20.シェンの血縁
夜中に何度も夢を見て目が覚める。クロスボウで撃たれた弟を見た日から、意識不明の弟が息絶えてしまう夢は何度も繰り返し見た。アルセリアへ留学する前の夢も多い。
「兄上より俺の方が大きい」
「本当ね、ダイが家族で一番大きいわ」
末っ子を甘やかす母の大きな声は好きにはなれなかった。
「ダイ、感情に任せたらダメだ。考えてから動くようにするんだ」
「はーい、兄上。でもさ……」
弟が起こした問題を解決するのもいつもカイだった。ダイは返事だけは素直だがアルセリアでも似たような騒動を起こしている。
「カイ、兄が先です。危ない時は盾になる覚悟で」
長兄は跡取りとして常に優先された。剣や体術の腕は評価されても、自分のためには使えない。
「兄弟で大人しく演奏を聴けるのなんて、カイだけなのよ」
バイオリンを習っていた姉の演奏会にはなるべく顔を出した。カイという少年は、器用で面倒見がよく、穏やかで優しくあらねばならない。
「兄上は女子にもてるけどなんでだろう? 俺だって顔は似てるのにな」
「相手にとって都合のいいカイだから、かな」
ダイの無邪気な疑問に、笑顔の下で制御してきた感情が不意に解けてしまう。アルセリアに来てから、そんな瞬間を何度か味わった。
「カイ殿か、早いな」
目覚めてしまったので諦めて医院の庭へ出て、日課としている東方体術の基礎の形をなぞった。身体を動かしている間だけは、焦りや不安を忘れられる。カイという役割に戻れる気がする。
「おはようございます、ハミルトンせんせい」
朝の散歩に出てきたらしき医師に、丁寧に腰を折って挨拶をした。
「顔色が良くない。また、目が覚めてしまったのか」
「……はい、面目ありません」
「眠りを深くする薬を処方することもできるが……」
弟の主治医は冷静に提案する。大人からまっとうに心配をされることがくすぐったい。
「いずれ、落ち着くと思います。今はまだ平気です」
シェン家の武人として立派に振る舞えている――カイを形作っていた自信はシオリと接する日々で削られて、ダイの大怪我で弾けて消えた。
「そうか、わかった。朝陽を浴びて身体を動かすのは眠りにもいい。続けなさい……だが、無理はしないように。何かあったら私でも夫人でもいい。頼りなさい。話すだけで楽になることもある」
かつて自分が嘯いていたような上辺だけの気遣いではない、医師としての真摯な労わりが胸に響いた。医師はカイを置いて一足先に院内へ戻る。
「ふう……ふっ、はっ」
呼吸を意識しながら手足を動かす。じっとりと背中を汗が流れる。彼の脳裏に優しい高音が蘇った。
「バイオリンだね、聞こえる」
初めてシオリの演奏を耳にしたのは、お茶会に参加した帰りだった。専門棟の音楽練習室からバイオリンの音色が漏れ聞こえた。
「ああ、この音は、マドセン先輩ですね」
「聞いただけでわかるの? すごいね」
褒められた淑女科の女子生徒は頬を紅潮させてもじもじと両手を合わせる。
「いえ……あの、マドセン先輩はその、色々と悪い噂がありますけど……本当に素晴らしい演奏をなさるんですよ」
一生懸命カイを見上げる彼女の声は届いているが、内容は入って来ない。技巧も優れているが、鳴り響く音色が全身の細胞に染みわたる。
「優しい音だな……繊細なのに力強くて」
「ええ、本当に。カイ様は音楽もわかるんですね、素敵です」
腕を組んで壁に寄りかかったカイは、穏やかな笑みと流し目を女生徒に向ける。同世代から年下の少女に、笑顔で意味ありげな視線を向けると喜ばれた。異邦人として溶け込めるよう、なるべく穏やかな態度を心がけている。
