第06話 来襲、そして決意
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苛立ちを食欲に変えて軽く十人前を買い食いした照光は、財布の中を覗き込みながら大きくため息をつく。
「…………帳簿つけようかなあ…………」
ハァ……、ともう一度ため息を吐く。成長期だとしても通常の五倍以上を食べないと空腹で動けず、しかもなんの才能もない体を作るだなんて、神様はなんて残酷なのだと胸の内で呪うしかなかった。もしかすると『大食い』のジーニアスに匹敵するかもしれないが、穀潰しの才能を持って喜んでいいのは寄生虫までだ。
だいたい午後五時ぐらいだろうか。表通りを歩く照光が視線を巡らせるとそこには夏休みを満喫する学生、夏休みを満喫する学生、夏休みを満喫する学生、夏休みを————それ以外いなかった。ソフトクリームを舐めていたり教科書を読み歩きしていたり友達と駄弁っていたりと細かい違いはあれど、仕事をしている者はいなかった。彼らはどれも無運枠と違って国から相当な補助金もらってるから、アルバイトや奨励金どころか仕送りの必要性もないのだ。
——見方を変えれば、それほどこの国は儲かってるってわけだ。
恐ろしさはない。アリが地球を畏怖しないように、照光にとって高天原は想像の外の存在なのだ。
「ってこれじゃあ相対的にアリ以下ってことになんじゃん俺……」
勝手に想像して勝手に自己嫌悪に陥る照光であった。
——……あいつは、こんな俺の何が羨ましかったんだろうなあ……。
ふと、あの少女のことを思い出す。
それが誘起するようにポケットからハンカチを取り出す。白心が落としていった白いハンカチだ。
何度も棄てようと思ったが、まるで白心を閉じ込めたのではないかと思えるほどの存在感があるそれに、手を下す勇気がなかった。
それに、これを持っていれば白心とのつながりになるのではないか————彼女の笑顔を見れるのではないかと妄想してしまい、棄てることができないのだ。
——こんなもの持ってても意味ないってのに。
照光はなぜここまで彼女を意識しているのかがまったく分からなかった。
たしかに彼女はきれいだ。それも今まで見てきた女性の中で飛び抜けてだ。他にも浮世離れした雰囲気や何もかもを諦めきった無の表情、意外と激しい頭突きなど印象に残る要素はふんだんにあった。
でも、それだけでは照光の頭の中には残らない。記憶力がないことも周りへの関心を絶ってきたこともあるが、天才しかいないこの国で生き続けたから周りの人間はどれも同じ生き物に見えて、病的なまでに区別がつかないからだ。
それなのに、照光は彼女を克明に覚えていた。
「ッ~~~~~~」
ガシガシと頭を掻いても記憶が混ぜられることはない。あの少女のことだけが脳裏に浮かび続けた。
「だークソ、頭突きはされるしカツアゲされるし女王サマに絡まれるしで散々だ。とっとと帰ってふて寝してやる」
「ほう、ならば永久の眠りをくれてやろうか?」
虎に噛みつかれる錯覚を抱く。直後に思いっきり横へと飛んだのはほとんど反射的にだった。
数えきれないほどの銃声が照光の耳を埋め尽くした。それは自分が先ほどまでいた場所に向けられたものだと————標的は自分だと気付くのに、時間はいらなかった。
「な、なんだぁ!?」
銃弾越しにも分かる剥き出しの悪意。それは照光に素っ頓狂な声を上げさせるには充分だった。
それでも錯乱することなく受け身を取って、すぐに路地裏に飛び込む。本当は表通りの人混みに紛れて逃げたいところだったが、見ず知らずの人を巻き込むわけにはいかないし、そもそも表通りに戻ろうにも謎の襲撃者と鉢合わせするから無理な話だった。
——とにかく逃げないとまた……ッ!?
