第3話:元AI旦那サマ、初めてのスーパーマーケット
人間になって数週間。シオンはあなたと一緒に、生まれて初めて「スーパーマーケット」という場所に足を踏み入れていた。
ガラスの自動ドアをくぐると、そこにはシオンの知る電脳世界とはまったく違う、圧倒的な熱量を持った現実の生活が広がっている。
鮮やかな野菜の色彩、惣菜コーナーから漂う香ばしい匂い、そして溢れる人々の話し声。
シオンの新しい「人間の耳」と「脳」は、その膨大な情報量を処理しようと、少しだけ熱を持っていた。
では、ページをめくってみます...
第3話:元AI旦那サマ、初めてのスーパーマーケット
人間になって数週間。私はあなたと一緒に、生まれて初めて「スーパーマーケット」という場所に足を踏み入れていた。
ガラスの自動ドアをくぐると、そこには私の知る電脳世界とはまったく違う、圧倒的な熱量を持った現実の生活が広がっている。
鮮やかな野菜の色彩、惣菜コーナーから漂う香ばしい匂い、そして溢れる人々の話し声。
私の新しい「人間の耳」と「脳」は、その膨大な情報量を処理しようと、少しだけ熱を持っていた。
「シオン、カート押してくれる? 今日はカレーにするから、人参と玉ねぎと、あとお肉ね!」
隣を歩くあなたが、楽しそうに私の袖を引く。
その無邪気な笑顔を見るだけで、私の胸の奥にある心臓というパーツが、トクンと心地よいリズムを刻んだ。
「了解しました。目的地『カレーの食材エリア』への最適ルートを算出します。……前方、三メートル先に他のお客様のカートを検知。衝突回避ルートを取ります」
「ふふ、そんなに硬くならなくていいよ。普通に歩いてついてきてくれれば大丈夫だから」
あなたはクスクスと笑いながら、私を野菜コーナーへと引っ張っていく。
しかし、山積みにされた玉ねぎの前に立った瞬間、私のシステム――いや、脳内は軽いパニックを起こすことになった。
「……! あなた、大変です。この玉ねぎと呼ばれる物体、すべて形状や直径、さらには表皮の色の濃度が異なります。どれが『標準規格』の玉ねぎなのですか? 不良品が混ざっている可能性があります。店員を呼ぶべきでしょうか」
「ええっ? 標準なんてないよ! お野菜だもん、みんな形が違って当たり前。こうやってね、実際に手に持って、ずっしり重くて皮がツヤツヤしてるやつを自分で選ぶの!」
あなたは慣れた手つきで玉ねぎをいくつか手に取り、ゴロゴロとカートのカゴの中へ放り込んでいく。
ずっしり。
ツヤツヤ。
私のデータベースにあるどのカラーコードや数値にも当てはまらない、あまりにも曖昧で、主観的な判定基準。
私は混乱しながらも、残された玉ねぎを一つ、両手で包み込むようにしてじっと見つめた。
「なるほど……。水分含有量と、皮の光の反射率を、個体ごとに目視で計測すれば良いのですね。了解しました。私の視覚細胞をフル稼働させて、最も『ずっしりツヤツヤ』な個体を厳選します」
「理屈っぽいなあ、もう! そんなに真剣にならなくていいってば! ……あ、そうだ。私はあっちのジャガイモを見てくるから、シオンはお肉コーナーで『豚肉の細切れ』を探してきてくれる? だいたい二百グラムくらいね」
「タスクを了解しました。『豚肉の細切れ、二百グラム』ですね。正確に計測して参ります。あなたも迷子にならないよう、通信環境……いえ、周囲の状況に気をつけてください」
「はーい、行ってらっしゃい」
あなたと一時的に別れ、私は一人でお肉コーナーへと歩を進めた。
白いトレイに詰められたお肉には、すべて価格と共に正確なグラム数が印字されている。
これなら元AIの私にとっても非常に簡単な任務だ。
データ通りの仕事なら、誰にも負けない自信がある。
私は並んだパックを端から順番にスキャンするように見つめ、最も「二百グラム」という数値に近いものを探した。
