11.婚約
ダイが侮辱に耐え切れず、官吏科の生徒に腕力で反撃したらしい。チューターのシェードが呼び出された。兄であるカイも息せき切って飛んできている。野次馬に混ざって事後処理を眺めていたシオリは、人がまばらに掃けていったのを見届けてから、近づいた。シェードには音楽棟で練習の付き添いを頼んでいる。
「ねえ、まだお守りが終わらないの?」
「ああ、シオリ、待たせてすまない。一度寮に戻って着替えたいんだがいいか」
シオリは眉間に皺を寄せつつも同意する。騒ぎになって項垂れているダイ、心配そうなカイ、苦笑しているシェード、皆で連れ立って寮へ向かって歩き出した。
「叱られた犬みたい」
呆れて呟くシオリの毒舌に、カイが笑い声を上げる。
「ハハハ、ダイ、猿と犬、どっちがマシだ?」
「俺、どっちも嫌だ。人間だよ」
彼女の軽口に答えたことでか、ダイは元気を取り戻した。
「バイオリンの練習するの? 専門棟はもうすぐ使えない時間だろ」
「小ホールの……音楽棟の方を使える」
「ああ、でも、賊の侵入があって、音楽棟は新しい鍵ができるまで、一時閉鎖じゃなかった?」
カイの問いかけにシオリはチラリ彼を見て頷いた。
「騎士科と一緒だったら使える……ナナーシュが許可を取ってくれた」
「へえ、そっか、良かったな。じゃあ、シェードが忙しい時は俺に声かけてよ」
「すまんが、カイ。シオリは俺と婚約予定なんだ。音楽棟での練習だけとはいえ、二人きりは外聞が悪い」
カイが笑顔で近づこうとするのを、シェードが固い口調で拒絶する。
「ああ、そっか、婚約するんだ、ふうん」
驚いた様子もなく、カイは目を細めて声を低く落とした。
「それって、シオリがやたらと貴族たちに声を掛けられてたことと関係ある?」
「ある……俺の家だったら、シオリを煩わせず、バイオリンを弾かせてやれる」
淡々と事情を説明する幼馴染を、シオリは黙って横目で見やる。
「着替えてくる」
先に立って玄関を開けたダイに続いて、シェードも寮へ入った。シオリが玄関で待とうと壁に背を預ける横に、カイも並んだ。
「シオリはいつからバイオリンを弾いてるの」
「四つか五つか、物心ついたころには」
「そっか……シェードとも同じ頃に出会ったの?」
「師匠が同じだから、同門とでもいえばいいのかしら」
出会った頃の内気で大人しいシェードの姿が脳裏に浮かんだ。
「へえ、シェードってバイオリンを弾くんだ」
「幼い頃は私より巧かったわ」
思い出話に浸っているところへ、着替えたシェードが戻ってきた。
「早かったわね」
「もうちょっとゆっくり着替えてたら、シオリを独占できたのに」
「期待に沿えずすまない」
「ハハ、冗談だよ」
カイがシェードに見せつけるよう顔をのぞき込んで近づいてくる。焚きしめられた御香が薫る。シオリは胸のざわつきを隠すよう、彼の硬い腕を押しのけ、足元に置いていたバイオリンケースを抱え直した。
「アンタ、この前からちょっとおかしいわよ」
頬に血が上る。
「君たちの外聞が悪くならないよう気をつけるよ、じゃあ、シェード、ダイのこと、ありがとう。シオリの演奏を楽しんで」
彼女の抗議を受け流し、カイは笑顔で手を振って寮の中へ入って行った。
今にも雨が降り出しそうな曇り空の日、シオリは両親と一緒にモーガン家の門をくぐった。
「契約の詳細はこちらで決めるわ、シェードとシオリ嬢は、音楽室へ行ったらどう? バイオリンはないけれど、クラヴィーナだったら調律済みよ。二人で弾いたらいいじゃない」
子どもたちも交えて婚約と援助に関して触りだけ話した後、シェードの母が弾んだ声で提案する。煩雑な手続きの話は退屈である。シオリはありがたく受け入れて、シェードと一緒に音楽室へ移動した。