「今日はありがとう。また、誘って」
「あ、はい、あの、では」
彼女ははにかんで駆け去った。カイはそのまましばらく目を閉じて、バイオリンの音色に耳を傾けていた。
医院の庭で小一時間ほど身体を動かした。彼が弟の病室へ戻ると、仕立ての良い紺色の上下に身を包んだデビットが来ていた。
「スローリー先生、おはようございます。朝からすみません」
毎日のように顔を出すデビットに恐縮しながら挨拶をする。
「おはよう。カイ、学園は明日から授業を再開するんだ。私も毎日は顔を出せなくなる。何か、困ったことや欲しいものがあったら言いなさい」
「ありがとうございます。議長の秘書官殿が面倒を看てくれているので、大丈夫です」
控え目な笑顔で答えるカイに、デビットは軽く頷いた。
「……そうか。ダイの顔色も少し良くなったように見えるな」
「はい、医院のせんせいも、王宮医局の麻酔を投与してくれたせんせいも、しっかり様子を看てくれています」
「君もあまり根を詰めずに見守るといい」
デビットが出ていき、カイは病室内に設けられた衝立の影へ行って汗をかいた訓練着を脱いでシャツとズボンに着替えた。
議長夫人であるアネモネ・シェンは、シェン家本家の出身でカイにとっては主筋の姫に当たる。彼が生まれた時には既に出国していたため、留学に際しての挨拶が初対面だった。ダイの事件があってすぐに辺境から王都へ駆けつけた彼女は、護衛の女性騎士と医院の貴賓室に泊まり込んでいる。
「カイ、今日は懐かしいだろう品を用意しました」
昼か夜か、どちらかは一緒に食事をするよう請われている。夕方にまた悪い夢を見た転寝の後、カイは貴賓室でアネモネと二人、テーブルに着いていた。給仕もこなす女性騎士が、蒸籠の蓋を開ける。むわっと湯気が立ち上り思わず喉が鳴った。
「ふふ、豚肉饅頭です」
「懐かしい、です」
「ええ、そうでしょう? 好きなだけ食べてちょうだい」
痩せて鋭利に変化しているカイの頬や顎を見て、アネモネはそっと目を伏せる。カイは何度も目を瞬かせながら、自分の皿に饅頭が乗せられる様子を眺めた。
「アネモネ様、火傷にご注意くださいませ」
女性騎士が主人に囁きかける声を聞きながら、カイは胸にこみ上げる熱さと饅頭の熱さを口へ放り込んで飲み込んだ。
「ふふ、旦那様が、私のために東方料理に通じた料理人を探してくださったことがあって、その方に頼み込んだの」
「……美味しい、です」
「そう、良かったわ。水明楼というお店の厨房にいるらしいの。頼んだらまた作ってくれるんじゃないかしら」
「アネモネ様、カイ殿に花街を勧めるのはいかがなものかと」
「まあ、花街のお店だったのね……成人したら行ってみたらいいかも?」
少女めいた笑い声を上げるアネモネに、女性騎士が呆れた顔で肩を竦める。最初は一切表情も声色を変えなかった彼女だったが、アネモネがカイに対して世間ずれした発言を繰り返すため、騎士の仮面を捨てて突っ込みを入れてくれるようになった。分家のカイが主筋の姫に意見などできないので、ありがたく受け入れている。そのまま黙ってあっという間に平らげた時、扉が開いて次の蒸籠が運び込まれてきた。
「ほら、食べなさい」
アネモネから二つ目の饅頭を勧められた瞬間、課外実習の時、シオリがぶっきらぼうに菓子を差し出す姿を思い出した。
「はい、アネモネ様。いただきます」
彼は口元を綻ばせ、胃が悲鳴を上げるまで食べ続けた。
翌朝、カイはすっきりと目覚めた。懐かしい味を心ゆくまで味わって、心身共に満たされたお陰で、夜中に夢見が悪く目覚めずに済んだ。




