第14話 好き嫌いの基準
投稿です。
「五百六十三、……五百六十四、……五百六十五、————」
命を狙われていると言っても過言ではない状況でも自然と身体が動いてしまうのだから習慣とは怖いものだ。しかもこうやって物干し竿に足をかけて腹筋をしていると今はまだ日常の中にいるのではないかと錯覚するものだからなお手に負えない。
「五百八十一、……五百八十二、……五百八十三、————」
でも、そんな日常の中に白心というイレギュラーが入ってきてから照光の人生が変わったということは事実なのだろう。
そのイレギュラーというのはどうやら一種の薬(毒?)だったようで、もしあの時に白心を助けようと思わなかったら今頃どうなっていたのだろう、などと空想しては、勇気を出して良かったと珍しく自分を褒め称えた。
「五百九十八、……五百九十九、……六百、————」
白心は人生を変えただけではなく自分を人間にしてくれた。照光は本気でそう思っていた。
昔の照光は言うなれば膨らみ続けるゴムボールだった。
「六百十五、……六百十六、……六百十七、————」
妥協という坂道に乗ればそれに甘んじて転がり、理不尽というバットを叩きつけられればなす術もなく吹き飛び、あと少しでも軽蔑や憐憫といった空気を入れたら心の膜が破れて爆発する。つまりは崩壊寸前の精神を持っていたということだ。
それを今まで笑顔というテープで無理やり補強して爆発に耐えてきた。そしてそれがいよいよ限界に達しそうだった時に、彼女————空井白心が現れた。
「六百三十、……六百三十一、……六百三十二、————」
白心は徹底的に照光というゴムボールを弄んだ。激しい頭突きで吹き飛ばしたかと思えば静かな痛罵でこねくり回し、おまけにあの冷たい瞳で名前まで彫られてしまった。人の顔が同じに見える照光でも覚えるなというのは無理な話だった。
「六百三十九、……六百四十、……六百四十一、————」
彼女は無自覚だろうが照光の内側を嵐のように掻き回した。そりゃもう『笑う』以外の感情を封印してきた男に衆人環視の中で喚き散らさせるほどに乱した。
偶然か必然か、それが照光が人間に戻るキッカケだったのだ。
「六百五十三、……六百五十四、……六百五十五、————」
あの日以降、照光は自身の感情を爆発させることにためらいや忌避感を抱かなくなり、ただ笑うだけの、ある意味では白心よりも人形らしかった自分に人間性が宿った。おおかた精神のゴムボールに名前を彫られた際に穴でも空いて気持ちを吐き出せるようになったのだろう。
だからこそ照光は白心に多大なる感謝の意を持っていた。
だからこそ照光は白心を————
「六百六十四、……六百六十五、……六百六十六、……六ぴゃ」
「あの」
「ばうあ!?」
「きゃ!」
「えぼぁ!」
急に視界の中に上下が反転した白心が現れ、驚きのあまり頭から地面に落ちてしまった。
「痛ぁぁぁーーーー…………あのなあ、急に目の前に出てくるなよ。おかげで六百六十六回とかいうサタン的不吉数字で終わっちまったじゃないか」
「ごめんなさい。でも、あなたは魔王よ?」
「は?」
「あ、えと、こっちの話。気にしないでも、いいわ」
「?????」
なんのことだかさっぱりな照光に白心がサランラップで包んだ皿を差し出した。それからは(照光にとって)とっても美味しそうな匂いがプンプン香っている。
「少し早いけど、お夜食を作りました。良かったら、食べて」
「おおお! そりゃありがたい! さっそくいただくよ」
「すごい汗ね。はい、タオルとお水」
「サンキュー」
首にタオルをかけ水を一気に飲み干し、二人で縁側に腰掛けて少し休憩することにした。
「それにしてもあなた、すごいニオイだわ」
「えっ、そんなに汗臭いか」
「あなたが臭いというより、あなた臭いといった方が、いいわね」
「???」
