことを書いている。それが叶羽らしかった。
十一月末、叶羽が店に来た。
課題を出した後だからか、少し肩の力が抜けていた。いつものスケッチブックを持っていたが、今日は最初から史桜里のメモを一緒に見るために来た、という感じだった。
拓人も少し後から来た。叶羽から連絡があったらしく、今日は三人で考えることになっていた。
客が少ない時間帯に、史桜里はカウンターからこちら側へ出た。三人でテーブルを一つ囲んだ。
史桜里はノートを出した。これまで断片的に書き溜めてきたメモ、設計図の変遷、一言の文章の候補、手描きの地図のラフ。それを全部テーブルに広げた。
叶羽と拓人が、それを見た。
叶羽が「結構考えてたんですね」と言った。
「考えるだけで、手が動いてなかったですけど」
「考えてたことが全部ここにある。これは進んでると思います」
拓人が言った。
「そうですか」
「ゼロから始めるより、ここから始める方が全然違います」
三人で、紙もののことを話し始めた。
まず形を決めた。史桜里が最初に考えていたA5の一枚紙を折る形は、拓人が「展開した時に地図が見える、折った時に文章が見える、という二段構造はいいと思います」と言って、そのまま採用することになった。
次に、地図の内容を話し合った。
史桜里のメモから、入れたい情報を並べていった。JR宇治駅から平等院までの道順、途中の見どころ、宇治橋からの景色の見方、お茶の香りがどのあたりから感じ始めるか、修学旅行生がよく迷う分岐点。
「これ、全部入れると多すぎますね」
拓人が意見した。
「そうかもしれない。でも、どれを削るか悩んで」
「削る基準を決めるといいかもしれないです。初めて来た人が、歩きながら見て、役に立つかどうか、という一本で絞ると」
「歩きながら見る、という基準か」
「持ち歩いて見るものだから、情報が多すぎると見ながら歩けない。一目でわかる量に絞った方が使われる確率が上がる気がして」
史桜里はメモを見直した。拓人の基準で見ると、必要なものと、あると面白いけど必ずしも必要ではないものが分かれてきた。
「じゃあ、絵はどこに入れますか?」
叶羽が尋ねた。
「地図の中に入れてもらえますか。場所の説明を言葉でするより、小さな絵の方が伝わることがあると思って」
「いいです。どの場所に何を描くか、決めましょうか」
三人で、地図上の場所と絵の対応を話し合った。宇治橋の欄干には橋の線画、お茶の香りがする場所には茶葉、「よりみち」の前には湯気の立つカップ。叶羽が小さなラフをその場で描きながら確認していった。
折った裏側の文章を、どうするか。
そこが史桜里には、一番時間がかかっていた。
「一言の文章、まだ決まらなくて」
「どんなものを考えてましたか?」
拓人が尋ねた。
「よりみちすること、とか、参道の途中で、とか。でも、どれも説明っぽくなってしまって」
「説明じゃなくて、読んだ人の気持ちになるもの、が欲しいんですね」
叶羽が言った。
「そうです。宇治に来た人が読んで、自分のこととして受け取れるような」
「難しいですね」
拓人は否定ではなく、本当に難しいと思っている声だった。
「難しいです。ずっとここで詰まってて」
史桜里は紙の端を指で押さえた。
しばらく、三人で黙った。
叶羽がスケッチブックをなんとなく開いて、手を動かし始めた。考える時に手を動かす癖があるのを、史桜里は知っていた。拓人はノートを開いて、何かを書いていた。
史桜里は窓の外を見た。
参道の人が行き来していた。今日も誰かが、この道を歩いていた。平等院を目的地にしている人、ただ歩いている人、立ち止まって写真を撮っている人。それぞれがそれぞれの途中にいた。
急いでいるように見える人も、そうでない人もいた。誰もがまっすぐ目的地だけを見ているわけではなかった。道の途中で立ち止まり、店先を見て、少し迷って、それでもまた歩き出していく。