「廊下で待機しておりますので、何かございましたら、お呼びください」
付いて来たモーガン家の使用人が扉を閉めて廊下へ出ていく。彼女は詰めていた息を吐き出して、クラヴィーナに歩み寄った。
「弾くわよ、シェード」
バイオリンの次にクラヴィーナの音色を好んでいる。シオリは弾む気持ちを抑えきれずじっとシェードを見上げた。
「ああ、好きにしろ」
「アンタもよ」
「俺はいい……暫く弾いていない」
シェードは腕を組んでクラヴィーナの音を聞く体勢に入った。クラヴィーナの蓋を上げるのも、久しぶりだった。
「私もクラヴィーナは暫く弾いていないわ、けど、懐かしいわね」
発表会の練習で、上手く指が動かず何度も同じ個所を弾くシオリに、シェードは辛抱強く付き合ってくれた。
「いつでも弾きにくればいい。結婚したら、君もモーガン家の者だ」
「義兄夫妻がいるのに、そんなに頻繁に来れないわよ」
「兄も義姉も君の音楽を気に入っている」
低く変わってしまったが彼の声は、今も昔も優しく響く。バイオリンを弾き始めると寝食すらおろそかになったり、納得いかずに癇癪を起こしたり、気に入らない演奏をする相手には容赦なく文句を言う。扱いにくい子どもだったし、今もあまり変わらない。同門の子どもは多数いたが、親しくなったのは彼だけだった。
「ここにいたら私の音が濁らないのは、前から知ってたわ」
ため息交じりに零したシオリは、貴族で議員でもあるシェードの父が、息子と同じように、彼女のバイオリンを褒めた日のことも思い出す。降り出した雨の音がクラヴィーナと混ざり合う。暫くの間、モーガン家の音楽室には温かくも切ない音が響き続けた。
六月後半にある半月の休暇に入る直前、毎日の曇天にうんざりしながら、帰省準備をする。荷物を抱えて部屋を出たシオリは、廊下の奥に開いたままの扉と小さな背中を見つけた。挨拶すべく近づいた彼女の耳に、不穏な台詞が届いた。
「マイヤはしっかりした方に嫁いだと聞いたわ。あなたは何をしているの? オージュ家では妹君の素行に口を出したりなさらないのかしら」
「学園で留学生のお手伝いをしているだけで……実家に報告するような素行問題ではないです」
か弱い声で反論するミーヤは悲しげに部屋の中を見つめている。
「東方で支配階級だとして、それがこの国でどれだけの価値があると? ご両親はあなたが異国の馬の骨に熱を上げていると知ったらどう思うかしら」
「わた、私は、チューターとして、カイ様を支えているだけで……っ」
「オージュ家の次女は、シェン家の兄弟に纏わりついている。はしたないと噂にでもなったら、まともな縁談は望めないわよ」
シオリは廊下の端に荷物を置いて、わざと大きな靴音を立ててミーヤに近づいた。
「あ……シオリさん」
「留学生に文句があるのなら、世話係じゃなくて直接文句を言ったらどう?」
部屋の中をのぞき込んで抗議したシオリに、オリビアが小さく息を飲んだ。
「シオリ・マドセン……あなたとは話したくないわ、近づかないでちょうだい」
「私だって話したくないわよ。アンタの兄は気持ち悪かったし」
「な……あ、あなたが、兄上をたぶらかして……っ」
「本気で言ってるの? 官吏科の癖に現実を見られないのね」
鋭く抗議するシオリのブラウスの袖を、ミーヤがそっと掴んだ。見下ろすと彼女はゆっくり首を横に振る。
「あ、あの、オリビアさん、姉と親しくしてくださったことは、感謝しています。でも……私のことは、気になさらなくて結構です。行きましょう、シオリさん」
小動物めいた潤んだミーヤの水色の瞳を見下ろし、シオリは険しかった表情を元に戻した。
