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4.彼女の音楽

 E線とG線を高速で移弦する練習をしていたシオリは、大胆に動かしていた右手を下ろして大きく息を吐き出した。集中しすぎて呼吸が浅くなっていた。

「ふう……もう時間かな」

 弓とバイオリンを音楽練習室中央にあるクラヴィーナの上に置いた彼女は、廊下から話し声が聞こえた気がして入り口へ向かう。学園の専門棟に音楽練習室は一つしかないので、一人の生徒が長時間独占利用することは許可されていない。次の利用者に片付ける間だけ待ってもらおうと扉を開けたシオリは、扉の横に佇んでいる黒髪の男子生徒に小首を傾げた。

「片付けるから……あれ、確か、あなたは」

「やあ、シオリ」

 邪気のない爽やかな笑顔で手を上げるカイを、シオリは訝しげに見上げる。

「練習室を使うんじゃないわよね?」

「違うよ、通りがかって、思わず聞き惚れちゃって……淑女科の子が弾いてるのは多分シオリだろうって教えてくれたから待ってたんだ」

「……何か用?」

「……そう言われると用事はないんだけど……」

 悪びれず答えたカイは、額に汗の滲んだシオリを見てハンカチを差し出す。シオリは一歩彼から遠ざかって眦を吊り上げた。

「いらない」

「もう嫁いだ姉も、バイオリンを習っていて」

 断られたのを気にした様子もなくハンカチをポケットへ戻して、彼は唐突に話し出す。シオリは警戒も露わに、彼の突き出た喉仏の辺りを睨んでいる。

「流れで何度か演奏会に行ったこともある」

「何が言いたいの」

「玄人の演奏を何度か聞いたことがあるけど、君の音の方が……綺麗だなって。すごく耳に馴染むんだ」

 言葉の途中ではにかむような笑みになるカイに、シオリは小首を傾げた。率直で下心のない称賛が、彼女の心を覆う膜を一枚剥ぎとった。

「そう……ありがとう」

 素直な礼が口からこぼれ落ちる。喧嘩腰ではない口調に驚いて、カイは目を瞬かせる。

「また、怒られると思ったよ」

「私の音に対する感想がお世辞か本気か、口調でわかるわ。純粋に音楽を褒められたら、お礼を言う。それだけよ」

 薄っすら頬を染めて視線を落とすシオリの口が僅かに弧を描いている。茫然と見つめていたカイは、我に返って自分の前髪から手を突っ込んでかき回した。

「俺の言葉を素直に受け取ってくれて嬉しいけど、そういう……態度は破壊力が……いや、ここは普通に喜んでおくべきか」

 最後の方は小声で呟いたカイの目を真っ直ぐに見つめて、シオリは不敵に笑った。異国の留学生である彼にとって、彼女の音楽は見栄や権力の象徴にはなり得ない。純粋に芸術として評価されるのだと改めて思い至る。

「建国祭ではもっと、完璧な音になる。じゃあね」

「あ、うん。また」

 ヒラヒラ手を振るカイに背を向け、シオリは練習室へ戻った。


 アルセリアでは珍しい大きな剣を背負ったカイが、廊下の先を歩いている。昨日、演奏を褒められたばかりのこともあり、挨拶をしようと口を開く。と、同時に教室から出てきた小柄な少女がカイに駆け寄った。

「カイ様!」

「やあ、ミーヤ。今朝ぶりだね」

「はい、お会いできてうれしいです……っ。あ、あの、大剣の練習? ですか? 見学してもいいでしょうか」

 ミーヤと呼ばれた淑女科の生徒は、特徴的な赤毛の先を梳く仕草をしつつ請う。大剣の柄を軽く叩いてから、彼は歩みを一度止めた。

「いいけど、ミーヤが見ていて楽しいかな?」

「た、楽しい……かどうかはわかりませんが、後学のために是非」

「わかった、じゃあ、それを置いたら訓練場においで」

 ミーヤの抱える教科書とノートを示してカイが微笑んだ。

「はい!」

 一度嬉しそうに飛び跳ねた後で、ミーヤは恥ずかしそうにスカートの裾を押さえる。

「はしたなく飛んでしまいました」

「アハハ、大丈夫。気にしないで」

 シオリは期せずして会話を聞いてしまった気まずい気持ちをひた隠し、さり気ない動きでカイの横を通りがかる。

「あれ、シオリ……これから練習?」

「今日は書庫」

「ああ、ナナーシュと勉強会をするんだ」

「そう。じゃあ」

 チラリと彼を見上げた彼女は、優しげな眼差しを注がれて、むず痒さと違和感を覚える。

「……なに?」

 笑顔でじっと見つめ続けられて、シオリは苛立ち交じりに問い返した。

「え、あ、ごめん。見惚れてた」

「バッカじゃないの」

 反射的に言い返し、シオリは足早にその場から立ち去った。


 シオリは楽器全般弾けるが、バイオリンとクラヴィーナは専攻を迷うほどどちらも得意な楽器だった。放課後気分転換にクラヴィーナの練習をした帰り、中庭にある噴水前で見覚えのない生徒に声を掛けられた。