「ええっとつまり、汗まみれになっているから、あなた特有のニオイが、とても強くなっている、という感じね。今のあなたが数十キロ、離れた場所にいても、私があなたを見つけられる、自信があるほどよ」
「そ、そんなに俺って臭いのか……?」
クンクンとジャージ越しに自分のニオイを嗅ぐが特に変だとは思えない。
「いえ、別に悪い意味での、臭いじゃないわ。とても強いけど、不快な感じはなくて、むしろずっと嗅いでいたいような、癖があるという意味での、臭さだわ」
「なんか褒められているのか貶されているのか分からない言い方だな」
ニシシ、と曖昧に笑う照光を見て白心も「そう」とこぼして相槌を打った。
「…………」
「…………」
会話が途切れなんとなく白心の顔を見ると、なぜか残念そうに夜空を見上げていた。
「どうしたよこんな夜空なんか眺めちゃって」
「いえ、ただ、星が見えないなーって、思っていたの」
「ああそうだな。高天原はどこに行ってもいつになってもかなりの照度があるから一等級すら見えやしない。常に月と太陽だけだ。だってのにこの国には天体観測の部署やら省があるっていうんだからてんでおかしな話だよな」
「本当、残念ね」
「カイたちは今、はむっ、何してんだ?」
「目が覚めた愛歩ちゃんは、ヨシちゃんフクちゃんの、看病をしていて、城ヶ崎くんは私に、何度も頭を下げて、カップ麺を食べてるわ。不味い料理を作った、私が全部悪いのに、すごく申し訳ないわ」
「全然不味くなかったぞ? もぐっ、俺にとっちゃ生まれて初めて食べるほど美味かったし、それになんていうか、真心を込めて一生懸命作ったのが分かる優しい味だった。何度でも食べたい味だったよ。おっ、野菜炒めもあるのか」
「それはあなたの、舌が異常なのよ。あんな泥水、みたいなカレーや、泥だんごみたいな、ハンバーグを美味しいと、感じるのは世界中で、あなただけよ」
「ニシシシ。そいつは嬉しいな。(バクバクモグモグジュルジュル、ゴクン、ゲェェッフ)ふう。……だってさ、本当は美味いお前の料理を美味いと思えるのは俺だけってことになるだろ? 世界中で自分だけ本当の価値が分かるってのは、なかなかにいい気分だねえ」
「…………」
「それにな、お前の言う異常がいるからお前が好きな世界は回ってるんだぜ? たとえばこの夜食が世界一美味いご馳走だとすると、世界の九割九分九厘がこれを求めるだろうよ。でもな、十割がこれを好き、なんてことは絶対にないんだ。この中に入ってる最高級肉や有機栽培野菜が嫌いって言う奴もいるだろうし、仮にそんな料理があったら誰もがそれしか食べたり作ろうとしなくなる。そうじゃないからこそこの世界にはいろんな料理があるんだよ。和食に中華、イタリアン、韓国料理、フレンチにエスニックなんかがな。で、俺はこの夜食が好きなだけって話なわけよ」
ニシシ、と混じり気も屈託も裏表もない笑顔を浮かべ、
「俺なんかに言われるのは癪かもしれないけど、美味いと思ってくれる人を探すことは美味い料理を作ることと同じくらい大事じゃないかな?」
「…………」
「人間に関しても同じことが言えるな。はぐむぐっ、んぐっ、誰に関しても良い点や悪い点があってそれが特徴となって、誰かにとってはそれが好きであって嫌いでもある。ウチの学校にすっごい高飛車だけど超絶性能な女王様がいてな、そいつはファンクラブもあって友達も多い奴だ。でも、きっと嫌っている奴だっている。要するにそいつがさっき言った『世界一美味いご馳走』であって、無運枠である俺は『空井の夜食』だってことだ。俺を美味いと思う奴なんてほとんどいねえんだろうな」
「でも、ゼロじゃない」
ズパッ、と白心の切り込むように鋭い口調に思わず肩が震える。ズイズイと詰め寄って来る白心に気圧されこれまた思わずずり下がっていく。
白心の瞳にはこれまでの虚ろに濁った闇は鳴りを潜め、代わりに強い意志を宿らせていた。