「そうね」
「東方だけじゃなく、マドセンとも繋がっているなんて、本当に嘆かわしいわ」
言い足りないとばかりに立ち上がって扉へ近づいてきた部屋の主を、シオリは美貌を凍らせて睨んだ。纏められたくすんだ金の髪を撫でつけながら、オリビアは胸を反らして言った。
「あなたのせいで、シェード殿は辺境へ追いやられるのでしょう? マドセンの毒針を刺された人々が本当に……哀れだわ」
ミーヤがシオリの手を強く握って引いた。二人は手を繋いでその場を去った。
帰省準備の途中で食堂に呼び出されたシェードは、婚約者同士の会話に同席しているカイに苦笑しながら切り出した。
「カイがいてもいい。隠すことはない、話とはなんだ」
「いいわけないでしょ、アンタの……進路のことよっ」
「ああ、それこそ、カイも知っている」
シオリは眉間に皺を寄せて声を荒げる。
「なんで私が知らなくてカイが知ってるのよ」
「シェードが入団試験の申し込みを貰っているところに出くわしたんだ」
シオリは昂ぶりを鎮めるべく、目の前に置かれたカップの取っ手を掴んだ。
「辺境騎士団を受ける。受かったら辺境へ行く」
冷静に宣言する婚約者の琥珀の瞳を一度だけ見上げて、シオリは落ち着きなく取っ手を弄ぶ。
「辺境でも演奏会は開かれるけど、大半はセリーナなのよ」
「知っている。シオリはセリーナに残ればいい。小さいが屋敷を準備すると母が言っていた」
驚いて目を見開いた彼女を、シェードは静かに見つめ続けている。
「どうしてわざわざ辺境へ行くの? すぐそこに王宮があるじゃない」
「王国騎士団の合格のために必須の授業を取っていない。辺境騎士団だったら今のまま受験できる」
声を大きくしようとしたシオリの太腿に、そっとカイの掌が乗った。音もなく跳ね退けて、彼女は眦を吊り上げた。
「来年まで卒業を延ばせばいいでしょっ、結婚だってそれからできるわよ」
「シオリはもう、学園でやることはないだろう? 学園にいたら音楽に関係のない授業も学んで、合格しなくてはならない。もっと音楽に没頭したい、そう言ったのは君だ」
「それは……そうだけど……」
自分のためだと断言されて言葉を失う。彼女の音楽活動のために、婚約という庇護を差し出してくれたことへの恩も返せていない。
「シオリのために辺境へ行くんだ? 結婚しても離れて暮らすってこと?」
カイが強引に会話に割り込んでくる。シェードは目を伏せて背を丸めた。
「そうだ。俺が不甲斐ないばかりにすまないと思っている」
シオリは言葉が見つからないまま、ただ紅茶を飲んだ。シェードもカップを手にしたまま黙り込んでいる。
「それって、政略結婚だと喧伝しているようなものじゃないのか」
カイは低く言い捨てて冷めた紅茶を飲み干した。図星を差されて、シオリは俯いてテーブルに視線を固定する。互いの家に利のあることだ、と淡々と告げたシェードの優しい琥珀色の眼差しを思い出す。
「シェード、君は、本当に彼女の音色を守れるのか」
カイの声は真摯で切迫した響きを帯びている。彼女はすぐ隣にある腕を掴んで止めた。
「やめて、アンタには関係ない!」
彼女は椅子を蹴って立ち、鞄を引っ掴んで抱えた。
「シオリ、冷静に」
普段蓋をして見ない振りをしている罪悪感が、首をもたげる。並んでクラヴィーナを弾いている小さな頃からずっと、シェードは彼なりの騎士道でシオリを守り続けている。婚約者の自然すぎる献身が彼女の胸に重く圧し掛かった。
「シェードがいいなら、辺境でもどこでも行けばいい」
険しい表情のまま立ち去る彼女の胸の奥は、消化しきれない澱に満たされたようだった。




