最終話 少女は少年に触れ、少年は少女を————
投稿です。
「……………………………………………………」
悲しむことも、怒ることも、疑問に思うこともできない。愛想笑いを浮かべることも、悲しみに顔を歪めることも、首を傾げることもできない。目の前の大切な人は、自分になんと言ったのかが理解できない。
そんな現実逃避中の照光を見て聞こえなかったと思ったのか、白心は容赦なくもう一度言い放った。
「あなたは、誰ですか?」
体が芯から震える。暑さよりも緊張よりも焦りよりももっと別な理由から汗がほとばしる。視界がゴム鞠まりのようにグニャリと歪む。
意識が混濁するのを感じながら平静を装って話しかける。
「お、俺だよ、照光だよ。冗談キツいぜ白心さんよお~ニシッ、ニシシシシシシシ……」
「? どうして、私の名前を、知っているのですか?」
「…………」
確信した。白心は自分のことを覚えていない。いや、知らないのかもしれない。
原因はなんなのか、記憶は戻るのかなどの疑問は浮かばなかった。ただ、白心の自分に向ける目が他人を見るそれと同じだという事実が照光の胸を貫いた。
溢れる理由が変わった涙を止める力すら出なかった。ただただ女の子の前で無様に泣くことしかできなかった。
「どうして、泣いてるの? 何が悲しくて、泣いてるの?」
うずくまる照光の前に座り込み、白心はその手で優しく照光の頬を撫でて涙をぬぐう。この優しさは『虹野照光』個人に向けられているのではなく『目の前で泣く悲しそうな人』に向けられている事実が何よりも照光を傷つけた。
『照光くん、今頃君は白心ちゃんの前に来て代償について気づいたことだろう。だから説明させてもらうよ』
どこから見て言っているのか黒い白衣の声がインカムから聞こえる。当然返事をする気力もないので話はそのまま続く。
『「グングニル」は君の望む通り世界にダメージを与えて君の夢を叶えるものとなった。だがその過程で起きた停電で「神の子」も止まってしまったのだ』
それで? と疑問に思うこともなく話は右から左へと抜けて行く。
『非常電源に切り替わるまでの数秒。その間「神の子」は完全に機能を停止したことになる』
「…………」
『それは生命維持機能の停止も意味していて、白心ちゃんに酸素を供給する命の水がその間だけ死の水となるということだ』
「……酸欠」
ボソッと漏れ出た言葉に『そうだ』と黒い白衣が首肯する。
『それによって身体に酸素が送られず脳が損傷、記憶野がいくらか死んでここ数週間の記憶がトんでいることだろう』
「…………」
夢と復讐、その代償。
想像よりもはるかに重いそれに照光の命と精神はまさに風前の灯だった。
『君が選んだ道だ、後悔はしないように。……どうかよろしく頼むよ、照光くん』
最後の言葉の意味を理解できないままブツッ、と通信が途絶える。顔を上げると、そこには白心の無表情な顔があり、見つめられて少しキョトンとしていた。
もうこの際記憶の有無はどうでもいい。もっと大事なことを確認しなければならない。
「どうか、しましたか?」
「……根源の羽根はなくなったか」
「えっ?」
「根源の羽根。それがなくなったのかと聞いている」
思わず険しい顔で問い詰めて怯えさせてしまったが、
「……ッ!? な、なくなってる……」
「そうか。……そうか」
それが聞けただけでもう充分だった。
照光が戦っていた理由は白心を笑わせるためであってそれ以上でも以下でもない。それを邪魔する忌むべきものが消え去った今なら、もう照光が側にいる必要はない。
淀みなく身体を起こし、その場から立ち去る。
白心は強い。拷問や脅迫、薬の副作用にも恐れずに一人で逃げ出す心の強さを持っている。そんな彼女なら一人でもたくましく生きていけるだろう。そう思うとむしろ離れることは正しいと思えた。
たとえ照光にとって白心は希望であろうと、白心にとって照光は見知らぬ存在なのだから。
そうやってすべてを納得し、照光は銃創の痛みも失血によるめまいも孤独に戻る苦しみも忘れて一人静かに笑顔を浮かべる。
子供のように純真で、太陽のように輝く笑顔を。
——もう、何も思い残すことはない。
窓縁に手を置いて地上を見下ろす。ここから飛び降りたらも照光と白心は完全な他人に戻り、それぞれの道を行く。これが最もハッピーなエンディングなのだ。
後ろ髪を引かれる前に窓縁に足をかけて、振り切るようにして足に力を込める。これですべてが終わるのだ。
そう、終わる————はずだったのに。
「ぐえっ」
急に喉が絞まり口から潰れたカエルのような声を出す。何事かと思って振り返ると、
真剣な眼差しで襟首を引っ張る白心がそこにいた。
いかにか弱い少女の腕力といえど急に予想外のベクトルに力が加わったことにより、照光はバック走で千鳥足を踏む。それによってできた窓と照光の隙間に白心が体を潜り込ませ、
「酷い怪我。すぐに治す、から待ってて」
両手で照光の頬をすっぽり覆った。だが『聖母の愛』を失ったことをもう忘れているようで、怪我を治せないことに戸惑っている様子だった。
いや、忘れているわけではない。それよりも照光を癒そうとする優しさが上回っているだけの話で、きっとこうしているのも無意識の内なのだ。
白心のそんな聖母のような人格を見せられた照光の心中は穏やかではない。
——やめろ。
自身の忌むべきものを使ってでも人を、それも初対面の人間を癒そうとする優しさ。それと向き合うことを今の照光は何よりも危惧していた。
——俺に触れるな。
「あれ? あ、あれ?」
戸惑いながら白心は照光の顔や身体をペタペタと触る。早く諦めるよう願うがその気配が一切ない。
——頼む。やめてくれ。
温もりを与えてくれたその少女に触れてしまったらもう歯止めが利かなくなる。せっかく離れる決意ができていたのに何かを渇望してしまう。
——俺はお前から離れたいんだ。
「うう〜〜〜〜」
半ばヤケといった調子で白心は照光の制服の下に手を突っ込む。ひんやりと冷たい手で照光の胴体をまさぐるが能力自体が消えているのだから当然傷が治ることはない。
——俺に触れるなッ! 離れろッ!