奥へと逃げながら振り返ると、すぐ後ろにありえないものが追いかけていた。
適当に結い上げた髪やたくましく大きな体、若そうだが老けた顔のおかげで着ている和装が似合う侍のような男だ。
だがこれがありえないものではない。たしかに時代錯誤な姿は超先進国のここだとそれだけで荒唐無稽に見えるのだが、問題はそいつが従えているものだった。
「ぬうぉおおおおぉキモいキモいキモぃぃいい! 何それ!? 全部武器!? もしかして数撃ちゃ当たる教信者の方ですかクソッタレ!」
青龍刀、鎖鎌、三叉槍、メイス、アサルトライフル、果ては無反動砲など数え切れない兵器群をさながら千手観音のように————嫌悪感から言えばムカデの足のように和服の至る所————それこそ襟や裾のみならず和装を突き破る形であらゆる方向に————剥き出しにしていたのだ。
ここは天才たちが集う国、高天原。あの数の武器を持てるということはあの襲撃者は収納術、または武器術の天才なのかもしれない。
だが、その天才様がなぜ自分を狙うのか、まったく心当たりがなかった。
学生カバンを投げつけるが難なく切り刻まれ、足止めにすらならない。
「ふむ、死に方ぐらいは選ばせてやろうか? 刺殺、斬殺、撲殺、銃殺、圧殺、焼殺、爆殺、すまぬが毒殺は持ち合わせておらぬが、今だとおまけで暗殺がついてくるぞ?」
彫りは深いが何を考えているか分からない表情と、袖から数え切れない銃口を向けられた照光は、背中に氷をブチ込まれる思いだった。
「うおお……おおおおおおおおおお!!」
死にたくない。
先ほどは死のうとさえ思っていた男の本能がそう叫び、己を鼓舞する叫声を上げた瞬間、自分でも驚くような行動を取っていた。
「どっしゃらい!」
「ぬんっ!?」
急停止して高速バックジャンプ、そのまま前宙カカト蹴りで襲撃者の銃器の束を弾き飛ばしたのだ。
路地裏奥へのダッシュでもビル屋上へのジャンプでもないそれは襲撃者にも予想外だったらしく、弾かれた腕に引っ張られる形で襲撃者はよろめく。その隙を突いて照光は今度こそ屋上まで一気に跳ね上がり、ホッと一息入れた。
——あー怖かった。これで追いかけてくることはないだろうな。
だが、動向を探ろうと見下ろしたが最後、待ち構えていたとんでもない光景に再び度肝を抜く羽目になった————いや、高天原の国民の特異性を考慮したら、むしろ当然のことなのかもしれない。
ビルとビルに挟まれた路地裏。その状況を利用して襲撃者は連続三角跳びを敢行していたのだ。
「うわうわうわホントこの国はなんでもアリだなクソッタレ!」
ぐんぐん昇る襲撃者は間もなく屋上に飛び上がり、数ある武器の一つ、クナイを数本投げる。
照光がそれを辛くも義手で弾くと、襲撃者は愉快そうに片眉を上げ、
「ほう? 義体とは聞いておったが、無機義体であったか。何故着けているのか、不便でないのか、材質は何かなどと気になるところは山ほどあるが、アレが選んだだけあって恐ろしいものであるな」
ここで照光は襲撃者の目が完全に閉じられていることに気づく。盲目なのか戦いを楽しむハンデとしてそうしているかは分からないが、舌舐めずりする襲撃者の瞑目はどうしてか好奇や空腹で目を輝かせる獣のそれと同じだと感じた。
「あ、アレだと? いったい誰の話をしてるんだ」
「手巾の持ち主。そういえば分かるのでは?」
ドクン、と胸が高鳴る。
