30.小さな演奏会
音楽棟の小ホールは静寂に包まれている。観客席の最前列に議長と夫人が座り、最後列にカイとナナーシュもいた。外へ通じる扉前には議長秘書官と女性騎士がそれぞれ立って守っている。袖からホールをのぞいた後、シオリは外套を脱ぎ捨てる。ざっくり背中の開いたベルベット生地の濃茶ドレス姿で愛用の楽器を手に舞台へ進んだ。肩までの栗色の髪を結い上げ、首と耳にはオニキス石のアクセサリーを身に着けている。
「まあ……」
登場したシオリを見て、アネモネが感嘆の声を上げる。
「お忙しい中お越しくださり、感謝します。今日は私の得意な曲を三曲だけ披露させていただきます……お楽しみください」
薄化粧の施された顔の緊張は、礼を終えてバイオリンを構えた途端に解けた。彼女の時間が始まる。まずは建国祭でも弾いた、E線とG線を高速で弓が行き来する、軽やかな旋律が主役の曲『閃光と大地のステップ』を披露した。小気味好く軽快に、ホールは楽しく弾んだ雰囲気に包まれる。
「かわいらしいわ」
一曲終えて弓を下ろしたシオリの耳に、アネモネの明るい声が届いた。一礼して次に、『暁の行進、黄昏の眠り』を演奏する。戦いを鼓舞する鋭さと戦いを終えた後の穏やかさの対比を表現した曲で、力強い旋律と抑えた旋律、匙加減が難しい。超絶技巧の難曲として有名で、シオリは集中して浸りたい時にこの曲を好んで演奏した。
「すごいわ……ねえ、旦那様」
「ああ、見事な腕だ」
一曲を残していたが、議長夫妻は惜しみない拍手を贈る。シオリは大きく肩で息をしながら、呼吸を整えた。最後の曲の前にシオリは、最後列に座っているカイを見た。彼と目が合うと、シオリの胸が大きく高鳴り、甘い痺れが全身を包み込んだ。陶然とした目つきのまま弓を構えたシオリは、東方で作曲された『星巡りの愛歌』を奏で始める。
「まあ、懐かしいわ」
演者の技巧や編曲の多彩さが表現できる点を気に入って弾いてきた曲だ。
「元の曲も好きだったけど、シオリの編曲の方が好き」
カイがくれた感想で、シオリは最後の曲を決めた。感情に任せて一心不乱にかき鳴らす。官能的な旋律の時、アネモネは身をよじって頬を染め、悲愴的な旋律の時、議長は眉間に深い皺を刻んで涙ぐんだ。
演奏後、議長夫婦は立ち上がって力の限り拍手をした。シオリは全身が火照っているのを感じながら、腰を折って礼をした。
「カイの言う通り、素晴らしかったわ」
演奏会を終えたホールの観客席で、シオリは改めて議長夫妻に挨拶をした。
「ありがとうございます」
ドレスの上に外套を羽織ったシオリの背に、カイの掌が添えられている。
「マドセン嬢がカイと婚姻した暁には、ヒッタイの名のもとに庇護すると約束しよう……カイ、君を養子に迎える条件を整理してまとめた」
議長の言葉に、カイが背筋を伸ばして頷いた。議長秘書官が小脇に抱えていた封筒をカイに差し出す。
「まず、ヒッタイ家財産の相続権、議会の議席権を放棄すること。次に王国騎士団、辺境騎士団、いずれかの騎士になること、最後に国内外を問わず政治活動の放棄。これはカイ殿に連なる妻子にも適用され、違反したら直ちに除籍となります……中の書類にサインの上、私に提出してください」
秘書官の言葉に神妙な顔で頷きながら、カイは封筒を受け取った。何度も瞬きをしながらカイを見上げるシオリに、彼は穏やかな笑みを向ける。
「大丈夫」
「カイ……本当に……」
言葉に詰まるシオリの肩をカイがぐっと力を込めて抱き寄せた。
「失礼ですが、少し口を挟んでもよろしいでしょうか」
少し離れた場所で待機していたナナーシュが、横から近づいて東方式の腰と膝を折る礼を見せる。アネモネが同じ挨拶を返して、議長は会釈をした。
「大切なお話に割り込んで申し訳ありません。ですが、確認させていただきたいことがございます」
カイとシオリは、突然のナナーシュの口出しに顔を見合わせる。
「アルセリアではシオリのような才能溢れる芸術家には庇護が必要だとか。我が国では芸術家は皇帝陛下の庇護の元、自由に活動しています。こちらでも興行の権利やホールの利用権利などの自由化などの法整備をしてはいかがでしょう」
首を傾げるシオリの耳元で、カイが囁いた。
「つまり、貴族の名前がなくても公演できたりホールを借りられるように法律で保障したらどうかってこと」
「……なるほど……でも、ナナーシュ……それは私が思う、多くの人たちに音楽を届けることにはならないかもしれない」
シオリが感覚的にあっさり否定し、アネモネが補足する。
「ナナーシュ様、私も歯がゆくは思っておりました。ただ、法で自由化して会場を借りて公演を打てても、貴族の名がないと公演切符は売れません。新聞に批評すら載らず、無名の地下演者という扱いになってしまうでしょう……今のところはまだ」
ナナーシュは下がり眉の眉尻を大きく下げて、きゅっと口を結んだ。
「今後の議題の一つにはなるだろう」
議長がとりなすように言って、カイはシオリとナナーシュを見比べる。
「未来はどうなるかわからないけど、とりあえずは俺がシオリを支える。ありがとう、ナナーシュ」
シオリは小さく息を飲んで、ナナーシュに一歩近づいた。
「……私のために考えてくれたの」
「ええ、シオリが行く道を照らすのがカイだけでは不安だもの」
「それは……うん、でも……大丈夫。多分」
カイの方を見てから、シオリは泣き笑いのような表情になる。ナナーシュは、シオリの両手を取って微笑んだ。
「私もいつでも力になるから、忘れないで」
「ありがと」
二人のやり取りを黙って見守ったカイは、議長に肩を叩かれて苦笑した。




