第五幕 切り倒された月桂樹の枝を(11)
昨夜から降り出した雪は止むことなく、午後には数センチ積もっていた。
タイガが入院し、ソラは外遊びを禁止され、紋が叩かれた。紋から聞いたわけではないが、赤くなった頬を見れば、何があったかはだいたい見当がついた。
紋には、タイガとソラの親が手を上げるタイプだと分かっていたのだと思う。
もしも俺がソラを家に送り届けていたら、平手打ちはソラに向かっただろう。新人とはいえ駐在所の警察官を叩くのはデメリットが多い。
暴力を振るう人間は、感情的にやっているようで、その実、相手を選んでいることが多い。
紋はソラとタイガに庭で遊ぶことを許していたが、必要以上に踏み込もうとはしなかった。それでも何かを感じ取っていたのだろう。タイガの付き添いを、俺に任せた。
前々から2人を気にかけていた大嶋が、児童相談所へ報告した。
今日、ソラが学校へ行っている時間に、母親は話を聞かれているはずだ。ソラは家に帰れない可能性が高い。
いつもの時間に紋の家の庭に入る。
ソラはいなかった。
月桂樹の木の傍で、紋がしゃがみ込んでいた。
近寄ると、足音に気づいた紋が顔を上げてこちらを見る。
紋の手のひらに、雪うさぎが乗っていた。
紋の足元に数匹、月桂樹の葉で耳を作った雪うさぎが既にいたから、かなり前から作っていたのだと分かる。
紋の隣にしゃがんで、落ちていた葉を2枚、紋の手の中の雪うさぎに挿した。
南天の実の代わりに砂利から大きめの石を選んで2つ、目の位置に埋めておく。
できあがった雪うさぎを目の高さまで持ち上げて、色々な角度から眺めたあと、紋は雪うさぎをそっと地面に置いた。
雪うさぎを見ていた紋が、月桂樹を見上げる。
「晄くん。これ、何の木か知ってる?」
「ん? 月桂樹……ローリエっていうほうが分かりやすいかも」
「ローリエ? インドカレーとかに入ってる葉っぱのやつ?」
「うん」
「これ、ローリエの木なんだ」
知らなかったらしい。
「葉っぱ、冬でも枯れないんだね」
「常緑樹だからね」
「だから目隠しに植えたのかな。よく分かったね、木の種類なんて」
「俺が育った家にもあったから」
「月桂樹って、ギリシャ神話ではアポロンの象徴だよね」
それは知らなかった。
「太陽王ってルイ14世だったかな? 太陽神アポロンの象徴が月桂樹だから、その枝で編んだ冠を被ってる肖像画とか残ってるんだって」
「紋は博識だね」
「なんかね、プログラミングやってると、神話に因んだ名前のついたプログラムとか製品名とかに出会うの。だからかな。そういうところだけ詳しくなる」
言いながら、紋は次の雪うさぎのために雪を集め始める。
そういえば、学生時代にサッカーの試合で優勝したとき贈られたのは、オリーブの冠だった。
月桂樹の冠は、芸術や知性の領域の成功者へ贈られるものらしい。
生け垣のように月桂樹が植えられた生家の庭を思い出す。
父親は確かに社会的に成功していた。その自負があったから、月桂樹を植えていたのか。
今の俺を見たら、父親は容赦なく落伍者のレッテルを貼って俺を捨てるだろう。
あの人にとって、財を成し、社会的に成功することは何よりも、家族よりも大切なことだった。
キャリアどころか、出世街道から外れた俺は、あの家を出て正解だったのかもしれない。
「プログラムって記号の羅列で味気ないから、神様にすがりたくなったりするのかな」
紋も、俺と同じように、あの場所で勝ち残ることをやめた側の人間だ。
この地で合流できてよかった。
「俺は昨日の夜、紋のピアノを聞いて、おたまじゃくしの向こう側に神を感じたけど」
