プロローグ-緑色の大きな満月の夜
頬をくすぐられている。
そよそよと触れてくるのはなんだろう。こそばゆい。
視界は暗かった。目を閉じているからだ、と遅れて気が付く。水底に居るかのように身体が重いし、両手足に力が入らない。
それでも、貼り付いたように閉じている自分のまぶたを、力を振り絞って開いた。
紺色の空に、大きな大きな緑色の丸い光。
月だ、と私は思う。月? 月は金色で、もっともっと小さなものであるべきだ。
ライトグリーンの月の光が私を照らしている。首を動かして右を見る。そよそよと良い香りの草が揺れていた。鼻をすっと通り抜ける爽やかな香りは、どこかで嗅いだことがあるような、初めての刺激であるような。とにかく私の頬を撫でていたものの正体はそれだった。
草原で、大きな緑色の満月に照らされながら、私は仰向けに横たわっている。
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この瞬間より前の記憶は朧気だった。
でも、ここが夢の中のような場所であることは確かだった。現実の世界では、無いように、思う。
ぼんやりと眠い頭の中で、私のような私ではないような声が囁いた。
「成功した」「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」「成功した」「成功したね」
耳の奥にキーン、と金属音が響く。頭が痛む。心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れて仰向けの身体の肺の辺りが落ち着きなく上下する。
葉擦れのようにさわさわと頭の中を撫でる声。
これが夢ではないのなら。
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私は森の中で何かを探していた。後ろからそれを見ていた。どうして目の前を歩いているのが自分だと分かるのだろう。それこそ夢を見ているような状態なのだと思う。
そんな自分の姿を、第三者の目で見るように、記憶の蓋をこじ開ける。黒いリクルートスーツ、スカートから伸びたストッキング、かかとには赤い靴擦れ。元々色素が薄めの茶色い髪を黒く染めるか染めないか迷って、染めずにポニーテールにしていた。猫背でウロウロと森の中を彷徨う姿は、どこか寂しげだった。
そうだ。この時の自分の感情がサッと脳裏を掠める。思い出す。
論文のためのデータを盗まれて。あの子はそれを上手にごまかして。みんなあの子の味方をして。暗い気持ちで受ける就職面接は全然上手くいかなくて。私は森の中で――
バキバキバキバキ!!!
突如思考に割り込んできた、何かが砕けるような音に仰天して身体が跳ねる。現実……現実かはさておき、この目の前の世界に意識が戻ってきたことを感じる。
地面に手をついて、やっとのことで上体を起こした。バキバキという音は未だに続いている。
身体を左斜め後ろに捻って見てみると、雲の上を目指す巨大な豆の木を彷彿とさせるような、大きな大きな木が地面を割ってぐんぐんと、まさに天を目指して伸び続けていた。茶色い幹に、顔よりも巨大な、鈴を潰したように丸い、薄緑色の若葉を何枚も何枚も繁らせて。
あ、ここが夢ではないのなら、私はもう現実の世界には絶対居ない。
私は確信した。見たこともない月、見たこともない植物。
輝かしい恐るべき満月を、今なお成長し続ける大樹を、首が痛くなってもまだ見上げ続けた。
ここは異世界。私が何も知らない世界。誰も私を知らない世界。
この世界は、私、浅海リカコが、ミリカとして生きる世界。お人好しで自分のことを後回しにする――優しすぎるシャウラ先生と出会って、この世界で生きていく決心をするまでの物語。
大きな大きな緑色の満月の光を浴びて、大樹はどこまでもどこまでも伸びていく。
私は草むらにもう一度仰向けになった。意識がゆっくりと溶けていく。また元の暗闇の中に、沈んでいった。
異世界でカフェ、いやマスターより薬師のイメージで……と悩みながら生まれたシリーズです。
薬草医呪士と異世界転生者がどんなお茶を煎れるのか、どんな関係を築くのか、見ていただければと思います。