「シオリ・マドセン嬢」

「……なんですか」

 ぶっきらぼうに答えて声を掛けてきた緑タイの男子生徒を見上げる。

「やあ、僕はストックボーン家のジェミルだ。官吏科六年だ」

「知り合いでしたっけ?」

「いや……音楽ホールのある、ウイネスを治める家の出だ」

「はあ、そうですか。では」

 気のない返事をして踵を返そうとする彼女を、ジェミルと名乗った男子生徒は慌てて呼び止める。

「待ってくれ。話の途中で帰ろうとするなんて……噂通り無礼な平民だな」

「……一人の時を狙って声を掛けてくる方が配慮がないと思うけど?」

「な……まあ、いい。君がどう感じようと僕の提案を聞いたら、態度を変えざるを得ない」

 丸みを帯びた鼻先を擦って、ジェミルは大きく目を見開いて提案した。

「君に、演奏披露の機会を与えよう」

「いりません」

 ため息交じりに答えたシオリは、柳眉を逆立てて断る。

「遠慮しなくてもいい。ストックボーン家主催だからね、名前も顔も売れる……君は目立つ容貌だから、すぐに名前が売れるだろう。なんなら、僕は……君とだったら特別親しい仲になっても」

「お断りだって言ってるの!」

 冷静に切り返しても効果がないので、彼女は大声で彼の台詞を遮った。

「な、ぼ、僕の誕生日会で演奏をしたら、貴族に名前を売れるんだぞ」

「それが何?」

「何って……君のために提案してやっている」

「余計なお世話はいらない。だいたい、アンタ誰よ。貴族だったら有名で名前を知られてると思わないで」

「なんだと、無礼だぞ!」

 先ほど名乗られたものの、覚えるつもりすらないシオリの言葉に、ジェミルは激昂して一歩踏み出す。

「やあ、もう、水は止めてあるんだね。ガス灯に照らされても綺麗だろうに」

 険悪な空気で対峙する二人の間に、のんきな声が割り込んだ。

「なんだ、君は……留学生か」

「どうも、カイ・シェンです」

 ジェミルは突然の闖入者を邪魔だとばかりに睨みつける。

「悪いが、彼女と話しているんだ。席を外してくれるか」

「話なんかもう終わった」

 これ以上苛立ちを抱えたまま会話をしたくない。踵を返したシオリの腕が無遠慮に掴まれる。

「待て、まだ」

「離して」

 不快感に肌が粟立った直後、カイがジェミルの腕を払い、シオリを背に庇って立ち塞がる。

「楽器を弾く腕を乱暴に掴むのはよろしくないと思います」

「そ、それは……」

 のんきだった声が僅かに険を帯びて響く。シオリは自分の視界を覆う背を戸惑いつつ見つめた。

「ひとまず、後日にしたらどうですか? 彼女も冷静ではないようですし」

「余計なことを……っ」

 苛立ちのまま反射的にカイの上着の裾を掴んだものの、彼は微動だにせずジェミルの方を見ている。

「マドセン嬢、何が得か、考えておくんだ、いいな」

 ストックボーン家出身の貴族令息は、捨て台詞を吐いて去っていった。遠ざかる足音を聞いて、シオリはカイから距離を取り鼻から深く息を吐く。

「やあ、何日かぶりだね、シオリ」

「なんで何事もなかったように挨拶してんの」

「ハハハ、確かに」

 噛みつかれても意に介さず、カイは爽やかな笑顔を向ける。彼女は風で乱れた栗色の髪を耳にかけた。

「アルセリアの三月は穏やかだね。風は少し冷たいけど」

 噴水前のベンチまで移動したカイはゆっくり腰を下ろす。近づくよう促すでも話しかける様子もない。

「助けたつもり? 頼んでない……っ」

 興奮冷めやらず、彼女の声はまだ鋭い。カイは穏やかな微笑のまま地面に視線を落とす。

「そういうつもりじゃないよ。せっかく綺麗な場所で綺麗な夕焼けなのに、彼も君も剣呑だったから、お邪魔したってだけ」

「……何よ、それ」

 つられて視線を景色へと向けた。教養科時代から数えて既に七年学園に在籍しているシオリにとっては見慣れた中庭だった。

「東黎帝国では芸術家は皇帝陛下の庇護下に置かれるけど、アルセリアだと違うのかな?」

「……貴族の庇護を受けて活動している人がほとんど。私は……自分を曲げて私の音を濁らせたくない」

「そっか、かっこいいね。でもさ、大丈夫? また、絡まれるんじゃないか」

「私だって逆らったら不味い貴族の顔は覚えてる。さっきの人は見たことない顔だったから、多分大丈夫」

 落ち着いた彼の声が耳に心地好い。次第に苛立ちが鎮まった。彼女は空を見上げて目を細めた。

「俺はこの国のことをまだ把握しきれていないから、お役に立てないかもしれないけど、何か困ったら大人に相談してもいいと思う、スローリー先生とか」

「……別に、困ってない。もう、行く。じゃあ」

 カイの提案を切り捨てて、シオリは踵を返した。短く改造されたベージュのスカートが風ではためいたので、慌ててスカートの裾を押さえる。チラリと振り返ったシオリの目に、じっと自分を見送る強い眼差しが映った。

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