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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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第十七章 よりみちの先

 十二月の十日を過ぎた頃には、宇治の紅葉はもう終わっていた。

 赤かった木々が葉を落として、参道が明るくなった。落ち葉が石畳に積もって、朝の掃除で払うと、その下の石が濡れて光っていた。空気が透き通って、遠くの山の輪郭がくっきりと見えた。

 冬の宇治は、少し静かだった。

 観光客が減った。修学旅行生は来なくなった。代わりに、宇治茶を目当てに来る大人や、静かな京都周辺を歩きたい人が来た。「よりみち」の店内は、秋の込み合いが嘘のように落ち着いた。

 その分、一人ひとりのお客さんと、少し長く言葉を交わせる日が増えた。


 紙ものを置いてから、少しずつ変化が起きた。

 最初の一週間は、手に取る人がいても、声をかけてくれる人はいなかった。持っていくのか、見るだけで戻すのか、史桜里には把握できなかった。

 九日目に、初めて声をかけてもらった。

 四十代くらいの夫婦で、大阪から来たと言っていた。男性の方が紙もの、を手に取って、地図を開いて眺めてから、「これ、もらっていいですか」と尋ねた。

「もちろんです、お持ちください」

「手書きですか、これ」

「はい。手書きで作りました」

「いいですね。温かい感じがして」

 温かい感じ。山吹が言っていたことと同じ言葉だった。

 史桜里は「ありがとうございます」と言いながら、少し胸の中で何かが動くのを感じた。作ったものが誰かの言葉と一緒に返ってくる、という感覚が初めてあった。


 それから、少しずつ声が返ってくるようになった。

 大げさなことではなかった。

 中学生の女の子が、地図を見ながら「この道、歩いてみます」と言った。一人旅の男性が「こういうの、旅先でもらうと嬉しい」と言った。地元の人が一人来て、「宇治に住んでるのに、改めて読むと新しい発見があった」と言った。

 どれも短い言葉だった。

 でも、短い言葉が返ってくるたびに、史桜里の中で何かが積み重なった。

 自分の作ったものが、誰かの宇治の時間に触れた。それが確かなこととして、少しずつ増えていった。


 叶羽は十二月半ばに、課題の講評が終わった。

 来店した日に、史桜里に教えてくれた。本人はまだ納得しきっていない顔をしていたけれど、それでも前より少しだけ、絵を見せる時の手つきが軽くなっていた。

「講評、先生にいくつか言ってもらえて」

「どうでしたか」 

「連作として見た時の流れは評価してもらえて。でも一枚ごとの完成度で、まだ甘い部分があるって言われました」

「それは直せそうですか」

「直せると思います。何が甘いかわかったから。前は落ちた理由がわからなかったけど、今回は理由があるから、次に繋がる気がして」

「それは進みましたね」

「進みました。あと」

叶羽は少し笑った。

「先生に、これどこの店の地図ですかって聞かれて」

「え」

「紙もの、持っていってたんです、学校に。先生が面白いって言ってて。宇治に行ったことがあるから、この感じわかるって」

 史桜里は少し驚いた。

「先生が」

「うん。手書きの地図と一言の文章が、よりみちを使いたくなる、って言ってました」

 よりみちを使いたくなる。

 史桜里が作りたかったものが、ちゃんと機能していた。作った目的と、受け取ってもらった感想が、一致した瞬間だった。

「ありがとうございます、持っていってくれて」

「こちらこそ。一緒に作ったから、届いた気がして嬉しかったです」


 拓人は同じ週に、ゲームが動く部分が増えた、と教えてくれた。「まだ全然です」と言いながら、前より少しだけ、言葉の端に実感があった。

「全体の七割くらいになりました」

「進みましたね」

「完成させることと良くすることを分けた効果が、ようやく出てきて。完成させることだけを考える時間に、前より集中できるようになって」

「出せそうですか、春には」

「出せるかどうかはまだわかりませんけど、出したいとは思えてます。前は、出せるかどうかより、出していいものかどうかで止まってたから。それが少し変わった」

「出していいかどうか、から、出したいかどうかに変わった」

「そうです。朝倉さんの紙もの、見てたら、そう思えてきて」

「わたしのが影響したんですか」

「完成度より、出すことで誰かに届く、という感覚が先にあった気がして。それを見て、自分のゲームも出してみたい、と思えてきたんだと思います」

 史桜里は少し間を置いた。

 自分が作ったものが、誰かの背中を押した。そういうことが起きていた。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」


 次の日、山吹は投稿している話が、ある読者に全部読まれた、という連絡をもらったと言った。大げさではない言い方だったけれど、その声には隠しきれないものが混じっていた。 

