第29話 魔王の目覚め
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もう何キロ走ったかも分からない。四時間以上ブースト全開ギア最大の全力中の全力で走っているから十や百では利かないだろう。
すっかり日の上がった夏空は死にかけの二人をバカにするように晴れ渡っている。こんな時でも通常運営をする世界に恨み言の一つでも吐き出したかったが、あいにく無駄にしていい体力は照光にはないので、歯を食い縛って市中を走り続けた。
ボロボロの裾と袖から無機義体の四肢を覗かせようが、身体中から滲み出る血液を足跡のように残して行こうが、口から吐かれる息が血霧のように赤く染まっていようが、酷使し続けた身体から軋むような悲鳴が聞こえようが————背中の白心の吐息と体温が次第に常識外れのものになっていくことの前では些事に等しかったので、照光は自身の異常など構わずに走り続けた。
「あともうちょっとだ。死ぬんじゃねえぞ。絶対に死————」
焦りが高じて歩道の溝にけつまずき、盛大に前へとつんのめる。白心だけは傷つけまいと受け身もせずに顔から飛び込み、何メートルも歩道のタイルで頬をミンチにした。
「あふぁ、がはぁ! ……ああぁあぁぁあぁぁぁ…………」
頬が生暖かい。白心の手の温もりが自分の血で塗り潰されているのだ。
「やめろ……逝くんじゃねえ、空井……!」
まるで見えないものを逃がすまいともがく照光の周りに野次馬が集まる。そのどれもが好奇心によるものだと気づいて照光は追い払おうとするが、血を失いすぎたからか思うように脚が立たず、上手く叫べないからほとんど見世物状態だ。
「クソッタレが……見てんじゃねえよ……」
よろめく照光の鼓膜を野次馬の心ない声が貫く。
『何あれ。誘拐? ちょっと誰か警察に連絡しなよ』
〔マジかよ、あれって無機義体じゃねえか。うわ〜気持ち悪ぅ〜〕
【なんかの撮影かな? それにしては真に迫りすぎてるけど】
[すっごい血ぃ流してるけど、ここの掃除とかどうするの?]
《うわっ、背中の奴の髪白っ! なんか不気味じゃね?》
{どうせ別れ話がもつれて包丁で刺されたとかだろ。リア充爆発しろ}
ブチン、と脳内で何かが引きちぎれた次の瞬間、照光は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
照光は歯軋りする。
——見てるかよ空井。
——お前が大好きと言った世界は苦しむお前を面白おかしく見てるぞ。
——そんなイカレた世界を俺が好きと答えるとでも思うのかよ、お前は!?
——とてもじゃないが、俺には言えないぞ……。
溢れ出る嗚咽を呑み込むことができない。
照光は物心ついた時から自分を蔑むこの世界を憎く思っている。だが、今はそれまでの比ではない。たとえ白心がどれほどこの世界を愛していようが、それだけは譲ることができない。大切な人が背中で死にかけ、そのことも知らずにのうのうと生きる人類がいる世界などどうして憎まずにいられようか。
涙や鼻水でぐちゃぐちゃの顔を持ち上げて周囲を見渡す。
そこに広がっていた光景に照光は絶句した。
人形。
三百六十度を取り囲むものが人形。向かいの歩道から眺めてくるのも人形。建物の窓から見下ろすのも人形。車道を行く自動車の運転手も人形。
人の形をしたものすべてが木製の関節を軋ませ、拍子木のような笑い声を上げ、自分の意思を持たずに操られる操り人形に見えたのだ。
もちろんそれは錯覚だ。それは当の照光も分かっている。
だが、もはやそうとしか見えない。
死にかけの白い少女の姿を見ても救済の手ではなく、人形のように一様で無個性、そして悪意に満ちた好奇の目を向けてくるものを、人間と見れるわけがなかった。
照光は歯の根から潰れるような音を鳴らす。
絶対に許さない。
救いの手を必要とするか弱い白心を嘲笑する、人形のような人類を。
ただ星空を求めているだけの白心を否定する、狂いに狂った世界を。
こんなクソッタレな悲劇を運命だと強要する、この世の森羅万象を。
たった一度でも優しい白心を人形と認識した、全無能な自分自身を!