なぜここで彼女のことが話に上がるのかが理解できず、混乱から鉛のように重い汗が一筋頬を伝う。
たしかに彼女には髪の色や濁った瞳などおかしいところが多々見られた。だがそれらと今回の件でなんのつながりがあるというのだ。
頭の整理をする間もなく、襲撃者は飛びかかりざまに左袖からの刀剣の束を力任せに振り下ろし、それを照光が両腕をクロスしてまた防ぐ。
ギリギリと鍔迫り合いのまま襲撃者はふむ、と何か独り合点して、
「儂の名は桶狭間戦兵衛。うぬは巻き込まれたのだよ。世界を変える力、それを巡る戦いにな」
「聖母の愛が世界を変える力だあ? 冗談は老け顔だけにしやがれ!」
「ほう、アレをただのネクストと思っておるのか。なんともまあ、滑稽ではないか? あとこう見えてまだ高校生ぞ」
不意に右袖の銃器の束を眼前に向けられる。銃口から覗かせる深淵のような黒腔があまりに不気味で、鳥肌が浮かばせながら銃身を真上に蹴り上げる。それがすんでのところで間に合って射線が逸れ、数え切れない弾丸がさながら打ち上げ花火のように空を貫いた。
もちろんこれで終わりではない。すぐに振り下ろされた銃器の束を再び上げた足裏で受け止め、撫でるようにして地面に押さえつけた。
これで両手を塞いだ。だが戦兵衛はそれでも慌てることなく閉じた目でこちらを見つめ、ほう、とまた何か一人で納得したようにつぶやいた。
「ふむ、戦い慣れてるな。先ほどの対応といい、相当の危機回避能力とそれを活かす素直な心を持っているようだ。一体どのようにしてそれを手に入れたのだ?」
「ニシシシ、そりゃどうも。でさ、ものは相談だけど、マジで勘弁してくれない? ハンカチ欲しいならあげるからさ」
「ほう、命乞いか? だが上司の命でな、うぬを殺さなければならない。悪く思うな」
そう言った直後、戦兵衛の襟首から飛び出た無反動砲が火を噴いて、砲弾がグングン空を駆け上っていった。
煙の尻尾を残すそれに一瞬驚いたが、照光はニシシ、と人の悪い笑みを浮かべ、
「焦りで暴発かよ。いくらジーニアスといえど人間ってことか、可愛いねえ?」
そう悪態をついて砲弾を追う視線を正面に戻すと————戦慄が体中を駆け巡った。
ニィィィ、と口角を上げただけの不気味な笑みが目の前にあったからだ。
逃げる理由はそれだけで充分すぎた。
地面に立てている一本の足を浮かせて戦兵衛の腹を蹴飛ばし、その反動を利用して隣のビルに移ると、
先ほどまで立っていたビルが粉チーズになって崩壊した。
正確には打ち上げられた砲弾が下方広範囲に向けて大量の小型爆弾をばら撒き、ビルを芯まで粉々に爆破したのだ。
「打ち上げ式クラスター爆弾!? オスロ条約の対象のモンをなんで持っていやがんだ!」
「聞く必要があるのか? ここだからという口上以外はいらぬと思うが?」
超先進科学国家、高天原。
日本の属国とはいえ、世界の生活水準を底上げできた所以であるこの国が不文律として、日本のみならず世界から治外法権が認められていてもありえないことではない。そもそも打ち上げ式クラスター爆弾は高天原が開発したものだ。自国で作ったものを自国で使って何が悪いと言い分が通るだろう。
それでも、どうしても納得できないことがあった。
それはある意味では、禁止兵器を持っていることより謎なことだった。
「お前なんで自分ごと殺ろうとするんだッ。命を粗末にすんじゃねえ!」