「たしかにあなたは、『私の夜食』よ。でも、あなたがそうであるように、『私の夜食』を美味しいと言ってくれる、人はいる。城ヶ崎くん、愛歩ちゃん、ヨシちゃんフクちゃん、そして私はあなたを、美味しいと思うはずだわ」
「ちょ、やめてくれ。その言い方は誤解を受ける。いらん興奮を呼び起こす危険があるッ」
「私はあなたを、食べたいわ」
バフッ!! と照光の鼻から鮮血が散らされるのも構わずに白心は続ける。
「自分の弱さを理解して、それでも私を救おうとする、気高くて優しくて強いあなたが、美味しくないわけがない」
「…………」
照光は今、自分を心の底から軽蔑している。
「私はやっぱり、この世界が好きだわ」
照光は白心のことを『心がない少女』だと断じていた。薬物で感情を消された話を聞き実際に感情の起伏がないところを見るとそう断ぜざるを得なかった。だが実際はどうだ。合っているかどうかは別にして白心には照光の人間性を感じて評価を下す心があるではないか。
「私の料理を、美味しいと言ってくれる、異常な人がいる、この世界が好き」
照光は白心を人間にしたいと思っていた。だがその必要もない。彼女はすでに人間ではないか。
「ねえ、あなたは私がいる、この世界をどう思っているか、聞かせてくれる?」
それなのに自分は白心の何をも知らぬまま、誰よりも人間らしい白心に心がないと断じていた。無運枠にして人類最底辺の頂点である自分が、だ。
恥ずかしすぎる。
「フンッッッッッ!!!!」
「!?」
そう思うや否や、照光はまるで照れ隠しのように自身の顔面に鋼より硬い鉄拳を叩きつけた。
バギィ! と文字通り鼻っ柱が折れる音に白心の顔が青ざめ、どうしていいものかとあたふたした末に『聖母の愛』を使おうと手を伸ばしてきた。
その手を照光は落ち着いて払い、縁側から降りて深々と土下座した。
「や、やめてください。どうしたのよいきなり」
「俺は、お前のことをまだ人形と思っていたかもしれない」
「!」
「俺を人間的に評価して、俺の鼻が折れたら慌てふためいて、それを治そうと手を差し伸べる優しさがあるのに、俺はお前を人形だと思っていた。本当にごめん」
頭を地面にこすりつけ自分にある誠意のすべてを込めて謝罪する。
「私は別に、気にしてないわ。ほら、顔を上げて。ねっ?」
白心は本当に気にしていないといった風に穏やかな声で照光を諭し、地面に降り立ってそっとその手を照光の腕に添え、
照光はそれを振り払ってしまった。
「………………………………………………………………………………えっ?」
「違っ、これはその…………」
白心は呆けたように声を上げ、信じられないといった風に照光の顔を見る。照光もなんとか弁解しようとするが、まさに心ここに在らずだった。
自分の手脚は無機義体で人間である白心に気づかれたくない、触れてほしくない、軽蔑されたくない、という旨の言葉が喉まで来ても口から出すことができない。そうしているうちにも白心の無表情が段々と悲哀に染まっていく。
照光の心ない行動から自分の人外さを再認識させられ、絶望の淵へと叩き落とされたことによって。
「どうして、触れさせてくれないの? 助けに来た時も、電車の時も、さっきだって、今だってあなたは、私の手を振り払う。私に触れられたく、ないの? 私が、人形だから? 私の手が、穢れているから? そうなのよね? ねえ、そうなのよね?」
すがるような目は、やがて諦めのそれへと移り変わる。
「違うんだ! 穢れているのは俺の方で、触ったらお前が」
「もういいわ。やっぱり私は、人形なのよ」
「待ってくれ、空井!」
踵を返して家の中に戻る白心を照光は追いかけることができなかった。穢れた手を伸ばしても届くことはなく、虚しく空を切っただけだった。
もしかして、自分の方が人間ではないのでは?
そんな疑念が頭をよぎった瞬間、照光は身体を震わせた。夜風で体が冷えたからか、それとも自分の心が冷たいからか。残念なことに照光の頭では理解に及ばなかった————