その圧倒的な怒気は照光の価値観を侵し尽くす呪怨と、全無能の少年から憤怒の魔王へと昇華する獄炎となろうとしていた。
だが照光はそれをすんでのところでそれをためらう。照光が怒りに身を任せ、憎しみに支配されることはおそらく白心が最も危惧していることだ。白心を最優先としている照光としては白心が悲しむことだけは絶対に回避しなければならなかった。
——大丈夫、とりあえず空井のことだけを考えよう。
——怒りやら憎しみやらは今考えることじゃない。
爆発せんばかりに熱を帯びる自身の感情にそっと蓋をかけ、照光は袋から取り出した増血剤を水も飲まずにビンごと飲み干す。あとは回復することを信じて気力だけで立ち上がり、この場を去ろうとした。
だがその時————奴が現れた。
まるで、世界の守護者の責務を果たそうとせんばかりに。
「止まりなさい! そしてその女の子を今すぐ降ろしてうつ伏せになりなさい! ことと場合によってはタダじゃ置かないわよ!」
揺らぐ視界のピントをなんとか合わせ声がした方向を見ると、鋭い目つきの美少女がこちらを指差していて、その友達であろうこれまた美少女な三人が野次馬を掻き分けて前に出ていた。
先頭でこちらを睨む少女は照光がよく知る顔だった。
蠍原冥。世界の守護者を名乗る白金ネクストの少女。
おおかた友達と遊びに出かけていたのだろう。血だらけ制服の照光と違って私服でバッチリ決めている彼女らの手にはソフトクリームやらハンドバックやらがあって、いかにも夏休みを謳歌してますといった風だった。
それにしても、さすがに世界の守護者を自称するだけのことはある。どれだけ楽しんでいようとこういった場面に首を突っ込んで臆することなく自身の思い描く正義を遂行しようとする心構えは、さすがと言ったとこだろう。
だからこそ、腹立たしい。
目の前で死にかけている白い少女を背負う血だらけの男がいたら『悪』と見なし牙を剥く、善悪の判断もつかない独りよがりで完全無欠な『だけの』正義など、照光は絶対に認めない。
ポウン、と冥が右手に光球を灯らせていて、それが秘める危険性を本能で悟ってか野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
ちょうど良かった、と開けた歩道を歩き出した照光の前に冥が立ち塞がる。
「聞こえなかったの? その女の子を降ろしてうつ伏せになれって言ってるの。従わないと」
「どけ」
「聞き間違いかしら。アタシの耳には『どけ』って聞こえたけど、まさかそんなわけが」
「どけ」
「へえ、やる気なの? 言っとくけどアタシとアンタには雲泥の差というものが」
「どけ」
「……いいわ。そんなに言うのならやってやろうじゃない。いい加減アンタの力がなんなのか知りた————」
「どけ」
一言。
たった二文字でできたそれが超人をも震え上がらせる魔王の怒声になり、しかもそれが凡人以下の全無能の口から出るとは誰が思っただろうか。
それを真正面から受けた冥は雑巾を絞ったように顔面から冷や汗を溢れさせ、それを直接向けられていない三人も余波だけで慄くように後ずさった。
人間には本能的に恐怖を抱くような生物がいる。それらの多くは『死』を連想させるものでそれらから生きようとする本能が働いて恐怖を抱くのだ。
彼女ら、特に冥が置かれている状況がまさにそれだった。
唐突に、重厚な獣骨をハンマーで叩き砕いたような音が通りに炸裂する。バギィ!! という甲高く耳を裂くようなそれは、確かに照光の口から響いたものだった。
横合いに吐き出された白い欠片を見て誰かが小さく悲鳴を漏らす。
アリガトウ、という言葉と狂笑が湧いたのは、それと同時だった。
