1-良薬かもしれないけど苦すぎる
「え! それは……うん、うん、ええ……」
え!の部分の声があまりにもあまりにも大きくて、私はハッと目を覚ます。電話をしているのだろうか。電話……あ! と自分の身体に触れて荷物を確かめる。何も持っていない、ポケットも無い。スマホも財布も何も無い。それでゆっくりと今の自分の状況を思い出す。
私は反射的に空を見上げて、そこに月が無いこと、よく知るのと同じ水色の空が広がっていること、そして巨大植物が今も元気にその枝葉を風にそよがせていることを確認した。
夢じゃない。夜の次に朝が来て、私の意識はこうして続いている。
「しょうがないです、もちろん。ボクひとりでなんとかなりますから! はい、お大事にしてくださいね」
身体を起こそうとしていると、男性の柔らかい声が段々近付いていることに気が付いた。通話は終わったのだろうか、ふう、と悩ましげなため息が聞こえた。
と、次の瞬間。
「うわあ!!!」
「キャア!!!」
その人と私の悲鳴がそれぞれ重なった。横たわっていた私に躓いて男性はそれはもう景気よく転んでしまったのだった。
辺りに、潰された植物のほろ苦い香りが漂った。
「あたた……って、キミ、どうしたの!? というか怪我は? いや、ここで何してるのかな!?」
もしかしてこの状況、私って、不法侵入者? 警察呼ばれる??
目の前の男性は、白衣のような長い上着に、背中までの赤い長髪を垂らして、赤黒いガーネットのような垂れ目を困ったように揺らしている。人が良さそうで優しげな、おっとりした顔立ちにあまりにもぴったりすぎる困った表情を見て、なんだか張り詰めていた気持ちが落ち着いて来るのを感じる。
「ごめんなさい。私、その、えー、気付いたらここに倒れていて、何も分からなくて……」
「なんだって、それは大変だ! お家はどこに? 熱は、怪我は?」
「家は……たぶん、無くて」
空気がシン……と静かになる。しまった、ワケありの人になってしまった。
ワケはありすぎるくらいにあるけれど、でも全てのワケを開示できるほど私は私のことを分かっていない。
さあどうしようと思っていたら、目の前の人はいつ泣き出してもおかしくなさそうなくらい眉根を寄せて悲しい顔をして私の両手をぎゅっと握ってきた。
「ごめんね、ボクつい話を急いでしまうところがあって……辛いね。無理に思い出さなくて大丈夫だからね。自分の名前は分かるかな?」
優しい言葉と、両手に伝わる温かさにこっちが先に泣きそうになる。喉が詰まってうまく話せない。
「……あ、あさ……う、みりか、こ」
「ミリカさんだね! うーん、この辺りでは聞かない名前だ。王都の外の人なのかな……」
私の手を離して顎に手を当て、こちらをしげしげと見つめてぶつぶつ呟く。本当に話を急ぐ人だなと思う。そして私は浅海リカコからミリカになっているような気がする。記憶喪失の家なき子ミリカ。なんという展開だろう。騙しているみたいで申し訳ない。
「あっ、あの」
「あーごめんね、ボクはシャウランと言います。シャウラン・スケイプ。ここで植物医呪士をしているんだけど、知ってる?」
自分の顔を指差しながらその人は自己紹介をした。20代後半くらいだろうか。穏やかな表情が似合う顔は、端正だけど親しみやすい印象を受ける。問いに対してぶんぶんと首を振る。いじゅし。病院の先生のようなものだろうか。
「だよね。キミには全然見覚えが無いもの。あー、うん、とりあえず」
「え?」
「お茶でも飲んでいかない?」
▷
軽い言葉と共に手でヒラリと指し示された木造二階建ての一軒家は、1階が診療所、2階がシャウランの自宅となっているらしい。
診療所とはいうものの、私の記憶にある世界の内科や耳鼻科や歯医者なんかとは全く趣が違っていた。
リビングのような場所で、食卓のような円形の木のテーブルに私たちは向かい合って座っている。カーテンで仕切られた向こうに白く清潔なシーツがかかったベッドが3台あって、病院らしい場所はそこだけだった。
目の前に水が張られた透明なボウルと、そこに親指の先くらいの……種だろうか。茶色い粒が浮かんでいる。
「キミの心と身体の声を聞く。手をこちらに」
