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15.決着と不穏

 社会科準備室の壁にかけられた、型崩れをしていない上質そうな紺色の上着を眺めて、シオリは欠伸を噛み殺している。

「ナナーシュ君の提示した法を根拠に教頭先生に直談判しておいた。まるで建国当初の宰相バルデンのようだったな。白霜はくそうの法廷を髣髴とさせる。暴徒を武ではなく知と数字で鎮圧せしめたんだ……」

「宰相バルデンは私も尊敬する偉人ですわ。努力と公正の象徴としてリー家でも話題に上る有名なアルセリア人で……」

 シオリに絡んだ生徒がどうなったのか、経緯の説明を受けにきたというのに、デビットとナナーシュの間で歴史談義が始まっている。シオリは二人の会話を聞き流しながら視線を彷徨わせた。部屋の隅に置かれた棚には骨董らしき品が整然と並んでいる。一番下の棚だけは生成りの布で覆われていて、妙に気にかかった。

「教頭先生の話では、彼のご両親は、彼をノルディアの学園に編入させるおつもりのようだ」

「そうなんですか……」

「彼はせっかく授かった精巧な地図を捨てた。ナナーシュ君、君のようにただひたすらに知の道を行く生徒を私は……」

 デビットの縁なし眼鏡の奥の瞳が爛々と輝く様子を欠伸を押し殺した涙目で眺めて、シオリが割って入る。

「あの、先生」

「なんだ、シオリ君」

「ナナーシュと歴史談義をするために呼んだなら、帰っていいですか」

「まあ、ごめんなさい、シオリ。私ったら、先生も申し訳ありません」

 恥ずかしそうに頬を押さえるナナーシュに、シオリは肩を竦めて見せた。

「んん、そうだったな。君に付きまとっていた生徒は謹慎処分が下された。期間が明けるのを待たずに自主退学となるだろう。もし復学したとしても、君には接近しないよう、監視をつける」

 デビットはシオリに向けて発言しているにも関わらず、目線だけはナナーシュを捕らえている。シオリは眉間に皺を寄せて二人を見比べた。

「そうですか、モーガン家も抗議したようなので、復学は難しいでしょうね」

「周りを跳び回る蝶や羽虫に惑わされた者の末路は悲惨だ」

 デビットは吐き捨てるよう断じた後、立ち上がって壁にかかっている上着の方へ歩み寄る。

「……モーガン家からの抗議について、教頭先生に報告しておく必要があるな」

 上着を羽織りながら呟くデビットを他所に、シオリは何気ない素振りで棚へ移動して、布で目隠しされた一番下の棚をのぞき込もうとした。

「やめたまえ!」

 大声で注意されたシオリは、目を丸くして手を止める。

「先生、シオリは男性に恐ろしい目に遭わされたばかりですから、そのような大きな声は……」

 静かに抗議するナナーシュを見つめて、デビットは小さく息を吐き出した。

「すまない、その棚の一番下には、触れたら怪我をするかもしれないガラクタがしまってあるんだ」

「あら、先生のお気遣いでしたか、差し出がましいことを申し上げました」

 丁寧に頭を下げるナナーシュに、デビットは苦笑して首を横に振る。

「いや、大声を出す必要はなかった。すまない、シオリ君」

「いえ……」

 シオリは棚から遠ざかり、ナナーシュの隣へ戻った。

「とにかく、今回の件もあり、君に近づこうとする羽虫はもう湧いては来ないだろう。安心して卒業公演の準備にまい進しなさい」

 襟元をただしたデビットは、女生徒二人を促して社会科準備室を後にした。



「あの、シオリさん」

「ああ、ミーヤ、どうしたの」

 寮の食堂で夕食を食べ終えて帰り、部屋に戻る途中でシオリはミーヤに呼び止められた。自室以外は制服で過ごすことが求められているが、夏は全てきっちり着込んでいると暑すぎる。女子寮内では、シオリもミーヤも半そでのブラウスにスカートという、最低限の簡素な姿だった。

「談話室でお話しませんか?」

 初夏の課外実習以降、ミーヤとシオリの距離は近づいている。ミーヤは時間が合えばシオリのバイオリン練習を見学した。ナナーシュの開くお茶会でも、定期的に顔を合わせている。

「いいけど」

 ミーヤに対しては、毒針を出して威嚇するかのごとき言動も減っている。並んで玄関ホールまでやってきた二人は、誰もいない談話室へ入った。

「あの、お怪我したって聞きました。噂では、もうバイオリンが弾けないかもなんて……大丈夫ですか」

 剣技大会直後の出来事が、尾ひれの付いた噂となって広まっているらしい。シオリは苦笑して首を横へ振る。

「手首を掴まれただけ。何日か痕は残ったけど、それだけよ」

「痕が……酷いわ、私ももっと気をつけて見ていれば良かった。カイ様たちを呼びに行ったときに言ってくだされば、応急処置もできたのに」

 憤慨するミーヤに、シオリは淡く微笑んだ。

「ハハ、ミーヤって、お人好し」

「笑っている場合じゃありませんっ、あなたは綺麗で特別なんだからもっと気をつけないといけません」

 本心から忠告しているのだろうミーヤの肩をそっと叩いて、シオリは椅子を引いて腰を下ろす。立ったまま会話していたことに気づいて、ミーヤも隣の椅子を引いた。

「特別、か……私はただ、思う存分音楽に浸って、私の音を響かせたいだけ。特別といえば、特別わがままなんだろう、とは思う……て、変なこと言ったわ」

 誰にも明かしたことのない気持ちが零れ出て、シオリ自身が驚く。

「変じゃありません。シオリさんのその、特別なわがままは、私たちの心に響いています。優しさや温かさ、切なさや悲しみも、あなたの音楽が包み込んでくれる。ねえ、だから、もっと自分を大切にしてくださいね」