これ以上は危険だ。そう思って拒絶しようにもその手を突き出すことができなかった。
「どうして。どうして治らな————えっ?」
まるで信じられないものを見たように間抜けな声が聞こえた。それもそのはず、いつの間にか白心が血だらけの手で照光の義手に触れていたのだ。
「やめっ、は、離せッ!」
拒絶の言葉を聞く前に慌てて振り払おうとするがそれより速く白心は手袋を抜き取り、その黒鋼の手を自分の頬に添える。その一連の行動に一切の迷いがなかった。
まるで小春日和を満喫する白猫のように白心は目を閉じ、満ちた心から溢れるように一言こぼした。
照光が最も恐れ、同時に最も望んでいた一言を。
「温かい…………」
十文字にも満たないありふれたその単語は、照光の心を覆う拒絶の外壁を粉々に砕いた。
「きゃっ!」
照光は自身の心の底から溢れ出る想いを抑えきれず、ギュッ、と白心を抱き締めた。自身の血で白心が汚れようが構うことなく、強く、強く抱き締めた。
最初は突然の出来事に戸惑い身じろぎしていた白心も、まるで敵意がないことを知った白猫のようにやがて抵抗しなくなる。
白心はたとえ記憶がなかろうと白心なのだ。冷たいはずの無機義体から温かさを見出す、豊かな人間性を持つ少女なのだ。そんな彼女に救われた照光が彼女から離れると言う方が無理な話だったのだ。
照光はようやく自分の本心に気づく。自分はこの少女と共に生きたいとずっと願っていたのにどうして気づかないふりをしていたのだろうかと、今まで拒絶の言葉を頭の中に並べていた自分が馬鹿馬鹿しく思えて、嗚咽混じりの笑い声を漏らした。
「笑っているの? 泣いているの? 何かを思い出して、つらくなったの?」
それを聞いた白心が心配そうに照光の背中をさする。
「ニシシ、なんでもないさ。ただ、やっぱり俺はバカだなあって思っただけだよ」
「そうなの。ねえ、私、あなたのことを、知りたいわ。あなたの話を、聞かせてくれない?」
「そんなことより白心に見せたいものがあるんだ」
抱き締める手を放して白心の身体を窓に向ける。そこから見える光景に白心は吐息を漏らした。
満天の星空。
それは三等星以下も克明に浮かび上がる夜空で、街灯が少ない田舎でも滅多にお目にかかれない、それこそ停電でも起きないと見られない完璧なものだった。
見たいと願っていた光景に白心は年頃の少女らしく目を輝かせ、何回も「きれい」や「いっぱいある」、「手が届きそう」などと連呼して喜びを露わにした。照光はその美しい横顔を心ゆくまで満喫する。
「もしかして、あなたがこの光景を、用意したの?」
振り向く白心に対して照光は笑って誤魔化す。
「さあ、どうだかね」
「教えてちょうだいよ。言わないなんて、ずるいわ」
「それだけはお前に言われたくないな」
ニシシ、と屈託なく笑う照光を見て白心の顔が真剣なものとなる。それはもうちょっとで何かを知れると勘繰る顔だった。
「私はあなたに、会ったことがある、の?」
「そんなことはどうでもいいんだ。それよりも白心、大切な話があるから聞いてくれるか?」
「どうぞ」
「白心、ずっと俺の側にいてほしい。ずっと俺の心の支えになってほしい。ずっと俺を温めてほしいんだ。俺もお前を温めるから、生まれてきて良かったと思わせるから、腹を抱えるまで笑わせるから、どうか俺と共に生きてほしい。……お前の返事を、聞かせてくれないか」
「……あの、それってまさか、……プロ、ポーズですか?」
ほんのりと紅色に頬を染めて目を泳がせる白心に対して、照光は首を傾げながら、
「プロの、ボウズ? お坊さんがどうしたんだ?」
「…………」
「返事は今すぐじゃなくていい。いつまでも待つよ。それともう一つだけ言いたいことがあるから聞いてくれ」
「は、はい」
「白心、俺はお前に感謝してもしきれないほど多くをもらった。そんなお前にこの言葉を贈りたい。…………あ————」
最後の言葉を紡ごうとした時、照光の身体中から力が抜け、白心に全体重を預けてしまった。極度の失血で気を失ったか、度重なる心労で眠りに着いたか、はたまた幸せのあまりうたた寝してしまったか。それは当事者である照光にも分からないだろう。
倒れかかる照光の体に押し潰されそうになりながらも、血まみれの体を押しつけられてワンピースを汚しながらも、白心は決して突き放すことなく懸命に彼を支え、それどころか抱き締めすらした。その画は遊び疲れた息子を抱える優しい母親そのものだった。
白心は今の自分があるのは誰のおかげかを理解していた。
記憶でではなく、心で。
「……ありがとう、私だけの道化師」
白心は照光の耳元で、小さくそうつぶやいた。
次はエピローグとなります。