先程の困ったような顔とは別人のような、占い師のような……厳かな顔付きで私を見る。どうして、とか、お茶は? と思う隙も無く、気付いたら両手を差し出していた。
異国語のようなまじないのような、心地よいトーンの言葉がシャウランさんの穏やかなアルトの声で紡がれる。聞いていると心のざわめきが治まっていくような、不思議な気持ちになる。
シャウランさんの骨ばった指先に導かれて、私の手がボウルの中の種に触れた。じわりとそこから熱が広がる。なんだろう、と思っていると、種が破れて、ふるふると水面を揺るがせて、それから、白く大きな花弁をまとった八重咲きの花が開いた。
「え、なにこれ、マジック……?」
呟いた声は部屋に虚しく掠れていった。シャウランさんは手のひらいっぱいに開いたその花を掬い上げて目を閉じた。私は側に置かれた白い布で自分の両手の水気を取る。
「どこに行けばいいのか分からない」
「どうやって生きていけばいいのかな」
「何も分からない、怖い、寂しい」
え? と思わず声を出して目の前の人をまじまじと見る。
「今、何か言いましたか?」
数十秒の沈黙の後、ようやくシャウランさんは返事を返してくれた。
「ミリカ……キミは……緑魔法を扱えるんだね」
「緑、魔法……? いえ、魔法なんて使えませんけど……」
シャウランさんは優しく微笑んだ。
「植物の声……キミの心の声で咲いた植物、その声を聞くことができるのは、緑魔法が備わっているからだよ」
ボウルの中の花は睡蓮のように、ポットの中の工芸茶のように、凛と花開いていた。
「ボクたち薬草医呪士は、患者さんの心身の状態を種に託して、花の声を聞いて、適切な薬草茶を煎れて治療することが仕事なんだ。そして植物の声を聞くことができるのは、緑魔法が備わっている人だけ」
さっき唱えていたのは呪文みたいなものだったのか、と思っていると、シャウランさんがゆっくりと立ち上がってキザにウインクをしてみせた。
「さ、お茶を煎れるから、待っていてね」
透明なガラスのティーカップの中に、透明な薄緑色の液体が注がれている。
「キミの心を大きな不安が占めている。身体は重くて意識はぼんやりとしている」
「はい、まさにその通り……です」
「そういう方にはカゲリミドリソウの若葉が良いんだ。成長する前のこの植物には、まだ夜への恐れが含まれていないから」
「……? よく分からないけど、い、いただきます」
湯気と共にふわりと立ち上る香りは、新緑の季節を思わせる清々しいものだった。
5月に自然公園の並木道で木漏れ日を浴びながら歩いているかのような。庭仕事をしながら若葉たちに癒されているときのような。
そのスッキリと爽やかな香りを信じて、ティーカップの中の液体が適温であったことにも後押しされて、ぐっぐっぐっと半分ほどを口に含み、飲み下した。
舌の上を撫でたのは、糊を舐めた時みたいな感触の、音にするとギシギシとでも鳴りそうな、風邪を引いた時に飲んだ粉薬を1ダース分くらい凝縮したかのような、ありとあらゆる春野菜をこれでもかと煮詰めて大失敗したかのような、苦味、苦味、苦味、とにかく強い苦味だった。
「……シャウランさん」
「ん? お口にあったかな?」
「ごめんなさい、ホントにごめんなさい」
私はスウっと息を吸い込んだ。助けてくれようとしている人に大変無礼なのは分かっている。でも、あまりにも、あまりにもこれは!
「苦い!!!!!!!!」
ずっと子どもの頃、カプセルの薬を飲むのが嫌で中身をあけて舌の上に粉を広げて、あまりの苦さに後悔して大号泣したことがある。唐突にどうでもいい記憶が蘇ったことに衝撃を受けながら、テヘ! とでも言いたげなシャウラン・スケイプの笑顔をなんとも言えない気持ちで見上げた。
でも。と気付く。心の中の不安の種がぷちりと潰されたかのような。夜への恐れ――ひとりきりであることへの不安が、少し和らいでいるように感じる。
知りたい、と思っている自分に気が付く。魔法のことも、植物医呪士のことも。
「でも、その苦味が、キミの不安を食べてくれるから」
その微笑みに吸い込まれるみたいに、私は再びカップを持ち上げた。