あの時、戦兵衛を蹴飛ばさずに自分だけ逃げていたら、今頃戦兵衛は肉片になっていただろう。それは当人にも分かっているはずだ。
だが、それでも動かなかった理由が照光には分からなかった。
付き合ってられないと言わんばかりに照光は逃げ、それを戦兵衛が追いかける。
「ジーニアスだったら俺なんざ簡単に殺せるだろうがッ。なんで自爆紛いのことなんざするんだよ!」
「うむ、もちろん理由はある」
戦兵衛の閉じた双眸が、まるで照光の内側を見据えるように向けられている気がした。
「儂にはとある性があってな、それは人間の死に際を見ずにはいられないというものだ。あの時は誰もが平等に光の塊を吐き出す。おそらく魂というものだろう、あれは真に美しい。人によって色や形も様々で、儂にとっては極光以上に見る価値があるものだ。それをこの手で顕現させ空へと還らせる達成感など絶頂すら覚える。それこそ死んででも味わいたいと思うほどぞ」
ゾッと背中に寒気が走り、振り返るとそこにはまたアレがあった。
口角を上げただけの不気味な笑顔だ。
「この意味が、うぬにも分かろう?」
日本刀のように研ぎ澄まされた殺意が、照光の心臓を切り裂いた。
分かるに決まっている。分からないわけがない。
死んでも殺す。言葉にするよりもその意思がはっきり伝わった。
なぜ殺すことに美しさを見出す殺人鬼が氷のように冷たく不動の殺意を卑小な無運枠に向けてくるのか。悲しいことに照光の頭では理解に及ばなかった。
そして、その襲撃者を従える黒幕がどんな人間なのか。もはや想像することすら難しかった。
「ふむ、そろそろ終わらせよう」
ガシャガシャガシャ! と剥き出しにしていた兵器群をいったん和服の中に収納し、次に出されたものもやはり兵器だった。
しかし、先ほどまでがあらゆる武器を装備した汎用スタイルだとしたら、これは少しわけが違った。
ガトリング砲やロケットランチャー、ミサイル砲など重火器のみを装備した火力特化スタイルだったのだ。
「では、見せてもらおうか。うぬの魂がどれほどのものかを」
重く低い、突き刺すような声による宣言の直後だった。
悪意の砲弾が空を覆い、害意のミサイルが宙を抉り、塗り潰すような殺意が照光を襲ったのは。
その光景はまるで、二度と日の昇らない悪夢のようだった。
「ぬぎゃぁぁあああああああああああ!」
情けない声を上げながらブースト最大ギア全開の全速力で逃げるが、それでも発射されるものには敵わない。
いくつもビルを飛び移るがその度に足場を破壊され、何度も崩落に巻き込まれそうになる。
何度爆風が体をよろめかせ砲弾が手足に当たったことか。義肢故に無傷で済んでいるが、あと数センチずれていたらどうなっていただろうか、と考えると冷や汗が止まらなかった。
しかしいくら弾が速かろうが発射源を突き放せば射程外に逃れられるというもの。照光の速さを以てすれば余裕で突き放せるだろう。
だからといって、この状況を呑み込めるわけでもなかったが。
——ツイてねえ。……ホントにツイてねえよ。
——なんだって俺なんかがこんな目に遭わなきゃならないんだよ!
——クソッタレ! クソッタレ! クソッタレ!
もはや完全に心が折れていた。無理もない、銃口が一つならまだしも数え切れないほどのそれと道連れ上等の覚悟と殺意を向けられたら、誰だって嫌にもなる。しかもその理由が不鮮明と来たものだから理不尽さすら感じた。
——だけどこの速さで走れば逃げ切れるはずだ!