 率直で真っすぐなミーヤの言葉に、シオリは涙ぐみそうになって口を噤んだ。ミーヤはポケットからハンカチを出して額と首に浮かんだ汗を拭って立ち上がる。

「窓を開けましょうか、暑いですね」

「そうね」

 ミーヤが窓辺に移動した隙に、シオリもハンカチを出して目元を拭った。ミーヤが窓を開け放つと同時に談話室の扉が開く。

「ああ、シオリ、ここにいたのか」

「シェード」

 扉を開け放ったまま、彼が室内へ足を踏み入れた。

「あの、私はこれで失礼しますね」

 気を利かせたミーヤが慌てて去ろうとして、シェードの前で躓く。さっと屈んで手を伸ばしたシェードが、ミーヤの腹部を支えた。驚いて両腕を振り上げたミーヤの指先がシェードの顎に当たる。

「あ、きゃ、ごめん、なさい」

 シェードは片手でミーヤの腹部を、片手で彼女の腕を掴んで、ダンスの時のような体勢を取ってからそっと彼女を解放した。成行き上の動きだったが、見ていたシオリは笑い声を上げる。

「ハハハ、なあに、そのダンス」

 真っ赤になって抗議するミーヤの旋毛をシェードはじっと見下ろしている。

「お、踊ってません」

「……すまない、驚かせた」

「い、いえ」

 低く優しい声が頭から降ってくるのを、ミーヤはおずおず見上げた。シェードの大きな手がそっとミーヤの赤毛の頭を撫でる。

「あ……あの、私、猫じゃありません」

 何度も頭を撫でてくるので、ミーヤが抗議するとシェードはゆっくり動きを止めた。ミーヤはシオリの方を向いて頭を下げる。

「じゃあ、シオリさん、お休みなさい……モーガン様も」

「お休み」

 シオリが軽く手を振ると、ミーヤは髪に負けないくらい赤い顔のまま談話室を飛び出した。シェードは己の掌を眺めてから、シオリに近づく。

「……小さいな」

「なあに、ミーヤのこと?」

「ああ」

 答えながらシオリの斜め前の椅子に座ったシェードは、開け放ったままの扉の方を向いた。

「何度か会ってるでしょ? 一回お茶会に来たじゃない」

「座っていたから気づかなかった」

「ふうん……そういえば、シェードって昔から小さい物が好きだったわね……兎のぬいぐるみとか」

「小さいミィのことか。ミーヤとミィ、似ているな」

 ふっと笑みを零すシェードに、シオリは目を丸くする。

「淑女科の子は、ぬいぐるみに似てるって言われても喜ばないと思うけど」

「そうなのか。かわいいのに」

「まあ、栗鼠みたいでかわいいけど」

 小柄で控え目な顔立ちも相まって、シオリはひそかにミーヤのことを栗鼠のようだと思っていた。二人でミーヤのことを考えて笑顔を浮かべていたが、不意に互いの顔を見て現実に引き戻される。

「……シオリ、遅くなってすまないが、剣技大会の日のことだ」

「ああ、うん」

「負けたからと君を避けたせいで、怖い目に遭わせた」

「怖いじゃなくて、痛い、ね。もう治ったわ」

「悪かった」

 静かに目を伏せ頭を下げるシェードの白金色のポニーテールを、シオリは黒目がちな大きな瞳で見つめる。

「シェードのせいじゃない……仕合、残念だったわね」

「ああ、完敗だ。本物の剣だったら死んでいた。あそこまで容赦なくやられたのは初めてだ。カイの強さは……学生では太刀打ちできないな」

「そう……確かに、ヘラヘラしてるけど、妙に迫力を出す時、あるわね」

 纏う空気を変えたカイを何度か見る羽目になったことを思い出し、シオリがため息交じりに言った。

「カイなら俺より巧くシオリを守れるだろう……いいのか? まだ、引き返せる。母上を止めればいい」

「いいのかって何が」

「シオリ、俺は君を尊敬しているし、君の音を守りたい気持ちに嘘はない。だが……カイのように君を……泣かせることはできない」

「泣かせない方がいいでしょ!」

 ぶっきらぼうに答えたシオリは、軽く机を叩いて立ち上がる。シェードは太い眉をハの字に歪めて、じっとシオリを見つめた。

「君の心が揺れた時、君の音楽が深くなる」

「詩人じゃあるまいし、わかったようなことを言わないで」

 窓の外に広がる夏の夜は、すれ違う婚約者同士の歪な叫びを、闇の中に飲み込んだ。

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