5.涙は隠して
「やあ、邪魔をするよ」
許可を得ないままに勝手に音楽練習室の扉を開けて入室してきた緑タイの男子生徒に、シオリは演奏する手を止めて顔を強張らせた。数日前に絡んできた領地貴族の令息だった。顔はろくに見ておらずうろ覚えだが、耳障りな声は記憶に残っている。
「許可を得ず演奏の邪魔をするなんて、礼儀に反するって知らないの?」
彼女を宝石のように所持できると考える貴族は多い。毎年増えるパトロン志望者にシオリは辟易としていた。
「それはすまなかった。もう一度、邪魔が入らない状態でしっかり話をしたくてさ」
黙ったまま鋭い眼差しを向ける彼女に、彼は猫なで声で訴えかけた。
「君に、この僕、ストックボーン家ジェミルの伴侶の地位を与えてもいいと思ってるんだ」
「はあ?」
反論する時間すら惜しんで不機嫌な声だけ上げるシオリに、ジェミルと名乗った男子生徒は畳みかける。
「いい加減に将来をしっかり見据えたらどうだい? 貴族の庇護者がいなくて卒業を遅らせているんだろう、僕なら親に頼んであげられる」
「いい加減にして欲しいのはこっちの方よ。私もバイオリンも見せびらかすためのアクセサリーじゃない」
シオリは苛立ち紛れに、右手に持った弓をジェミルに向けた。勢いよく突き付けられた弓に驚いて、ジェミルは一歩後ずさる。次の瞬間、彼女の肩に誰かの手が乗った。
「ちょっと、何なの」
身を震わせたシオリは、背後を振り仰いで目を丸くする。
「また、留学生か」
怒りに目がくらんでカイが扉を開けて接近してきたことに気づかなかった。
「あなたもまた、シオリの邪魔をしているんですか」
彼女が混乱している間に、ジェミルとカイの会話が剣呑な方向へ向かっている。
「どういうつもりか知らんが、そんなにも首を突っ込むというなら、僕にも考えがあるぞ!」
カイがジェミルに言い寄られるシオリを庇うのは二度目だった。苛立ちを爆発させる相手に対して一切引かず冷静に答える。
「是非その考えを聞かせてください。失礼ですが、俺が東黎帝国のシェン家の者だとご存知ですよね?」
「そ、それがなんだ、東方なんて遠い国で」
ジェミルの勢いが弱まったので、シオリも突き付けていた弓とバイオリンを下ろす。再び斜め後ろを見上げた彼女は、爛々とした輝きを放つカイの瞳に肌が粟立つのを感じた。
「確かに東黎帝国は遠いよ、でもさ、この国の議長の奥方が、シェン家の出身だけど、それはどう思ってるわけ?」
彼が家の名を持ち出したのが意外で、シオリは僅かに目を見開く。
「な、身分で圧力をかけるつもりか!」
動揺も露わに拳を震わせ始める獲物から、獣の視線は外れない。
「あなたと同じことをしてみたまでですけど……かっこ悪いよね、こういうの。だから、俺はあなたのことを誰にも言わない」
ジェミルは威圧されて得体の知れない重圧を感じて無意識に一歩二歩と後退する。庇われているはずのシオリも、身体を強張らせた。
「か、勝手にしろ。もう、二度と声を掛けてやらないからな」
パトロンになろうとした男子生徒は、捨て台詞を吐きながら練習室を出て行った。シオリはカイの手から逃れて、黒光りするクラヴィーナの蓋の上に弓とバイオリンをそっと置く。
「……素人相手に本気で威圧しちゃった。ごめん、怖かった?」
燻っていた感情がこみ上げてくるのを黙って堪えていた彼女は、優しい声を聞いて心の底から安心した。
「なんなのよ、ぐ……出てって!」
シオリは涙ぐんでいるのを隠そうと、クラヴィーナの上に置いてあったハンカチを、おぼつかない手つきで引ったくる。カイは困った顔で後頭部をかいた。
「うん、出てくけど……そうだ、シオリは月末の課外実習に参加するの?」
「は?」
間抜けな声が響いた。カイの声が遠ざかるのを感じてシオリは顔を上げる。彼は彼女と顔を合わせないよう気遣って移動していた。
「俺の班に入ってよ」
「私は……忙しい……んんっ」
掠れた声が零れ落ちて、シオリは咳払いをした。
「ナナーシュも誘うから」
「そういう、問題じゃ……ない」
内容は拒絶だったが、覇気のない口調のせいか説得力がない。
「シオリ・マドセンが泣いてたって誰にも言わないからさ」
優しい声が耳に届いたが、シオリは何も答えないままハンカチで目元を覆った。