その様子を見ているうちに、史桜里はふと、自分も同じ道の上にいる気がした。
途中にいる人たち。
史桜里は手元のメモに、ぼんやりと言葉を書き始めた。
途中でいい。途中の場所がある。立ち止まっていい参道。どこかへ向かう途中に、ここがある。
書きながら、言葉が少しずつ動いた。
目的地へ向かう前に、少し。帰る前に、もう一度。よりみちは、どこかへ向かう途中に生まれる。
「これ、どうですか」
史桜里は書いた言葉をそのまま読み上げた。
叶羽が手を止めた。拓人もノートから顔を上げた。
「もう少し聞かせてください」
拓人が頼んだ。
「どこかへ向かう途中に、少しだけ立ち止まる場所がある。目的地への道は、続いている。でも今は、ここにいる。それだけで十分な時間がある」
読み上げながら、史桜里は少し自分の声を聞いていた。
これは宇治の話だけれど、自分の話でもある気がした。どこかへ向かう途中で、止まっていた。それを悪いことだと思っていた。でも、立ち止まっている場所があることは、悪いことではないかもしれない。
「いいと思います」
叶羽が言った。
「少し長いから、一番伝えたい部分を絞るといいかも。どこかへ向かう途中に、ここがある、という感じだけでも十分伝わる気がして」
拓人はこう主張する。
「そうですね」
史桜里は言葉を削った。
どこかへ向かう途中に、ここがある。
読んだ。
短くなったことで、逆に重くなった気がした。これでいい、という感覚が来た。
それから、史桜里は紙もの作りに時間を使った。
休みの日に、テーブルに道具を広げた。紙、ペン、定規、細いサインペン、消しゴム。叶羽から受け取った絵のラフを手元に置いて、地図を描き始めた。
最初はうまくいかなかった。
地図の縮尺がずれた。文字の大きさが揃わなかった。絵を入れる位置が決まらなかった。何度か書き直した。
書き直すたびに、少し良くなる感じがあった。
書き直すことが、今日は苦ではなかった。就職活動の時期には、作り直すたびに疲弊していた。でも今は、直すたびに、形が近づいてくる感覚があった。
三日かけて、下書きが完成した。
叶羽に下書きを見せた。
叶羽はテーブルに広げて、じっくりと見た。
「地図、いいですね。手書きなのに、ちゃんと読める」
「文字が多くなりすぎないか、ずっと心配で」
「多くない。余白がちゃんとある」
「絵のラフ、ここに入れようと思って」
史桜里は場所を示した。
叶羽はしばらく見てから意見を出した。
「少し右にずらした方がいいかも。読む目線の流れで、ここより右の方が自然に目が行く気がして」
「こっちですか」
「そう。あと、この絵、もう少し描き込んでもいいかもしれない。地図の中だから、シルエットだけでいいかと思ってたけど、周りの文字が細かいから、絵も少しだけ細かい方がバランスが取れる気がして」
「なるほど」
「直してきます。また見せてください」
拓人にも見せた。
拓人は全体を見てから、折った状態にして、また開いた。それを何度か繰り返した。
「開く前と後で、情報が切り替わる感じがちゃんとある。開いたら地図で、折ったら文章。その切り替えがわかりやすい」
「そうしたかったので」
「一言の文章、地図を見てから読む流れになってるから、読んだ時に地図の景色を思い浮かべながら読める。順番がいい」
「それは、意識してなかったです」
「意識してなくてそうなってるなら、感覚がいいということだと思います」
十二月に入って一週間が過ぎた頃、史桜里は完成した紙ものを手に取った。
叶羽の絵が入った地図が広がった。宇治橋の線画、茶葉のシルエット、「よりみち」の前の湯気の立つカップ。史桜里の手書きの文字と、小さな説明が添えてあった。折ると、一言の文章が見えた。
どこかへ向かう途中に、ここがある。
