29.謝罪、溺愛
地面に伏せていたシェードは、ザンバラに乱れた髪を直しもせず、ゆっくり起き上がった。
「まだ、やるのか」
「おう、動けなくなるまで、って言っただろう」
「わかった」
カイが剣を斜めに構えて対峙する。シオリはバイオリンケースを抱えて、訓練場の端に立っている。隣には青ざめたミーヤもいる。
「ま、まだ、やるんでしょうか」
「……そうみたい」
「シェード様、ああやってシオリさんのことを忘れようとしているんですね」
婚約解消は穏便に済んだ。謝罪する二人に、シェードが要求した償いが、本気のカイとの手合わせだった。
「うーん、それはどうかしら。私たち、そういうのではなかったから」
「そういうの、とはどういう意味で……ああ、また」
シェードが地面に倒れる重たい音が再び響いた。ミーヤが小さな両手を握りしめて呟く。
「シェードと私はお互いに恋愛感情がなかった」
「え……シオリさんを目の前にして、恋をしないって、そんな殿方いらっしゃいますか」
シオリは呆れた顔でミーヤの肩を小突いた。
「大勢いるわよ……何なの、その信者みたいな言い方」
「だって……見惚れるくらい綺麗だし、才能もあるし」
「ナナーシュの悪影響を受けてるわね。シェードはね、ちまちま小さくて、動きも言うこともかわいらしい……そういう子が好きなのよ。昔からずっとそう」
「ええ……子ども好きってことですか」
「人の幼馴染を変態にしないでちょうだい。初恋の相手はずっと年上だったから、それはない」
小柄で愛嬌溢れるクラヴィーナ講師に彼が恋に落ちた瞬間、シオリは隣にいた。内気で繊細な幼馴染が男の子に変化した日のことを、思い出す。シオリも彼女の見た目や雰囲気が大好きで、懐いていた。
「へえ……ああ、シェード様、このままでは倒れてしまうのでは」
「動けなくなるまで本気でやれってカイに頼んでたから……その可能性は高いわね。そうなったら、ミーヤ、頼んだわ」
「ええ? 私では、シェード様を一ミリだって動かせませんけど」
「アハハ、そうね」
乾いた笑い声を上げるシオリの目は僅かに翳りを帯びている。何度も立ち上がるシェードに、胸が痛んだ。肩で息をしながらも、カイが剣を振る速さは変わらない。シェードの動きはどんどん鈍くなっている。
「カイ様ったら、少しは手加減したらいいのに」
頬を膨らませるミーヤの頭をシオリがそっと撫でた。シェードは地面に転がって身じろぎすらしない。ミーヤは地面を蹴って走り出す。
「シェードが起きたら、水を飲ませて付き添ってあげて」
小柄な背中に声を掛けて、戻ってきたカイと合流した。
「こんなのが償いになるのかな」
「……わからないけど」
カイは息を整えながら汗を拭う。シオリはバイオリンケースを抱え直しながら、訓練場に残る二人を見た。
「シェード、夏より強くなってる。負けていられないな」
「そう……あの、カイ」
「うん?」
「……ありがと」
音楽棟へ向かいながら、シオリが白皙を夕陽に染めつつぼそぼそと呟く。
「何の、お礼?」
「……償いのために……アンタだけ動いてってことと。幼馴染に本気で向き合ってくれてってこと」
カイがシオリの背に手を添えて周囲を見渡した。
「最初の方はいいけど、後半はダメ」
「な、なに……」
押されるまま音楽棟の外壁に誘導されたシオリは、壁を背にカイと向き合う。彼はバイオリンケースを奪い取り、僅かに口を尖らせた。
「シェードのことでシオリがお礼を言わなくていいんじゃないかな。俺は……嬉しくない」
「別に、深い意味はな……んんっ」
そっとケースを地面に置いたカイが語尾を飲み込むよう、口を塞いだ。互いに首から耳まで一気に熱を帯びる。そのまま耳元へ口を寄せた彼は、耳朶に触れながら囁く。
「練習まで時間ないから、これで許してあげる」
「なっ……もう!」
彼の胸を押しやったシオリは、バイオリンケースを拾って音楽棟の入り口へ急いだ。扉の前で振り返ったシオリは、眉尻を下げて困った顔をしているカイを睨んでから、借りていた鍵を差して扉を開けた。