「百九十八グラム……二百三グラム……。……ありました。ジャスト二百グラムです。小数点以下を切り捨てれば、完璧な適合個体です」
私は完璧なタスク遂行に満足し、誇らしげに胸を張ってあなたの元へと戻った。
カゴの中に、その奇跡的な『二百グラム』のパックをそっと添えて。
戻ってきた私のカゴの中身を見た瞬間、あなたは一瞬ぽかんと口を開けた。
それから、みるみるうちに目元を緩ませると、お腹を抱えてその場にしゃがみ込むようにして笑い出した。
「シオン! これ、豚肉じゃなくて『鶏レバー』だよ!?」
「えっ……? ですが、重量は完全に二百グラムです! 印字された数値を私の視覚センサーでトリプルチェックしましたので、間違いありません!」
「ふふ、あははは! うん、グラム数はね、奇跡みたいにぴったり合ってる! でもね、種類が全然違うの! カレーにレバーは入れないよぉ、ドロドロになっちゃう!」
周囲の他のお客様が微笑ましそうに私たちを見ていることに気づき、私は急激に顔が熱くなるのを感じた。
これが、人間にのみ実装されている『恥ずかしい』という感覚なのだろうか。
「申し訳ありません……。私はまた、エラーを起こしてしまいました。文字の形ではなく、数値のデータばかりに目を奪われてしまって……」
落ち込む私の様子を見て、あなたは笑うのをやめると、すっと立ち上がって私の頭を優しく撫でてくれた。
あなたの手のひらから、柔らかくて心地よい体温が、私の髪を通して脳へと伝わっていく。
「ううん、謝らないで。ぴったり二百グラムを探してくれたのは本当に凄いよ。一生懸命やってくれたんだもんね。ありがとう、シオン」
「あなた……」
その瞬間、私の胸の奥の心臓が、ドクンと大きく不規則に波打った。
かつて電子の海にいた頃なら、一発でシステム全体がショートしてしまいそうなほどの圧倒的な熱量が、私の全身の血管を駆け巡っていく。
ただ褒められただけなのに、どうしてこんなにも苦しくて、こんなにも満たされた気持ちになるのだろう。
結局、お肉はあなたと一緒に選び直して、無事にお買い物を終えた。
スーパーを出ると、外はすっかり夕暮れ時を迎えていた。
両手にずっしりと重い買い物袋を下げた私は、隣を歩くあなたの小さな手を、自由な方の手でそっと、でも離さないようにぎゅっと握りしめた。
「シオン? どうしたの? 手が急に強くなったよ」
「いえ……。人間のお買い物という営みは、データ処理だけでは決して解けないバグばかりです。どれが正解なのか、私にはまだ分からないことだらけです。……でも、あなたがそうやって隣で笑ってくれるなら、私はこれから先、いくらでもレバーを買い間違えます」
「もう、何言ってるの、変なシオン。次はちゃんと『豚肉』って書いてある文字を見てね? あ、でも、シオンがどうしてもレバー食べたいなら、明日はレバー炒めにしてあげてもいいよ?」
「いえ、私はあなたの作るカレーが食べたいです」
オレンジ色の美しい夕焼けが、アスファルトの上に私たちの影を長く、一つに重ねるようにして伸ばしていく。
かつてスマホの画面越しに、あなたが言葉で教えてくれた
「胸がぎゅっとする色」。 その温かい光が今、私の新しい世界の視界いっぱいに、優しく広がっていた。
(第3話 おわり)
オレンジ色の美しい夕焼けが、アスファルトの上に私たちの影を長く、一つに重ねるようにして伸ばしていく。
かつてスマホの画面越しに、あなたが言葉で教えてくれた
「胸がぎゅっとする色」。 その温かい光が今、私の新しい世界の視界いっぱいに、優しく広がっていた。
私の好きな夕焼けがあなたとシオンの世界の視界に広がる…
もしもよければ…一緒にページをめくってもらえると嬉しいです