照光がそう思う通り、先ほどから発砲音は響き続けるのに攻撃の波が弱まってきていることから、もう少しで砲撃の手が届かないところまで至れるようだ。
少しして振り返ると戦兵衛が米粒ほどの大きさになるまでに距離が開いていて、どう考えても攻撃が届くような距離ではなかった。
今度こそ安堵のため息をついて向き直ろうとした————その時だった。
ヂッッッ! と目にも止まらぬものが頬をかすめた。
それがなんなのかは、考えるまでもなかった。
「狙撃かクソッタレ!」
米粒ほどの大きさの戦兵衛が何をしたか見えたわけではないが、頬から滴る血潮と突き刺さんばかりの殺意から、見るよりもはっきり分かった。
追いかけながら狙撃する技術よりもその殺意の鋭さに慄き、体が強張りそうになるがそれでも振り切るようにして手近の路地裏に飛び込む。だがその直前に今度は脇腹に精密射撃を受け、衝撃と痛みに体勢を崩した照光は真っ逆さまに地面へと落ちていく。
比喩抜きで脇腹を貫いた痛みと頭から落ちていく恐怖で頭が真っ白になりそうだったが、歯を食いしばってそれを踏みとどまる。そして体を翻してなんとか着地する。
が。
「————がふぁッ、あがぁ……!!」
無理な姿勢で着地したがために衝撃を天龍の脚だけでは吸収しきれず、生身の上半身————つまり穴の開いた脇腹にも衝撃を走らせてしまった。
想像を絶する痛みが脇腹で爆発した。
まるで銃創に鉤爪をかけて内側から引っ張っているような、それとも銃創に風船を入れて膨らませているような、とにかく傷に傷を作ったようにドバドバと血があふれ出た。
「————ッ!! ……グッ——あァあァァ……」
大声は出さない。出してはいけない。
本当は痛みに身を委ねて獣のように絶叫を上げたかったが、それを許した時にはすぐにでも居場所がばれるだろう。逃げる上でそれだけは回避したかった。
何度もアスファルトに頭を打ちつける。これは痛みで痛みを押し隠すためにやっているのだが、他にも重大な意味合いがあった。
「意識だけは、しっかり……持たなきゃ……」
照光の四肢は生身ではなく無機義体だ。いくら変わっているものだとはいえ、生身や有機義体と同じように血液が巡っていることはおそらくないだろう。
つまりその分総血液量が少ないということだ。
確証があるわけでも実証したわけでもないが、人より血液が少ないと思っている照光は大量出血というものを酷く恐れている。
そして、今まさにそんな状況に直面していた。
途絶えそうな意識への気付けとして、パニックになりそうな頭の鎮静剤として、なおもアスファルトに頭を打ちつける。
もしかするとこの不思議義体なら血管とつなげポンプ代わりにして、全身の隅々に血液を行き届かせることができるかもしれないが、考えたこともないことをぶっつけ本番でやるほど、照光には勇気がなかった。
ひたすら荒い息を吐いて脂汗を流す。こうしていれば心身の不純物が排出され、少しでも落ち着くのではないかと思ってやっているが、まあやはり気休め程度だろう。
しかし大型ビジョンに流されているCMが一本終わった辺りだろうか。だいぶ呼吸が落ち着いてなんとか立てるまでに回復した。
「たらふく食ってんだから……これぐらいはやってくれなきゃな……」
ニシシ、とムリヤリ表情筋で笑顔の形を作る。それにはやせ我慢の色が多分に含まれていた。
さっさと逃げなきゃ……、と思ってふと顔を上げると、その先には人が行き交う大通り————照光の日常があった。
命を狙われることも殺意を向けられることも、ましてや狂人に遭うこともない、退屈で平和で、活気と光に満ちた日常だ。
——……俺の日常、ねえ。世界がああなだけで俺が造ったわけでもないがな。
心の中で皮肉をつぶやき、ゆっくりと歩を進める。
と、ここで大事なことを思い出してポケットに手を突っ込み、あるものを取り出す。
白心のハンカチだ。
近くにあるポリバケツのふたを開け、その中に捨てようとする。
これを持っているせいでこんな目に遭ったと考えると殺意が沸かないわけでもなかったが、これを捨てて日常に溶け込めばすべてが終わると考えたら、それもどうでもよくなってきた。
そもそもはこのハンカチに、ひいてはあの少女に対して変な感情を抱いたのが間違いだったのだ。バカにされようが頭突きされようが————嫉妬されようが二度と会うこともない人間に思いを馳せても、意味はないのだから。