自分で書いた言葉なのに、今日読むと少し違う感じがした。これはただの宇治の案内の言葉ではなかった。史桜里が、自分の途中にいることを認めた言葉でもあった。
これでいい、と思った。
完璧ではなかった。もっとうまく作れる人はたくさんいた。でも、今の自分が作れるものの中で、一番いいものができた気がした。
佐伯に見せた。
佐伯は手に取って、開いて、折って、また開いた。
しばらく黙っていた。
「店に置いていいか」
「置いてもらえますか」
「置く。入り口のところに、持っていっていいようにしておく」
「ありがとうございます」
佐伯は紙もの、をカウンターに置いた。それからまた厨房へ向かいながら、言った。
「できたな」
「はい」
「出来たら見せろ、と言ったろ」
「見せました」
「ええ」
それだけだった。
でも史桜里には、それで十分だった。
叶羽と拓人と山吹にも、完成したものを渡した。
叶羽は受け取ってすぐに開いて、自分の絵が地図の中に入っているのを見た。
「ちゃんと合ってる」
「合いましたね」
「わたしの絵が、朝倉さんの文字と一緒にある。なんか、不思議な感じ」
「一緒に作ったから」
「うん」
叶羽は少し笑った。
「嬉しいですよ、こういうの。自分の絵が、一枚の絵じゃなくて、何かの中に入ってる、というのが」
拓人は受け取って、また折ったり開いたりした。
「完成しましたね」
「しました、なんとか」
「完成前にだめ出ししすぎる、という話を朝倉さんにしたことがあったと思いますけど、朝倉さんはそうじゃなかった」
「そうでしたか」
「作りながら直して、でも出せた。僕はそれがまだできてないから、参考になります」
山吹は受け取って、一言の文章を読んだ。
「どこかへ向かう途中に、ここがある」
読み上げて、少し間を置いた。
「朝倉さんが書いた言葉、ですよね」
「そうです」
「朝倉さんらしい言葉だと思います」
山吹はそこで少しだけ言葉を探した。
「好きです。すごく」
史桜里は少し息をついた。
けれど、山吹はそのまま続けた。
「でも、前より朝倉さんがいるのに、まだ少し隠れてる感じもします」
史桜里は思わず顔を上げた。
「隠れてる、ですか」
「うまく言えないんですけど、きれいに整ってて、ちゃんと届く形になってるぶん、朝倉さんが自分を引っ込めてる感じが少しして」
山吹は気まずそうに笑った。
「変な言い方だったら、すみません」
史桜里はすぐには答えられなかった。
整えることは、ずっと自分の得意なことだった。見やすいように、届きやすいように、余分なものを削って、言葉を置く。そうしてきた。
でも、そのたびに、自分の生っぽいところまで一緒に引っ込めていたのかもしれない。
山吹は少しだけ身を乗り出すようにして、続けた。
「でも、それでも前よりずっと朝倉さんの言葉だと思いました。だから、好きです」
「わたしらしい」
「うん。ここにいる人の言葉という感じがして。止まってる人じゃなくて、ここにいることを選んでいる人の言葉、みたいな」
史桜里はその言葉を、しばらく持った。
止まってる人じゃなくて、ここにいることを選んでいる人。
自分ではそう思えていなかった。でも、山吹にはそう見えた。
紙ものを入り口のカウンターに置いた翌日、最初にそれを手に取ったのは、観光客のお客さんだった。
中年の女性で、一人で来ていた。入り口で紙もの、を見つけて、少し手に取って開いた。
史桜里はカウンターから見ていた。
女性は地図を見てから、一言の文章を読んだ。
それだけだった。特に何も言わなかった。でも、紙もの、を鞄に入れて、席に着いた。
史桜里は少し、息を吸った。
手に取ってもらえた。鞄に入れてもらえた。それだけのことだが、今日はそれだけのことが大きかった。
自分の作ったものが、誰かの手に渡った。
小さな一歩だったが、確かに起きたことだった。