フラフラの照光はゆっくりと一歩踏み込む。震える冥はよろけるように一歩後ずさる。
「お前は何もかもを持っている。頭脳、体力、美貌、人望、才能、そして正義感。正義の味方としてこの上ない器だ。ヒーローを夢見ていた身としてはこの上なく羨ましいよ」
照光はゆっくりと一歩踏み込む。冥はよろけるように一歩後ずさる。
「なのにだ。世界の守護者であるお前は俺に向かって『止まりなさい』と言った。世界を愛するこの娘を助けようとする俺に、だ。あれ、おかしいな、そんな娘を助けようとする俺はむしろ正義のはずだよな。なのになんでお前はそんな俺に『反物質弾』を向けてんだ?」
照光は一歩踏み込む。冥は一歩後ずさる。
「それって人が触れたら跡形もなく消し飛ぶモンだったよな。それが俺に触れたら背中のこの娘もタダじゃ済まないことを理解してチカラを振りかざしてる、って言うのなら、お前は間違いなく狂ってる」
一歩踏み込む。一歩後ずさる。
「世界の守護者がこんなに狂ってるのなら、やっぱり護られるものも狂ってるんだろうな。なんせ愛する世界が映す星空を見たいと望んだ少女を否定して、その少女の死にゆく姿を面白おかしく眺める有象無象どもを肯定しやがるんだからな。なァ、正義の味方さんよォ。お前にはこの世界がどう写ってるんだ? 本当に護るだけの価値があると思ってんのか?」
踏み込む。後ずさる。
「それとも、お前の目には俺が異常に写るのか? 人としてなくてはならないものを捨ててでもこの娘を助けようとする俺の思いが異常に写るから、俺の前に立ち塞がるのか? 俺にはなァ、お前が正義という偽善と傲慢の塊に操られる傀儡にしか見えねェンだよ。なあ、どうなンだよ」
踏み。後ず。
「答えてクれ。お前ニおれガ、どウみエルンダ?」
踏。後————尻餅。
「ただ、礼だけは言わせてもらう。お前のおかげでもうためらう必要がないと分かったからな」
「あ……あ…………」
漏らすようにつぶやく冥を照光は軽蔑の眼差しで見下ろす。
——なんて皮肉だ。
——よりによって、世界の守護者が魔王を作るきっかけになるなんてな。
もはや照光の顔にためらいや情けは完全になくなっていた。
「ま、待ってください!」
今度こそ立ち去ろうとした時、冥のではない美しい声————おそらく冥と一緒にいた友人のうちの誰かのものだろう————が照光の背中にかけられたが当然止まる義理などない。構わず歩き続ける。
「お願いです、待ってください! お礼を……お礼を言わせてください!」
無視を決め込んでもかけられる声に耐えきれず、照光は再び全速力で走り出した。少女の美しい声が聞こえなくなるまで五秒もかからなかった。
「ごめんな空井、ちょっと時間食っちまった。もうちょっとで着くから耐えてくれよな」
返事はない。先ほどまであった熱く荒い呼吸は不自然なまでに小さくなり、間隔も長くなっていた。彼女の中の死の崖はもう目の前のようだ。
憎悪を覚えたと同時に、狂喜を感じた。
こんな腐った世界を護ろうとする人間が、自分たちに味方するわけがないことを確認できて、この世界は作り変えられるべきだと確信を得ることができたからだ。
——作り変える、……か。
殺すでも壊すでもなく、作り変えると決意していた照光には、もしかしたらまだ戦兵衛や計にはない温かさが残っているのかもしれない。だが、それも木の葉に灯る火と同じですぐに消えるのだろうと思えばどうでもよかった。
——安心してくれ空井。俺はこんな世界を作り変えるから。
——お前が愛して愛される最高の世界に作り変えるから。
——だから……生きろ!!
走る。
世界を捨てた魔王が、世界を求める天使を背負って、走る。