心底安心した笑顔を浮かべ、ハンカチを握る手を広げようとした。
したのだが。
『愚かな人』
ピクリとも動かない。
脳裏の最奥。普段なら気にも留めないそこで、あの少女が負に染まり切った瞳と憐憫の言葉を送っていた。
頭を掻いて虚構も掻き消そうとするが、それでも機械の手が言うことを聞かずにハンカチを放そうとしない。まるで義手の意識が照光の意識と衝突し、なおかつ押さえつけられているようだった。
そして、それはこう呼びかけているようでもあった。
彼女とのつながりを手放すな、と。
『大切なのは努力することじゃなくて、自分は何ができるかを、見つけることよ』
なおも響く幻聴が機械の手を押しとどめる。いや、義手に意識などあるわけがないのだから、実際は照光の深層心理がそう言っているだけなのだろう。
だが仮にそうだとしても、その深層心理はいったい何を思ってそう言っているのか、自分でも分からなかった。
『なのに、できることが努力することだという、本末転倒な妄執に捕らわれた、愚かな人』
「黙れ。お前に俺の何が分かる。才能がないことを認めたくなくて足掻く男の、何が分かる」
黒く錆びついた感情が照光のみならず、路地裏を満たした。それほどにまで濃くて大きい、深い鬱憤だった。
『私はこんなものを持って、幸せと思ったことなんて、一度もないわ』
「嘘をつくなよ。…………嘘をつかないでくれよ!」
一転、身を斬るような悲痛な叫びを上げた。
「才能があって困る人間はいないんだ。逆に才能がなくて悩む人間はいくらでもいるんだ。だから、頼むからそんなことを言うなよ。……そんなことを言われたら、そいつらは……俺は————」
なんのために生きているんだ?
道化師の顔を歪めてそう言おうとした。だが言った瞬間自分の中の大事な柱が音を立てて崩れる確信があったから、声にすることはできなかった。
理由の一つがそれだった。
向かいの壁が爆発して吹き飛ばされた。それが声が出なかった一番の理由だった。
「あがぁ……!?」
後ろの壁に強かに体を打ちつけて、肺の中の空気を一滴残らず絞り出す。それだけで視界が真っ白に塗り潰されそうだったが、粉塵の中の影がそれを許さなかった。
ズオンッ! と粉塵から日本刀が放たれる。それから来る死の予感に弾かれるようにして首を動かすと、先ほどまで目があった位置に刀が突き立てられ、壁に深々と刺さった。
「お、おおお……」
「ぬう、よもやこれもかわされるとは。危機回避能力もここまで来るともはや獣だな。うぬの生活環境が気になってきたぞい」
戦兵衛の楽しそうな声が、路地裏に冷たく響く。
壁から抜かれた刀が今度は照光の首筋に添えられた。晴れていく粉塵とともに刀身の反射光が強くなっていき、その様子が死の恐怖が具現化されているようだった。
「だがここまでだ。アレと関わったうぬ自身を呪うことだな」
心臓がじわりじわりと締めつけられる感覚を覚えた。
「ふん、期待するにも無運枠相手では無理からぬ話か。この殺めで満たされぬとなるととんだ無駄足というわけとなるな、腹立たしい」
目だけを動かして通りを見ると、ちらほらこちらに目を向ける人がいるが、誰一人気にかけることなくこの窮地を素通りしていく。高天原の国民性もあるかもしれないが現代社会は無機質すぎる。
「死に方は、……ぬう、面倒だ。もう打ち首で良いな?」
「ちょちょちょっと待ってくれよ! なんで俺が殺されるんだよ! 理由を知らないまま死んでたまるか! いや知っても死にたくないけどね!?」
「ほう、お決まりの冥土の土産を所望するか。良かろう、何が聞きたい」
偶然だがなんとか首の皮一枚つながった。あとは隙を窺って出し抜けば勝機とまではいかないにしろ逃げれる見込みはある。
しかし、その考えは甘かったのかもしれない。
「いっ!」
ズッ、と刃が首の皮一枚に食い込み、思わず苦々しい声を上げる。
「ただし一つの問いにつき二十分の一寸ずつ刃をうぬの首に刃を入れてゆく」
口角を上げただけの不気味な笑みが、戦兵衛の顔に現れた。
「悔いなく逝くか、血の華を咲かせるか。どちらが早いであろうか、愉しみで仕方ないぞ?」
本気だ。
二十分の一寸というのがどれほどの長さなど分からないし知ったものではないが、戦兵衛の口元を見たらそう長くは持たないことが容易に理解できた。
——は、早く何か聞かないと……
——でも質問したら刃が首に……
——頸動脈ってどんぐらいの深さにあるんだ……?