「最初から全部、読んでくれて。感想が長くて、最初びっくりしたけど、すごく嬉しくて」

「それは嬉しいですね」

「読んでくれた人が、話の中の主人公のことを、友達みたいに書いてくれてて。わたしが書いたキャラクターを、その人の中に本当にいる人みたいに感じてくれてた」

「山吹ちゃんが作った人物が、誰かの中で本当の人になった」

「そういうことだと思って、泣きました」

 山吹は少し照れた顔で言った。

「泣いていいと思います」 

「うん。なんか、やっと、書いたものが本当にあったと思えて。自分の中だけにあったものが、外に出て、誰かの中にも行った感じがして」

 あの頃、山吹は同じ言葉を使っていた。書いたものが本当にあったと思えた、と。あの時はまだ、そこへ向かっている途中だった。今日の山吹の顔は、辿り着いた後の顔だった。


 十二月の終わりに近い日、史桜里は仕事を終えてから、川沿いを少し歩いた。

 冬の宇治川は、夏より水が澄んでいた。流れは変わらなかったが、川岸の葦が枯れて、景色がすっきりしていた。橋の灯りが川面に映って、揺れていた。

 今年のことを、ゆっくりと考えた。

 四月に叶羽が来て、拓人も来た。五月に山吹が来た。それぞれとの会話の中で、史桜里の中の止まっていた何かが、少しずつ動き始めた。黒板を書き替えた。メニューカードを直した。叶羽と一緒に秋の黒板を作った。紙もの、を作った。

 大きなことは何も起きなかった。

 プロになったわけでも、認められたわけでも、劇的に何かが変わったわけでもない。ただ、手が動くようになった。作りたいから作る、という感覚が戻ってきた。誰かに届いた、という実感が、少しだけ積み重なった。

 それだけのことが、今年の史桜里には大きかった。


 橋の上で少し立ち止まった。

 欄干から川を見下ろした。水面に橋の影が映っていた。叶羽が描いていた絵のことを思い出した。朝の光の中の宇治橋。白く残した部分が光に似ていた。あの絵を最初に見た時から、ずいぶん時間が経った。

 叶羽は今年、コンペに二度落ちた。でも連作の課題を出した。来年もまた描く。

 拓人はゲームがまだ完成していない。でも七割まで来た。来年、出せると思えるようになった。

 山吹は全部読んでくれた読者と出会った。来年も書く。

 それぞれが途中にいる。完成した人はいない。成功した人もいない。でも、誰もやめていない。

 史桜里も、途中にいた。

 止まっていた途中ではなく、動いている途中に、今年ようやく入った。来年はもう少し先へ進めるかもしれない。紙ものの次のことも、少し考え始めていた。


 川沿いから、参道の方へ戻りながら、今日のお客さんのことを思い出した。

 午後に来た若い女性が、紙もの、を手に取って、一言の文章を読んでから「これ、好きな言葉です」と言った。どこかへ向かう途中に、ここがある。その言葉が好きだと言ってもらえた。

 作った言葉が、誰かの好きな言葉になった。

 山吹が言っていたことが、今日の史桜里に起きた。書いたものが本当にあったと思えた、という感覚が、今日初めて史桜里にもあった。

 参道の石畳を歩きながら、史桜里は店の灯りを見た。

「よりみち」は今日も穏やかに灯っていた。

 観光客も地元の人も、参道を行き来していた。目的地へ向かう人、帰る人、通りがかった人。それぞれがそれぞれの途中を生きていた。

 史桜里もその中の一人だった。

 止まっていた途中から、動いている途中へ。それだけのことかもしれないが、それだけのことが、今年の史桜里にとっては大事な変化だった。


 店に戻ると、佐伯がカウンターで今日の記録をつけていた。

「今日の紙もの、何枚出ましたか?」

史桜里が尋ねると、佐伯は手元を確認した。

「七枚」

「そうですか」

「先週より増えてる」

「そうですね」

 佐伯はまた記録を続けた。少ししてから、顔を上げずに言った。

「ちゃんと届いてるな」

 史桜里は返事ができなかった。

 褒められたわけではない。ただ、起きたことをそのまま言われただけだった。だからこそ、その一言はまっすぐ入ってきた。

「来年も作りますか」

 佐伯が尋ねた。

「はい」

 史桜里は迷わず答えた。

「作りたいです」

「ええじゃないか」

 佐伯はそれだけ言って、また記録に目を落とした。 

史桜里は窓の外を見た。冬の参道が、街灯の下で静寂に包まれていた。

 よりみちの先に、何があるかはまだわからない。

 でも、続いていることは確かだった。 

           ☆

 参道を歩き始めた時、後ろから引き戸の音がした。

 振り返ると、佐伯が戸締まりを確認して、こちらへ向かってきた。

「朝倉」

「はい」

「今年も、よく働いてくれた」

 史桜里は少し驚いた。佐伯がそういうことを言うのは、珍しかった。

「ありがとうございます」

「来年も頼む」

「はい。よろしくお願いします」

 それだけだった。

 佐伯は逆の方向へ歩いていった。史桜里は佐伯の後ろ姿を少し見てから、また参道の方へ向いた。

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