「あはは」
紋が笑った。
義務教育期間に詰め込まれたおたまじゃくしの群れが、あんな音楽になるとは思ってもみなかった。
自分がおたまじゃくしに心を揺さぶられて泣くとも思っていなかった。
「昨日、紋が弾いてた曲、紋のお母さんのCDでも聞いた」
「……うん。お母さんのピアノ、綺麗でしょ?」
「生演奏聞いたことないから分からないけど、俺は紋が弾いたほうが好きだよ」
紋が目を丸くしてこちらを見た。
「駐在所で1人でいるときに紋が弾くピアノの音が聞こえてきて、安心したことがある」
毎日とは、恥ずかしくて言えなかった。
「私はピアニストじゃないのに」
「ピアニストじゃなくても、ピアノ弾くのはいいんじゃない?」
紋は自分の手の中で丸くまとまった雪を見る。
落ちている葉っぱを2枚、耳の位置に挿した。
「晄くんがイヤじゃなければ、気が向いたときに、聞いて」
紋が雪うさぎを地面に置いた。
黒っぽい石で目をつける。
「うん。楽しみにしてる」
昨夜、紋から届いたメッセージには『愛してる。ずっと一緒にいたいです』と書かれていた。
「あのね、晄くん。私、仕事うまくいかないかもしれない」
「なんで?」
「この土地のこと、よく知らなくて、お金にならない仕事選んじゃった」
「そう」
「うん。この家ね、市から借りてて、3年以内に仕事で黒字にならないと、追い出されちゃうの。だから、これからどうなるか分からない」
「厳しいね」
「うん」
しばらく待ってみたが、紋はそれ以上、言葉を続けるつもりはないようだった。
「贅沢しなければ、方法はあるよ」
「どんな?」
「俺が雇う」
「晄くんが? 私はどんな仕事すればいいの?」
「ハウスキーピングとか?」
「私、そんなに家事できないよ? 掃除も上手くないし」
「知ってる」
肯定したら紋がムッとした。可愛い。
「家の管理人兼、俺の話相手とかでもいいよ?」
「なにそれ」
「でもいいの? このままいくと、俺に囲い込まれちゃうよ?」
意地悪く言うと、紋が俺を見てから視線を落とす。
「いいよ。おばあちゃん家は、私の家じゃないし、家族もいないし。行きたい場所も、晄くんの隣以外ないから」
紋に、父親がいないことを今さら思い出した。
紋にとっての家族は、母親だけだったのかもしれない。
そう思うと、息苦しいような悲しさを感じる。
「じゃあ、遠慮なく」
紋を抱き寄せる。
ちゃんと俺の腕の中に収まった。この可愛い人の家族になりたいと思う。
ぱきん、と頭上で音がして、思わず紋の頭を抱え込んだ。
雪がばさばさと体に落ちてきた。本格的な積雪でなかったことが幸いした。
屋根からの落雪でもない。
月桂樹から落ちた雪が降ってきただけだった。
これがひどくなると雪害になるのか、と初めての雪国を体で学んだ。
「あ」
紋が声を上げた。
腕の中から抜け出して、雪の中から細い枝を拾い上げる。
「この枝が折れた音だったんだ」
「すごい音でびっくりした」
顔を見合わせて笑う。
「晄くん、怪我してない?」
「大丈夫。紋は?」
「大丈夫。晄くんが守ってくれたから。ありがとう」
紋がふわりと笑う。緊張が解けた、きっと俺にしか見せない特別な笑顔。
「晄くん、まだ時間あるなら、コーヒーでも淹れようか」
「うん」
紋が先に立って家に入っていく。
「紋、その枝」
「うん? 挿し木をしてみようと思って」
「挿し木?」
「たいていの木は挿し木で増やせるって森山さんが言ってたから、試してみようと思って」
紋は手の中の枝をそっと包み込んだ。
雪に折られた月桂樹の枝を、もう一度、根づかせるみたいに。