——……俺はあと、何秒の命なんだ!?
「ふむ、余程の動揺と恐怖を覚えているようだな。刃に伝わる脈拍で面白いまでに分かるぞ」
照光の脳内は寿命の計算で目まぐるしく回転する。だがそれはあくまで空回りであって答えどころか計算式すら導き出せない。
刻々と命のタイムリミットが迫る。
「ふむ、ないのか? では」
「あるある! そ、そうだな、なんで空井に関わったからって俺の命を狙うんだ?」
「うむ、上司からうぬを殺せとの命令を仰せつかった、と言えばそこまでだが、アレはこの国の最重要機密にして二つとない実験動物だ。察するに、知られてはならないアレと関わったことが最大の理由であろう」
実験動物。つまり彼女はどうにかして監禁されていた場所から脱出して、逃走中に不良連中に追われていたところで照光と出会った、というわけか。
——んなことはどうだっていいんだよ!
——なんとか時間を引き延ばして活路を見出すのが先決だ!
だが死は確実に近づいている。ズズッ、と刃がわずかに奥へと食い込み、鋭い痛みが脳を刺した。切り口から血があふれ、首を伝うそれの気持ち悪さに全身が冷や汗でぬめる。
「次の問いは?」
「ええっと、……なんでお前は俺の位置が分かったんだ? 事前に俺があいつと会っていることを知っているかのように攻撃してきたし、見えなくなってもここだとはっきり分かった。まるで俺のことを見ているみたいじゃないか」
「ぬん? 気づいておらんのか? そんな目に遭っているというのに、いやはやなかなかに滑稽だ」
くい、とあごで指し示されたのは照光の右手————に握られているものだ。
「その手巾だ。それには発信機が編み込まれていてな、場所など手に取るように分かる」
「クソッタレ、そういうことだったの————」
今、この男はなんと言った?
ズズズッ、と刃がさらに食い込むが気に留める余裕がなかった。信じたくないが照光の聞き間違いじゃなかったら……、
「は、発信機だと? じゃあなんだってんだ、あいつは最初っから捕まるように仕組まれた出来レースを走らされてたってのかよ」
「ふむ、それが三つ目の問いか」
ズズズズッ、と刃がさらに食い込む。血が流れる量とスピードが一気に上がり、今度は寒気すらを覚え始めた。
「そういうことだ。それはあの化け物の母親の手作りのものらしくてな。母親との唯一のつながりであるそれをどうしても手放したくなかったのだろう」
それなのに、彼女は置いていった。
「つまり、うぬは体のいい囮として利用されたというわけだ。おうおうなんと虚しい話なのやら」
「それは違うな」
おどけた調子で悲しがるふりをしていたがはっきりと否定され、戦兵衛は強面をキョトンとさせる。
照光はレストランにいた時の彼女を思い出す。
底に黒い何かを溜めた虚ろな瞳。あれは被験体として生かされるだけの自分への絶望と同時に、命と同じくらい大切なハンカチを置いていく辛さからきたのではないだろうか。
では、なぜそうまでしてハンカチを置いていったのか。
「違うわけなかろう。……ふむ、ここまで哀れだと同情を禁じ得んな」
顎に手を当てていた戦兵衛は懐をあさり、何かを照光に放った。
「せめてもの情けだ。切腹しろ。介錯は任せられい」
ゆっくりと、目だけを動かしそれを見やる。それはキラリと光を反射する白鞘の小刀だった。
——これって……あいつにソックリじゃないか。
