12.休暇
明後日から学園の授業が再開する。着替えを詰める母を鏡越しに眺めて、シオリは呆れた声で言った。
「自分でやるって言ってるじゃない」
「お母さまにやらせてちょうだい。年に二回しかお世話できないのだから、いいじゃない。家政婦さんが準備までしてくれたんだから、詰めるだけなのよ」
「それこそ、私が……はあ、お母さまって世話好きだもんね」
諦めて苦笑したシオリは、自分によく似た母の頬の線を無意識に辿る。
「あなたの婚約が決まってから、お父さまったら毎日ため息ばかりついているのよ。ねえ、シオリ、モーガン家の方々は素晴らしいし、奥方様とも親しくさせていただいて問題もないわ。でも、結婚は一生のことよ。ここに戻って、好きな人と結婚してもそれはそれで幸せじゃないかしら。敷地の中に、小さなホールだったら作れないこともないわ。そこで演奏会を開いて、そうやって暮していくのもいいじゃない?」
将来について話し合うたびに言われ続けた提案だった。シオリは苦笑して肩を竦める。
「うん、ありがとう、お母さま。でも……私は大きな箱で演奏したいし、国中に私の音を届けたい。シェードは私の音楽をわかってくれてる。モーガン家以上の理解者はいないわ」
娘の答えは一片の曇りもないが、母の心配は尽きない。
「愛があるから乗り越えられたり、許せることってたくさんあるのよ? まだ、卒業していないし、お断りもできるわ。お母さまは、あなたたちの音楽だけで繋がる関係っていうのが危うく見えて仕方ないのよ」
「音楽だけじゃなくて、情もある……シェードは、いい人だし」
言い淀んだシオリを、母は最後まで心配そうな表情で送り出した。
心配そうな両親に送り出されて学園へ戻ったシオリは、到着した翌日、聖樹の森の温室に向かっていた。学園が所有している温室の格子枠に倒れた木が刺さって壊れてしまったらしい。
「ねえ、シオリ。私たちも温室へ行ってみない?」
「……ええ?」
「何かお手伝いできることがあるかもしれない。デビット先生にはお世話になっているから」
湿り気を帯びた草葉の匂いを感じながら、女子生徒二人で並んで歩く。学園に賊の侵入があって以降、女子生徒が一人きりで外出することは禁じられている。ナナーシュに押し切られて渋々同行した彼女は、温室に到着した途端に声を掛けられた。
「やっと、追いついた。マドセン嬢」
半袖のシャツに緩く緑のタイを締めたジェミルに、うんざりした顔を向ける。
「また……なんですか? 援助はこの前断りましたよね」
凍り付くような冷たい口調で先手を打ったが、彼は何故か笑顔を浮かべて一歩近づいた。ナナーシュは心配そうに様子を見守っている。
「やあ、彼だけじゃない……東方に誑かされているっていうのは、本当だったんだな」
彼はチラリとナナーシュを見た。
「何を……いえ、いい。援助の件、もう、本当に不要ですから。シェード・モーガンと婚約したから」
「モーガン……騎士科の」
「シェードのお父さまは議員だし、私の音楽活動への援助も約束してくれた。アンタの出る幕はない」
拳を強く握って怒りを鎮める彼女に、ジェミルのじっとりとした視線が注がれる。
「そうかな? ストックボーン家は、著名な批評家たちへも顔が利くんだ。君の交遊関係や悪評が広まったら、モーガン家の後ろ盾があろうが、まともに活動できるかな……だいたい、君の演奏は楽譜を無視したでたらめだと評されたこともあるとか」
「いい加減にして!」
鋭い怒声が零れ落ちる。冷静さを保とうと努力していた彼女だったが、最後の侮辱には耐え切れなかった。
「シオリ、落ち着いて」
割って入る機会を窺っていたナナーシュが、シオリの両肩を抱くようにしてジェミルから距離を取る。
「大きいだけの野蛮な騎士なんかより、僕の方が君の価値を理解できるっ」
焦って言い募るジェミルの声にかぶさるように、温室奥の扉が開く音がした。
「シェード」
シェードが女生徒二人の前に躍り出て、背負っていた鞄を下ろした。鞄は重たい音を立て、温室の土が僅かに抉れた。
「な、あ……」
シェードの大きな背中をシオリとナナーシュが固唾を飲んで見上げている。
「これ以上シオリを煩わせるな。俺は野蛮かもしれんが、このような場所まで追いすがる貴様よりましだ」
ジェミルはシェードの迫力に押され、ぶつぶつ小声で文句を言いながらも、温室から出て行った。
「どうしてこんなところにいるんだ」
振り返って開口一番、シェードが苦言を呈してくる。
「すみません、シェード。シオリは私に付き添ってくれたのです。デビット先生が温室の後片付けを買って出たと聞いて、私もお手伝いできたらって」
「いないようだが?」
機会を窺っていたのだろうか、扉が開いてデビットが姿を現した。いつもはきっちり着込んでいる上着ではなく、シャツ一枚で袖をめくりあげている。
「何かあったようだが、どうかしたのか」
教師の声は白々しく響いたが、ナナーシュは気づかないようだった。
「あ、先生、お手伝いに来たんですけど、招かれざる者がついて来てしまって……今、彼が追い払ったので大丈夫です」
のんきに状況説明をするナナーシュに、シオリは呆れてため息を吐く。気づいたシェードが苦笑して、シオリの背をそっと叩いた。
「スローリー先生、袖が……ガラスで怪我を?」
「ああ、これか。生徒の血だ、問題ない」
「まあ、誰か怪我をしてしまったんですか」
顔を曇らせて心配するナナーシュに、デビットが猫なで声で答える。
「教養科の子がね……ああ、そうだ、シェード、騎士科では応急処置を習っているだろう? 見てやってくれないか、あちらの王宮所有の温室との境近くの木の影で休んでいる」
「はい、承知しました」
彼は教師の頼みを二つ返事で請け負った。シオリは犬を追い払うような仕草で己の婚約者を追い払った。
「いいから早く行きなさいよ」
「貴族に嫁ぐのなら、もう少し口調を改めたら……」
シェードは一度頷いて見せてから、デビットに指定された場所へ向かった。
「ふふ、二人は仲良しなんですよ、デビット先生」
「ナナーシュ君、親しき仲にも礼儀ありだとは思わないか」
「まあ、先生、私はシオリの照れ隠しは可愛らしいと思います」
ずれた返答をするナナーシュに、デビットは困りつつも嬉しそうに目を細める。ナナーシュにだけ甘さを含んだ目を向ける教師を、シオリは気味悪そうに横目に見た。




