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25.覚悟

 始業前の早朝、中庭の噴水前のベンチにカイとナナーシュが並んで腰かけている。カイの傍らには東方大剣が立てかけてあり、のどかな風景に剣呑さを加えていた。

「ああ……もう、アレには近づくなよ」

 さっと周囲を見渡してカイは声を低める。ナナーシュは胸を反らして鼻息荒く答える。

「近づきたくなくても、あちらが寄ってきてしまうのよ。不本意だけれど」

「検査の結果はいつ頃出るんだろうな」

「どうかしら……どちらにしろ、もう逃げられない」

 冷たく断じたナナーシュと異なり、カイの眼差しは凪いでいた。

「さすがにこってり絞られたな」

「おじ様にすごい力で頭をぐりぐりされたわ」

 笑いながら答えるナナーシュに、カイは苦笑して続ける。

「無茶だったけど、君が危険を冒した価値はあったよ。アレは、人を人とも思わない輩だ、早くここから追い出したい」

「ええ、本当に、許せない」

「人間に色々な一面があることなんて知っていたのに。アレの異常性に気づけなかったことを反省しないとダメだな、俺も、ダイも」

「それは私もだわ……あんな人を尊敬していたのよ……愚かすぎたわ」

 ため息交じりに力ない声で同意するナナーシュの隣で、カイは己の膝を叩いた。

「シェン家武門の誇りを、取り戻す」

 怒りは胸に燻っているが冷静な口調だった。

「ダイが安心して戻れるように、私もできることはするわ」

「ナナーシュはもう動かなくていい。特捜の副長殿にもリーせんせいにも釘を差されただろう? 俺が見ておくから、もう近づくな」

 囁いたカイが咳払いの音を捕えて振り返ると、噴水を挟んで向こう側からシオリが姿を見せた。

「おはよう、シオリ」

「おはよう、ナナーシュ……カイも」

「うん、おはよう。久しぶりだね、シオリ」

 自然と笑顔になるカイを、シオリが目を眇めて睨みつける。

「……大丈夫なの?」

 遠慮がちに問いかけられて、カイは大きく頷いた。彼女は濃い睫毛を音を立てそうなほどに瞬かせた。

「ああ、もう、心配はない。後は快方に向かうだけだって言われたから」

「ダイのことは、ナナーシュに聞いた。アンタは……」

 顔を合わせた喜びに鼓動が逸るまま、カイは陽気に答える。

「俺? 俺はこの通り、元気だよ。久しぶりに君の顔が見られて嬉しい」

「な、何を言って……そんな軽口が叩けるくらいに戻ったなら、いい」

 短い台詞だったが穏やかな声音だった。温かな気持ちに満たされるカイと黙って見守るナナーシュを残して、シオリはさっと踵を返す。離れた場所で待っていたシェードに向かって駆けて行く。

「あ、シオリ、後で君のバイオリンを聴かせてくれないか。シェードと一緒でいいから」

 遠ざかる背中に向かって叫んだ。シオリは足を止めないし、振り返らない。遠くでシェードはカイとナナーシュに気づく。彼は長い腕を上げ身振りだけで挨拶をした。婚約者同士が並んで去って行く。カイの視線を辿ったナナーシュが悪戯っぽい笑顔になる。

