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16.怯えと威嚇

 暑さと思い惑いで朝方まで眠れずに寝坊したシオリは、授業開始直前で人の気配のない中庭を必死で走っていた。朝一は出欠や遅刻に厳しい教師の授業で、遅れると放課後毎日補講を課される。

「はあ、はあ、はあ」

 専門棟の玄関より翼廊に繋がる外階段を上った方が早い。立ち入り禁止は承知していたけれど、朝だから賊もいないだろうと踏んだシオリが階段下まで辿り着くと、先客がいた。

「階段は危険だ、使用禁止となっている」

「先生、そこをなんとか」

「ダメだ。学園の規則すら守れないのか」

「遅れたら、毎日補講になって、ナナーシュと帰れなくなっちゃうんですよ」

「ナナーシュ君も、君がいない方が心穏やかに学問にまい進できるのでは?」

 ダイとデビットのやり取りだと気づいたシオリは、建物の影にそっと身を寄せる。見つかってダイと一緒に説教されるのは避けたいと必死で息を殺した。

「そんなあ、スローリー先生、ちゃちゃっと上るだけなんで」

「いい加減にしたまえ。慌てて上って階段から滑り落ちたら、二人の先輩たちのように花壇の縁に頭を打ち付けて、命の灯火も消えてしまうぞ」

 翼廊から転落して死亡した生徒二人について語るデビットの声を聞きながら、シオリは諦めて補講を受け入れることにして、静かにその場から立ち去った。


 苦手とする数学基礎の補講を受けての帰り、専門棟の音楽練習室へ向かう途中のことだった。空き教室から聞き覚えのある話し声が聞こえ、足を止める。

「……ありがとう、そんな風に思ってくれて、嬉しいけど」

「その……恋人には……」

「ごめん」

「そうですの、残念ですわ。お茶くらいはお付き合いいただけますの?」

「そうだね、チューターや弟が一緒でも良ければお受けするよ」

 扉へ向かう小さな足音が聞こえて、シオリは慌てて扉の影へ移動した。カイに告白した淑女科らしき女生徒は、駆け足で去っていった。見送ったシオリがそのまま動けずにいると、中からカイも出てくる。

「あれ、シオリ……やあ、補講、かな」

「そう」

「もしかして、シェードと待ち合わせしてる?」

「今日は……してない」

「じゃあ、ちょっと話そう。扉を開けたままならいいだろう?」

 扉を開け放ち教室内へ誘うカイを戸惑って見上げる。動かないシオリの首へ、ぬっと伸びた手が触れた。

「な、何」

「襟、よれてるよ」

「く、口で指摘しなさいよ」

 薄っすら頬を染めながら抗議するシオリに、カイは切なそうに目を細める。唇は笑みの形に弧を描いているが、眼光には強さがない。

「ここで大声で君の美貌を礼賛してもいいけど」

「中で、聞くわよ」

 スラリと伸びたカイの背に続いて教室へ入ったシオリは、手近な机に教科書とノートを置く。カイは少し離れた席に着いて、机を抱えて上体を伏せた。

「……何? 疲れているなら、帰って休んだら」

「シオリ見てると癒されるから」

 自分の腕に顎を乗せるカイの柔らかそうな黒髪を睨んで、彼女は小声で答える。

「……変わってるわね。私だったら、ミーヤでも眺めるけど」

「ハハ、うん。ミーヤも癒されるかな。でも、君といたら、大会後の重たい疲れも吹き飛んじゃうかな」

 軽口交じりの口説き文句を受け流し、シオリは窓の外へ目を向けた。ガス灯に光が入り始めているが、夏の夕暮れは明るい。

「シェードと……本気、出したって」

「うん、出した。出さないと勝てなかったから……俺はここで騎士になるために留学してるわけじゃないから、譲っても良かったんだけど」

「ダイも言ってたけど本当に上からね。失礼すぎる」

「ハハハ、そうだよね。うん、俺もそう思うよ」

 窓の外を眺める滑らかな頬の線を、顔を上げた彼が穏やかな笑顔で見つめる。机に伏せるカイの茶色く光る瞳とシオリの黒目がちの瞳がぶつかった。彼女の鼓動が一つ大きく鳴った。何度も瞬きをして慌てて目を逸らす。

「そんなに瞬きをしたら、睫毛の音がうるさいんじゃない?」

「そんなわけないでしょ」

「ふう、シェードが羨ましいな……ねえ、アルセリアでは、剣技大会の優勝者には、刀剣の女神から祝福がもたらされるって聞いたんだけど」

「……ナナーシュが調べた古い物語の話でしょ」

「せっかく優勝したから、ご褒美にここに祝福、くれる?」

 すっと立ち上がったカイは自分の頬を指差してから、素早くシオリの隣まで移動した。

「し、するわけ、ないでしょっ」

「うん、そっか。ほら、俺、君の婚約者に失礼にならないよう本気出したし。それに対する感謝でも……名目はなんでもいいかな」

 甘さを帯びたカイの声に耳を塞いで、シオリは背を丸めて壁際まで逃げる。誘われるよう彼女に身を寄せたカイは、両肘を曲げて両手を挙げた。

「ごめん、つい……狩猟本能?」

「ば、ば……」

「うん?」

「バッカじゃないの!!」

 叫んだシオリは、教科書とノートを置いたまま空き教室を飛び出す。

「シオリ―、忘れてるよー」

 どこか間延びしたカイの声を背に、シオリは出くわしたデビットに叱られるまで廊下を全速力で走った。

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