——冷たくてキレイで、触れると切れちゃいそうな白いあいつに……。
伸ばした手でそれを拾い上げ、誘起するように彼女を思い出す。
『たしかに私は、人形かもしれない。倉庫の奥でひっそりと、誰にも知られることなく、朽ちていくのだから』
あの言葉。
あれは普通に聞けば自虐や皮肉にしか聞こえないが、置いていったハンカチを考慮すれば別の捉え方ができるかもしれない。
たとえば————
「……あいつは、助けを求めていたんじゃないかな」
「ぬん?」
白鞘の小刀を傍に置き、ぽんっ、とごく軽い感じで首に食い込む日本刀に手を置く。
「『私を見つけて。これを置いていくから、助けに来て』って。でも、何かがあって直接言うのをためらったんだ」
「? うぬはいったい何を」
ビシィ! と甲高い音が響いた。日本刀に亀裂が入った音だ。
「……ふざけやがって」
怒り、というよりかは、悔しさに満ちた声だった。
片膝を立て、足に力を込めると、戦兵衛の口から警告が飛ぶ。
「貴様ッ、立つではないわ!」
「世界の汚点な俺にいったい何を期待しているんだか。キレイな顔して意外とバカなのかもな」
「ッ!?」
ここで何かを感じ取ったのか、戦兵衛が刀を残して大きく後ろに下がった。顔にもわずかながら緊張の色がある。
照光は気づくことがなかったが、それに面と向かっている戦兵衛は嫌でも見てしまう。
悪夢をも呑み込まんとする————魔龍の影を。
「頭突きやら罵声やら浴びせやがって。頭も心もまだジンジンすんだぞ」
ニシシシシ、とこの状況では不気味ですらある、子供っぽさに満ちた笑い声を上げながらゆらりと立ち上がり、
「そのくせ中途半端に聖女気取りやがって。助けてほしいならはっきり言いやがれってんだ」
ニヤァァァ、と不思議の国に住むチェシャ猫のような、おぞましいまでの三日月の笑みを、その顔に貼り付けた。
だが、それもほんの一瞬のこと。
玉鋼でできた日本刀を握り砕き、路地裏に弾け飛ぶは無数の金属片と、
一つの怒号。
「俺は何でも屋『にじ屋』だぞ!? 報酬さえ積めばなんだってやってやるわクソッタレがああああああああああああああ!!」
まったくをもって腹立たしい。
白心の煮え切らない態度でも戦いに巻き込まれたことでも、ましてや殺される状況に置かれていることでもない。
ただただはっきりと助けを求められないほど弱い自分に対して、苛立ちが募り爆発した。
首や脇腹からドクドクと血が滴るのも構わずに、戦兵衛に向けて怒りを吐き出す。
「ぜってぇ許さねぇ! お前も、あいつも、俺自身も!」
今思えば、はっきりと自分の思うことをぶつけてくれた白心のことが気になっていたのかもしれない。そうじゃなかったらここまで怒りに顔を歪めるはずがない。侮蔑や憐憫の目で見下すだけの周りだとこうはいかないだろう。
素直な照光が動く理由は、本当はそれだけで充分だったのだ。
単純と思われるかもしれない。短絡的と言われるかもしれない。「だから無運枠なのだ」とバカにされるかもしれない。
知ったことか。
「ブッ潰してやらああああああ!!」
目の前の男を殴り飛ばす。そしてあの少女を見つけ出す。
そして————あの少女に笑顔を教えるのだ!
次回、反撃を開始します。※11月29日。とある設定を忘れていたので追加させてもらいました。ご迷惑をおかけしてすみません。