「シオリったら、カイのことも心配だったのね」

「うん、俺のことなんて気にもかけてないのかって思ってたよ」

 素直な感想をこぼしたカイに、ナナーシュは品の良い笑い声を上げた。

「そうなの? カイったら案外鈍感なのね」

「だってさ、ナナーシュ、傾国の乙女には、強面の騎士が婚約者として侍ってるだろう」

「乙女に侍る騎士の座をかけて戦わないの?」

 ナナーシュの言葉を聞いて、カイは立てかけてあった大剣の柄に手を置いた。

「戦ったら……乙女の生きがいを奪うだろ?」

 彼の茶色い瞳が惑って揺れる。何度も聞いた旋律が頭の中で再生された。孤高な彼女が奏でる優しい音の記憶に身を委ねる。

「カイにはあの子を守れないって? そうかしら」

 カイは無言で澄んだ青空に浮かぶ雲へ視線を向ける。ナナーシュは立ち上がってカイを見下ろし、囁いた。

「彼女があなたを選ぶなら、どうとでもできるわ。覚悟の問題よ」

 答えないカイを置いて、ナナーシュは本館玄関へ向かって歩き出す。残されたカイは暫くの間、黙って空を眺めていた。



 夜のとばりが下りてすぐ、カイは門近くの植え込みに身を潜めていた。一日中見張っていたデビットが、校門から出ていく姿を暗がりから確認する。彼の後を人影が追尾する。気配を消した騎士が自宅まで追いかけるのだろう。彼は安堵の息を吐いてから、腰に差した短剣の柄を掴んで、立ち上がる。寮の自室へ戻ろうと庭を横切る彼の耳に、冷たい風が吹きつける。いつの間にか滲んでいた汗で冷えた。

「ふう……ん?」

 彼の耳に中庭方向から話し声が届いた。凶悪犯は帰宅しているので危険はないだろうが、気になって近づいた。

「私は待てる……考え直して」

「俺のことは気にするな。自分のことを優先しろ。何のために、好きでもない男を選んだのか忘れるな」

 感情を抑えた冷静な口調だった。

「好きでもないって……そっちだって」

「ああ、でも、お前を本当に……すごいと思ってる」

シェードの手がシオリの頭に乗って、彼は寮へ戻るべく歩き出す。落ち葉を踏む音が遠ざかった。

「シオリ」

 大木に寄りかかってぼんやり空を見上げていたシオリの前に、カイが立つ。

「カイ……もしかして、聞いてたの」

「ごめん。君ほどじゃないけど俺もまあまあ耳がいい」

「そう」

 礼儀正しい距離は保っていたが、人気のない夜の中庭で二人きりだった。シオリは小さくため息をついて、真顔で彼を見上げる。

「そろそろ夕食の時間よ」

 身構えのない、静かな声だった。

「うん」

 カイも喉の奥で低く答える。

「……戻ったら」

「一緒に帰ろう……玄関までで、いいから」

 落ち葉を踏みしめながら、並んで歩き出した。彼女の頭が動くたび、手入れされた毛先が僅かにカイの肩に触れる。艶のある髪はガス灯に照らされ、柑橘を含んだ香りが漂う。

「好きでもないって」

「……カイには関係ない」

「シェードに触れられて抱かれても大丈夫? 政略結婚だったら普通なのかな……俺だったら……シオリ?」

 シオリは口を引き結んで足を止めた。自分の肩を抱きしめて僅かに身震いをする。カイは上着を脱いで差し出した。

「いらな……い」

「寒くてじゃなくて、怖くて……?」

「あ……ち、違う。私、私は……」

 桜色の唇が震えて、次の言葉が出て来ない。シオリは眉根を寄せてカイを見上げた。一歩だけ慎重に近づいて、カイは彼女の肩に上着をかける。身じろいだ彼女の首筋から、甘い芳香が立ち上った。彼は大きく息を吸い込んで、彼女の肩に上着を掛けた体勢のまま固まる。シオリも彼の上着の匂いを吸い込んだように見えた。

「君の……香り、だね」

 彼女の吐息を感じながら、暗がりに目を凝らして、丸みを帯びた白い頬や小さな顎を視線で辿る。身体中で鼓動が鳴って、うるさいくらいだった。

「あ、ん……カイ」

 シオリが喘ぐような頼りない声で名を呼んだ。蕩けるような眼差しが、直接腰に響く。カイは弾かれたように飛び退いた。

「さ……寒いから、早く帰ろう」

 急にしどろもどろになるカイに、彼女は小首を傾げる。

「なんか、変」

「うん」

 シオリは俯いて歩き出す。

「私もだけど、アンタも」

「そうだね」

 顔を見合わせて互いに頬を染めながら、二人は黙って寮への道を急いだ。


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